はてなキーワード: 戦後とは
ちな、よく「あえて極論暴論を書くぞ(俺すごいだろ)」系の人が
ドヤ顔で語る「少子化対策のための女性の就労を禁止」は意味ねえぞ
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単なる目先の生活のためが圧倒的に大多数
経営者はみな頭を抱えることになる
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『市川房枝集』に収録されてる
1930年に書かれた『現代の婦人問題』という文章にはこうある
まったく見られないといっても差し支えはない。」
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黒澤明が戦時中に監督した国策映画『一番美しく』を見るとわかる
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そのころの大学進学率はせいぜい30%台な
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『「育児休職」協約の成立 高度成長期と家族的責任』(勁草書房)
という本によれば、1968年の専売公社職員の女性比率は43%(1万5600人)
平均年齢は35歳、平均勤続年数は16.4年、半数以上が既婚、82%が製造職
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東京商工会議所は女性の軽労働について時間外労働(1日2時間)の制限を撤廃
左翼フェミではなく資本の側が女性労働の制限撤廃を主張していた!!!!
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実際にあったのは「すでに働いてる女も男と同待遇にしろ運動」な
それが実現したのが1985年の男女雇用機会均等法なのだが……
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「この法そのものが、職場での男女平等を進める労使の合意によって生み
だされたものではなく、国連の婦人差別撤廃条約を批准するため政府が成
立を急いだという色彩が強いことから、「お役所仕事として、性急にコト
を運ばれては困る」(大手通信機メーカー)という批判も出ている。」
「西欧諸国の中には「安い女子労働で支えられた日本の集中豪雨的な輸出
が貿易摩擦を生んでいる」と非難する向きもあり、同省は「こうした誤解
――雇用機会均等法の成立は左翼フェミや労働組合の要望もあったが
俺も当時の事情を調べ直してこの辺の経緯を知ったら驚いたが
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という論旨なのであるが
***
いまだに定期的に
論者がくり返し何度も飽きずに出てくるが
悪いけど完全に的外れなんだよ
そういう人の最大の敵は左翼フェミじゃないんだ、資本主義なんだよ
ま、絶対に信じたくないだろうけどね
フジテレビの女子アナは、「○○パン」の愛称で呼ばれていました。
これは何を意味するのでしょうか。
戦後しばらくの間は日本本土は焼け野原で、食料も十分に得ることはできませんでした。
そして一人一人の売春婦を呼ぶときは、名前の後にパンをつけて「○○パン」と呼んでいたのです。
今回の話題は地方工場に関わる部分なので地方工場勤めへ限定して言うね
地方工場、特に自動車産業に関わる自動車完成車から部品サプライヤーに至るまで基本的に工場内へは社員食堂を備えているんだわ
社員食堂ではおおよそ500円前後で食事を取ることが出来、そして元増田が言及しているように数百円程度の食事補助が付く
そして、これもまた元増田が言及しているが独身寮があり、独身寮にも食堂が備えられていて、この時点で食費は東京都心を下回る
そしてその独身寮は家賃光熱費がゼロ、もしくは数千円で固定されている。既婚家族向け社宅も2万3万円ってとこだ。これもまた東京都心を下回る
基本的に独身寮や既婚家族向け社宅は工場の徒歩圏内にあり、そして徒歩では辛いところでは送迎バスが走っている
これは会社自身が社員へ支払う交通費を抑えるために行われていることで、実は自家用車がなくても通勤が出来てしまうんだよね
自家用車が必須になってくるのは子供が出来て以降で、独身の間は必要なかったりするんだ。実際に自動車製造工場で車を持ってない若い子はいっぱい居る
じゃあ次は既婚子持ちになると手厚い福利厚生で扶養手当や住宅補助手当が出るようになり、更に言えば自動車産業に勤めていることもあり自動車購入には社割が付くようになって、当然既婚者でも工場内の食堂で昼食は摂り続けることは可能でetc...
もう計算するまでも無いな?
製造業ってさ、日本の戦後で大量の敗残兵が帰国した際に仕事と家を与える役目を担い、その伝統が未だに息づいていて福利厚生として残ってるんだわ
新しい情報産業などが人件費をケチって福利厚生を薄くし、非正規を正社員登用したりせず使い捨てて無駄にリスキリングなどを発生させているが、JTCと揶揄される自動車産業は堅実に日本の若者の生活を支えてきた
そのことだけは覚えて帰ってくれよ
先日、友人に勧められ『機動戦士ガンダム』をみた。
知らない人だったら、この名前を聞いて拒否反応がでるかもしれない。
でも、僕も始めこれを聞いて拒否反応がでたが、意外と可能性を感じるいい作品だった。
まず、僕の自己紹介をする。
サイド2 ハッテに住んでいる。
ジオンは戦後 スペースノイドの盟主を気取っているが、ご存じの通りハッテは地球連邦寄りだ。
それを兵器にするために皆殺しにしたジオンを許せるわけがない。
でも、人を殺さなかった。
今は自治権も与えず、税金も高く、さらには人を殺すジオンの独裁だ。
こんなことを本国で書いたら憲兵にマークされてしまうが、連邦ネットワーク内の増田なら安心だろう。
さて、『機動戦士ガンダム』はサイド7に住んでいるトミノとかいうアニメ監督が作った。
サイド7はジオンから最も遠く、戦前はルナ2にも近かったから連邦関連の人が多く、戦後も連邦寄りだ。
なによりもシャアによる空襲を経験しているから、多くの住人はジオンを恨んでいる。
このトミノ監督はレトロフューチャー系のロボットアニメが作風で、20世紀の古い感じのテイストなんだ。
『機動戦士ガンダム』は史実を下敷きにしたIF戦記物なんだが、リアリティよりもこのレトロフューチャーテイストを選んでいる。
スマホもないし、妙に四角張ったモビルスーツのデザイン、そして過剰な作画崩壊(20世紀はよくあったらしい)演出など見る人は選ぶと思う。
まず、史実では連邦のV作戦で作られたガンダムをシャア・アズナブルが強奪して、連邦のテクノロジーをリバースエンジニアリングしてジオンの勝利に貢献したでしょう。
ガンダムはジオンのシンボルみたいなもんだけど、この作品では連邦のシンボルになっているんだね。
ここは、シンボルを無力化する意味ですっきりした。タイトルにもガンダムと付けているが、ジオンは敵だという作品のタイトルにしていることで奪い返してやったという気持ちになる。
強奪に失敗してから、連邦が巻き返していく物語なんだが、多くの人物が実在の人物なんだけれども、主人公は架空なんだよね。
アムロ・レイという少年がガンダムに偶然乗り、何度もピンチを潜り抜けていく。
IF戦記物だけでなく、このアムロ少年の成長譚とだけみても面白い。
何で子どもなんだよ。とか、子どもがモビルスーツに乗ってシャアを撃退できるわけないだろっていうツッコミはわかるが、これは少年が主人公になるレトロフューチャーロボットアニメの様式だそうだ。
ここからは、もう少し突っ込んだネタバレになるので、ネタバレ避けたい人はここで回れ右をしてほしい。
そしてシャアもニュータイプとして覚醒をして、アムロとシャアの確執へと発展していくんだ。
君たちならニュータイプという言葉を聞くとガンダム以上に拒否反応を催すだろう
だか、『機動戦士ガンダム』ではこのニュータイプを新たな解釈をしているんだ。
アムロとシャアの間にララアという少女が登場するんだが、ララアとアムロは一瞬の間にお互いを理解をするんだ。
選民思想のためのニュータイプじゃなくて、宇宙に出て人は遠くの人と誤解なく差別なく分かりあえる。
そういう強いメッセージを感じた。
確かにジオンは人を殺したが、仮に連邦が勝利をして、連邦内でジオンを抑圧するような軍隊を作って、コロニーに毒ガスを撒くとか逆のことをしてやろうと思ってもそれは違うよね。
皆人間なんだよと。
だから、ジオン、反ジオンの二元論を越えた反戦アニメだと感じたよ。
あと、少々のツッコミはある。
シャアが目立ちすぎる。
メインキャラでは数少ない実在の人物なのだが、監督はシャアが好きなんじゃないかというくらい優遇されている。
まあ、シャアは死亡しているので(生存説を唱える陰謀論はあるがwww)好き勝手出来るということもあるんだろうけどね。
逆にシャアの盟友であるシャリア・ブルはちょい役ですぐ死ぬという冷遇っぷりだ。生死が現実と逆転してるのは意図的なのかな。
あと、連邦のエースパイロットのセイラ・マスも出てくるんだが、これがシャアとの兄妹ってことになっている。
実際陰謀論で、ジオン・ダイクンの遺児で生き別れた兄妹説みたいなのがあるけど、クソヤバ陰謀論を引用するのはちょっと萎えたかな。
ちょいちょい実在の人物が出てくるので、一年戦争史詳しい人なら唸るかもしれないね。
こういうのギモンだったので調べた
これは今でも続いている、昭和平成よりは厳罰化されてると思うけど(無期懲役が実質終身刑になりつつあるし)
あとは言うほど変わっていない
以下同じ
戦後の賠償金支払い(ヴェルサイユ条約による賠償金)が大きな負担となり、その支払いに備えてドイツ政府は通貨を大量に発行しました。この通貨供給過多がインフレを引き起こし、最終的にはハイパーインフレに至りました。
https://www.y-history.net/appendix/wh1502-087.html
賠償金不履行を理由にルール地方を占領され生産力が低下しインフレーションが発生したとある。
推察だがwikipedia見る限り賠償金は物納も含まれてるので恐らく賠償を物納するために大量の通貨を発行して国内資源を買い漁り供給不足が加速したというのが実態で、通貨供給過多がインフレを引き起こしたというのはあまりに表面的な見方であるように思う。
高校無償化、奨学金あたりを考えると教育コストは間違いなく下がってるよねえ
塾とか考えると青天井だけど、それは昔も一緒だ
実質賃金が最近は少し下がってるから微妙だけど戦後からでみると上がってるから養育コストも下がってるよね
不思議だねえ
①AIに尋ねたら、"リフレ政策の支持者は、経済を活性化させるために中央銀行が無制限に紙幣を発行することが必要だと主張します。"についての増田の反論はその通りだそうな。
リフレ政策(リフレーション政策)とは、経済を活性化させるために、一般的には中央銀行が金利を低く保ったり、資産購入(量的緩和)を行ったりして、貨幣供給を増やすことを指します。つまり、リフレ政策の目的は、経済を刺激するために貨幣の供給量を増加させることです。
しかし、リフレ政策の支持者が「無制限に紙幣を発行することが必要だ」と主張することは、通常はあまり見られません。リフレ政策の基本的な考え方は、経済の需要不足やデフレを解消するために貨幣供給を増やすことにありますが、「無制限に」という表現は現実的ではなく、過剰なインフレを引き起こすリスクも伴います。
また、リフレ政策に対する支持は、無制限にお金を発行することを前提とするわけではなく、適切な貨幣供給の増加とバランスが求められます。過度に紙幣を発行すれば、インフレが加速し、経済に悪影響を与える可能性があるため、慎重な政策運営が必要です。
したがって、リフレ政策の支持者が「無制限に紙幣を発行するべきだ」と主張するのは、一般的には過度に単純化された主張であり、経済政策の実際の議論とは乖離しています。
②"1920年代のドイツでは、過剰な通貨供給がハイパーインフレを引き起こし、人々の貯蓄は一夜にして無価値になりました。"に対する増田の反論についてもAIに尋ねたが、「供給不足自体がインフレを引き起こす要因の一部であったとしても、過剰な通貨供給が最も重要な要因であるという点が経済史学者の一般的な見解」とのこと。
「過剰な通貨供給がハイパーインフレを引き起こした」という見解が、一般的には妥当とされていますが、反論も一定の理由があるため、その背景を理解することが大切です。
1920年代のドイツのハイパーインフレは、第一次世界大戦後の複雑な経済状況に起因しています。戦争の結果、ドイツ経済は壊滅的な打撃を受け、生産能力は著しく低下しました。また、戦後の賠償金支払い(ヴェルサイユ条約による賠償金)が大きな負担となり、その支払いに備えてドイツ政府は通貨を大量に発行しました。この通貨供給過多がインフレを引き起こし、最終的にはハイパーインフレに至りました。
反論の主張は、戦争による生産能力の壊滅とその後の供給不足がインフレの原因であり、通貨を刷りまくった結果として必要な物資を購入しようとした政府の行動が原因ではなく、インフレが生じた後にその対策として紙幣が大量発行されたという点に焦点を当てています。
実際、戦争での破壊的な影響と供給不足がインフレを悪化させたことは間違いありませんが、問題の本質はドイツ政府が賠償金支払いのために大量に通貨を発行したことにあります。通貨供給の増加は、インフレをさらに加速させ、最終的にハイパーインフレに至ったのです。供給不足自体がインフレを引き起こす要因の一部であったとしても、過剰な通貨供給が最も重要な要因であるという点が経済史学者の一般的な見解です。
反論は戦争後の供給不足と政府の行動を重視しており、これも一定の要素として理解できます。しかし、ハイパーインフレの根本的な原因は通貨供給の過剰であり、経済史学の観点からは「過剰な通貨供給がインフレを引き起こした」という見解がより妥当です。
こういった説明の妥当性について検証したければ、検索型のAIに聞けば根拠とした情報源も出してくれるわけだし、ほんと、会議にAIを同席させるのはもはや必須と思える。
フジテレビの女子アナは、「○○パン」の愛称で呼ばれていました。
これは何を意味するのでしょうか。
戦後しばらくの間は日本本土は焼け野原で、食料も十分に得ることはできませんでした。
そして一人一人の売春婦を呼ぶときは、名前の後にパンをつけて「○○パン」と呼んでいたのです。
ある日、東京の古い下町にある小さな時計屋で不思議な出来事がありました。店主の田中さんは、修理を頼まれた古い懐中時計を開けたとき、内部の歯車の隙間から一枚の古びた写真が出てきたそうです。それは昭和30年代の浅草を写したもので、着物姿の若い女性が微笑んでいました。
田中さんはその写真を見て懐かしさを感じ、近所の古老に見せてみることにしました。すると驚いたことに、その女性を知っている人がいたのです。その方の話によると、彼女は当時、浅草で人気のあった寄席で三味線を弾いていた芸者さんだったとか。
その後、田中さんは写真の持ち主を探すため、懐中時計を修理に出した客に連絡を取りました。その客は横浜の古道具屋で時計を見つけ、気に入って購入したそうです。写真の存在は知らなかったと言います。
興味を持った田中さんは、休日を利用して横浜の古道具屋を訪ねることにしました。店主の話では、その時計は10年ほど前に、ある老紳士が持ち込んだものだそうです。その紳士は、戦後まもなく浅草で写真館を営んでいた方の息子さんだったとか。
写真は結局、元の持ち主には戻らなかったそうです。しかし、田中さんの店には今でもその写真が飾ってあります。時々、古い浅草の思い出を語りに来るお年寄りがいて、写真の女性にまつわる様々な話を聞かせてくれるそうです。
その中には、彼女が戦後の混乱期に多くの孤児たちを助けていたという話や、後に海外に渡って音楽家として成功したという話もあります。真相は分かりませんが、今でも浅草の古い喫茶店では、彼女の三味線の音色を覚えているお年寄りがいるそうです。
人は良いけどリテラシーの無い善良なタイプの中年・老人が好みそうな嘘エピソードを延々と製造できるプロンプトを作ってしまった
東京の有名私大卒の、診断済みのASDとADHDの併発だが、この特性のせいで他の人と交流がうまくいかない。
例をあげると、仕事でこの作業をやった?って言われると、反射的に「やりました!」と言っちゃう。もちろんやってないんだけど。それで注意されると「高卒の癖に、底辺大の癖に」とか口から出る。(そして事実だから悪いことだと思ってなかった。)自分がパワハラを受けていると人事にメールを何回も送ったが、左遷されて高卒1年目がやる仕事を何年も任せられている。
唯一そんな私にずっと付き合ってくれるのが大学時代の金持ちの先輩。(底辺私大卒の上司に怒られる不幸を怒らずに丁寧に聞いてくれて、一年かけて学歴で人の上下をつけてはいけないと納得させてくれた)いつも映画に誘ってホテルのレストランとかロイホとかのご飯をご馳走してくれる。先輩は唯一の友達なので、付き合いを大切にしたい。しかし誘ってくれる映画が、つまんなくて苦痛なんだなこれが。
先輩が言うには「漫画でも、フィクションに触れることで人生の練習になる。」と言うが、漫画はどのコマが続きか分からないから読めないしそんなものにお金を払いたくない。
映画も何が良いのか分からない。先輩の映画の趣味がクソだと思っていたが、これは私側の問題かな?と思うようになった。みんなどう映画を楽しんでるの?映画で人生豊かになるって本当?
インスタに映画館の写真あげて、面白かった、深い話だったって書いてるんだけど、それは文学部卒の文化人っぷりと美味しいご飯を食べてる自慢の為で、内容は殆ど理解してない。
パーフェクトデイズ→女性の描き方がクソ
哀れなる者たち→目がチカチカするし長い。何が言いたいのか分からない。
オッペンハイマー→序盤はプロジェクトXみたいで面白かったが長くて寝た。
例外はゴジラで、戦後舞台のやつも小泉進次郎主役のやつも面白かった。ウルトラマンはセクハラの描写が駄目。仮面ライダーはまあまあ。
え、自分で掘った穴を自分で埋めたならそれってマイナスをゼロに戻しただけじゃないの?
発達障害だって生まれつきマイナスに振り切れてるけどそれを努力してゼロに戻しても誰も褒めたり尊敬したりしないよ?
むしろ自分がゼロに戻す努力をしてる間に周囲はもっと努力してるから「お前はなんでゼロなんだ」って叱られるまである
しかも戦争は生まれつきの障害じゃなくて自分たちで起こした悪さじゃん
受刑者が刑務所で「私はこんなに努力してるのに普通の人間は甘えてる」っていってたら「一理あるな」って働く人間は思うのかっていう
入社試験でもそうじゃん「私はこんなに苦労しました」ってつらつら言い続けてたらお祈りされるよ。確実に。
要するにさ甘えてんだよな。
マスコミの監視なんか、あちこちで普通にしてるじゃないか。民間監査団体を作ったり倫理規定を作ったり監査組織を作ったりどこの国も創意工夫を凝らしているよな。
日本以外の国で見るニュースはとても面白い。日本以外の国で見る政治放送には熱を感じる。日本以外の国で話す街の人との床屋談義には人類が哲学を大切に繰り返し語り継いできたことを感じる。学問としてではなく生きた思想として社会に語り継がれていることを感じる。外国人はみんな暇で仕事してないと言いたいのか?日本よりも平均年収は高いぞ?
必ず全てが上手くいくわけでもないが、挑戦なくして成功もない。あらゆる試み、民間共に努力をする姿勢に敬意を持っている。
お前はそれを後退と呼んでるかもしれんが。
様々な理由でデモやボイコットで世の中は変化してきたよな。根強い黒人差別を減らしたのは何だ?途上国とのアンフェアなトレードを減らしたのは何だ?新興国に工場を建て劣悪な搾取労働の常態化を減らしたのは何だ?
デモやボイコットを起こしてきた人々は仕事をしてない暇人なのか?
そんなわけないよな?金をもらってる人もいるが、寄付してる金持ちがいるだけだ。みんな仕事もしてるし子供もいるし学校もある普通の人だ。みんな忙しいよな。話を聞いたか?腰痛がひどい人も持病持ちの人も貧しい人も親が入院してる人も参加してるよな。辺野古だって毎日座り込みしてる人がいるんだろ?何故か?
社会に対する責任感だよな?隣人を助けるためだよな?社会正義に責任を感じてるからだよな?
外国人はみんな暇で仕事してないってか?タクシーやウェイトレスも参加してるよ?
タクシー運転手やウェイトレスは分業だからデモや政治活動には参加できない選挙も行けないってパリの真ん中で叫んでみろ?恥を知れと言われるぞ?
近代から現代にかけての世界的な労働や取引の倫理的改善はその多くの人たちの努力の結果だよな?
「最近の日本は厳しくなった」、「近代化した」「ハラスメントと騒がれるようになった」、全部彼らの作った成果にフリーライドしてるだけだよな。
基礎理論を作ったのは学者かもしれんが、社会が変わったのはそこの国民たちの力だよな?
日本人と話してると基本的な政治知識のなさに驚くよ。幼稚園児でも知ってるようなことを大の大人が知らない。「バカ」というのは哲学と政治に敬意を払わない奴のことを言うんだよ。よい大学に行けない奴や会社で他の奴らと馬の合わない奴のことじゃない。くだらない。人の悪口としょーもない承認欲求と中身の薄い社会規範の話ばかり。日本人の話は本当にくだらん。建設的じゃない。社会と市民という視点が全くない。こんな異質な異常な独特な世界観だけをサンプルにして民主主義を語られても説得力がない。
日本のバカどもは家の窓から旗を垂らすこともできないのか?日本人は京都にしか住んでないのか?祭りやイベントで曲を流すこともできないのか?南京大虐殺の日にパレードもスタンディングもしないのか?
技能実習生をいじめておいて、入管で殺人しておいて、足りぬ足りぬは工夫が足りぬはどこにいった?
やれ民主主義は無理だ、やれ近代化の放棄だ、バカじゃねえのか?
「弱者は見捨てろ、誰かが苦しんでても俺のせいじゃないから関係ない」のどこが近代なんだよ。中世の間違いだろ。
その「模索してる国と国民」を私が一度でも否定したか?模索してないだろ、日本人は。またフリーライドするつもりで保守保守言って屁理屈捏ねて正義がないだけなのを正当化するのはやめろ。
「俺は答えを知っていて、他の奴は知らないからアホ」なんてどこで言ってんだよ。「御託だけ並べて何もできない理由だけはすぐ見つけて正当化するだけの人類のクズだな世界の船にお前らは要らねえ船降りろ早く沈めよ」しか言ってねえよ。
血で民主主義を獲得した人たちに比べてバカで能天気だよ。「もっと完璧な理想の民主主義があるはず〜」とか寝言言ってるバカなのは事実だろ。
政治学部卒のお前ですらそうなんだしな。一般人はもっとそう。紛れもない事実だろ。
日本に対する世界の軽蔑を甘く見るな。日本人個人にわざわざ言ってこないだけだ。お前らと同じ地球人だと思われることが恥ずかしいわ。
CIAはたぶん興亜院アヘン産業を支援し、農民はアヘンを作り始め
米軍はそのアヘン撲滅の名目で中国を支援し戦後は日本の農地を改革し
グレッグ・ベア「鏖戦/凍月」。
室井光広「おどるでく」
エリザベス・キューブラー・ロス、デヴィッド・ケスラー「ライフ・レッスン」★★★
福永文夫「日本占領史1945-1952 - 東京・ワシントン・沖縄」★
平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラール 「日本語・琉球諸語による 歴史比較言語学」★★
しみけん「SHIMIKEN’s BEST SEX 最高のセックス集中講義」
中野京子「怖い絵 泣く女篇」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 1」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 2」
1000decillion「Morals under a pagoda -Rome-」(同人誌)
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 3」
「カルダー:そよぐ、感じる、日本」於・麻布台ヒルズ ギャラリー
「夏の優品展 一味爽涼」於・五島美術館
ジェイムズ・ポスケット「科学文明の起源: 近代世界を生んだグローバルな科学の歴史」
大石力「英語の発音と綴り-なぜwalkがウォークで、workがワークなのか」★★
ビル・ブライソン「人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか」
鶴見香織 (著), 尾崎正明 (監修)「もっと知りたい東山魁夷 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
荒木健太郎「雲の中では何が起こっているのか」
小谷賢「日本インテリジェンス史-旧日本軍から公安、内調、NSCまで」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 4」
柊タイガー「よんこま十三機兵防衛圏!! こちらセクターX 3」
「感覚する構造 – 法隆寺から宇宙まで –」於・WHAT MUSEUM。
「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」於・国立西洋美術館。
塚﨑朝子「新薬に挑んだ日本人科学者たち 世界の患者を救った創薬の物語」★
保坂直紀「地球規模の気象学 大気の大循環から理解する新しい気象学」
古川武彦・大木勇人「図解 気象学入門 改訂版 原理からわかる 雲・雨・気温・風・天気図」
小川晶子「アート・ビギナーズ もっと知りたい竹久夢二 生涯と作品」
古川武彦、大木勇人「図解・天気予報入門 ゲリラ豪雨や巨大台風をどう予測するのか」
老川慶喜「日本鉄道史 幕末・明治篇 蒸気車模型から鉄道国有化まで」★★
肋骨凹介「宙に参る」一巻~四巻
「丸沼芸術の森所蔵 アンドリュー・ワイエス展 ―追憶のオルソン・ハウス」於・アサヒグループ大山崎山荘美術館。
山本紀夫、稲村哲也・編集「ヒマラヤの環境誌 山岳地域の自然とシェルパの世界」★★★。
坪木和久「激甚気象はなぜ起こる」
老川慶喜「日本鉄道史 大正・昭和戦前篇 日露戦争後から敗戦まで」
羽田正 「増補 モスクが語るイスラム史: 建築と政治権力」★★
老川慶喜「日本鉄道史 昭和戦後・平成篇 国鉄の誕生からJR7社体制へ」
細田亜津子「雲の上の哲学者たち - トラジャ族が語りかけるもの」
小和田哲男「戦国武将の手紙を読む: 浮かびあがる人間模様」★
「異常気象と気候変動についてわかっていることいないこと (BERET SCIENCE) 」
1000decillion「Morals under a pagoda -China-」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda -Medieval Europe-」(同人誌)
挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」於・国立博物館
桝屋友子「すぐわかるイスラームの美術 建築・写本芸術・工芸」
ニック・カルーソ、ダニー・ラバイオッティ「動物学者による世界初の生き物屁事典 ヘビってオナラするの?」
1000decillion「Morals under a pagoda -Islam- イスラム」(同人誌)
「平安文学、いとをかし 国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」於・静嘉堂文庫美術館
朝倉文夫没後60年特別展「ワンダフル猫ライフ 朝倉文夫と猫、ときどき犬」於・朝倉彫塑館
「建築知識24年7月号 新石器・古代王朝から清朝まで 中国の建物と街並み詳説絵巻」
山崎晴雄、久保純子「日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語」(再読)。
山本高穂、大野智「東洋医学はなぜ効くのか ツボ・鍼灸・漢方薬、西洋医学で見る驚きのメカニズム」★★
藤岡換太郎「三つの石で地球がわかる 岩石がひもとくこの星のなりたち」
溝口優司「[新装版]アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」
藤岡換太郎「フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体」
黒田泰三「もっと知りたい長谷川等伯 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) 」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ 5」
いがらしみきお「ぼのぼの人生相談 ひととくらべちゃダメなのさ」
特別展「文永の役750年 Part2 絵詞に探るモンゴル襲来―『蒙古襲来絵詞』の世界―」於・國學院大学博物館
良い一年だった。
数世代の女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシア=マルケスはコロンビア人で、アジェンデはチリ人。
しかし、女性の物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元の女性を強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛は強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。
同じく、よしもとばなな「アルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力を表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。
書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずかしか触れられない。
道徳的な理由で表現が規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。
ブルース・チャトウィン「パタゴニア」を読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地にしかない暮らし、風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリアを舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物に名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。
カルロス・フエンテス「老いぼれグリンゴ」はあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ。
フエンテスは短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。
ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明と自然を対比させるために(?)読者に理解しやすいロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台はロビンソンが島そのものとの性交で子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォーの原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。
M・G・ル・クレジオ「黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルのサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷も家族も恋人も黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である。
ル・クレジオは難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的に盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。
一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義のシリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実か虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界を舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語で創作されているんだけれど、最後にロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話。
難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的に過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。
で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女を連想できないタイプの女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。
フョードル・コンスタンチノヴィチに向かってうら若い、牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなくジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧なものをジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのである。もっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。
僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしまう作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときにパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。
とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。
なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章のリズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。
少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセスを現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知な相手を自分の利益のためだけに利用するのは邪悪の定義に当てはまってしまうしね。
おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実の少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女と思春期の頃に出会えるはずはないし、自分の問題は自分で解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女の恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子は自分自身の鏡像、ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである。
(どうでもいいけどウィキペディアのロリコン写真集の記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)
ピンチョンはよくわからない。陰謀論をネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコ「フーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考をちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論はネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。
エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分はキリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代のアメリカのポップカルチャーや現代のエンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ。
文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。
三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれの少年が主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性と恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。
そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台が現代日本でなければ別世界のファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代が舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスとクロエ」だけじゃなくてコレット「青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹「海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまり好きじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇だからってのもある気がする。
話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為のあいだならエロ漫画の主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化の魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから、自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラがモテても、ちっとも面白くないのである。しかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説のダメな人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯のウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき、主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。
少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテて複数の女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったものは理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。
続く。
何か今年○○のマンガ10選とかいうのがあったので、遅ばせながら俺も書いてみる。
色々世間的には不評なんだが、俺はベスト3の中で一番好きだったりする。
何せ「明るいガンダム」を目指した結果があれだぞ。
実際明るかったし。
前作Ζガンダムでエゥーゴとティターンズ(ジュピトリスを含む)、ネオ・ジオンが争って残ったエゥーゴ(地球連邦軍に編入)とネオ・ジオンが戦う話
とりあえずつよつよガンダムでΖΖ作ってみたよ、アーガマ単艦でネオ・ジオン叩いてねという無茶ぶりな内容
えらいざっぱだけど、書いてみてなんか無茶苦茶だよな……改めて考えると。
最初の10話(アーガマ入港~ジュドー達の生活描写)は結構コロニー内の生活がどんなものであるか、という生活感の描写が多くて他の宇宙世紀ものにはなかなかないのよね。
ジュドーの両親は税金が払えないので他のコロニーへ出稼ぎに、妹のリィナは頭がいいので山の手の学校に進学させてやりたい、だからジャンクや稼業で稼ぐんだ、という描写もありなかなかハードである。
アムロ(親父が連邦の技術士官)、カミーユ(両親が軍勤務の技術者)と金銭・経済・教育的に恵まれているのに対して、ジュドーは持ち前の活力をを生かして金を稼がないといけなかったということも評価して欲しいのですよ……
そしてコロニーの市長はネオ・ジオンからの賄賂を受け取り……等、まあ何かと戦闘描写よりもそういった細かい描写を見ていくとなかなか腑に落ちるものがあるのではないか、と。
例えばシャングリラで補給中のアーガマで食料搬入の際に生きた鶏を運んでたりするんですね。
艦内でどうやって処理するんだろう……と気になったりするんですが。
また月面のグラナダでアーガマが補給に寄った際の「泣き虫セシリア(前・後)」なんかも見ごたえのある内容である。
描写的にヤングケアラー(当時そういう言葉はなかった)らしいセシリアが一家の家計を支えていて(雰囲気的にそんな感じではある。親父はアル中っぽい?)、ゴットンにそそのかされてアーガマの入港している港を教えるスパイ的なことをさせるのは今の闇バイトみたいなのにも通じているよなあ、と思ったり。
その現場をジュドーとエルが取り押さえて、幼馴染のトーレスがいなすのだが……。
そしてゴットンからもらった報酬のトランクが……そしてそのトランクを……と。
無事ネオ・ジオンの船が片付いて、セシリアが乗っているのを見送ったシャトルが無事出港しているのを見てトーレスが「良かったな、セシリア!! 運が向いてきたんだよ!!」と。
明るかったろう……ゴットンの乗った輸送艦が爆発して……
他にもネオ・ジオンに誘拐されていたリィナをジュドーが救出して、負傷していたリィナを休ませていた小屋にジュドーが撃破したドワッジが墜ちてしまい……
35話の「落ちてきた空」もなかなか胸に来る内容である。
サイド3を占拠したネオ・ジオンがダブリンにコロニー落としを敢行。
連邦軍は宇宙で止めることもしないでそのままコロニーはダブリンへ。
そしてダブリン市民の救出活動に向かったのはアーガマとカラバのアウドムラ「のみ」。
地球連邦軍は何もしない、お偉方はとうに逃げているという状態で……。
そして一瞬映る病院船……その後救出活動を妨害しているネオ・ジオンのラカンのザクIIIが映って画面が光るという……
Ζも結構理不尽描写が多かったけど、ΖΖはより分かりやすいという気がしないでもない。
個人的には砂漠編を終えてブナ屋敷をブライトが訪れた辺りがとっても厭な感じで好きなんですよ。
あの辺りはプルがいなかったら作品の清涼剤としてきつい。
けど、そのプルも……もういいよね。
それ故に最後のジュドーがブライトを殴るシーンは……来るものがある。
後、おまいらの好きなかわいい女の子キャラが現役で通じるような子ばかりじゃないですか。
ポニーテールだしw
それに型落ちのMk.IIで無双だぞw
ルーもシゴデキ女だけど、エルもシゴデキ女だと思う。
けど、人間的に一番まともなのがリィナなんだよなあ……コア・ファイターの操縦もできるし。
というか、ガンダムヒロインの中でまともな女性キャラ選ぶとなるとリィナかリィズじゃあないかなと思う。
まあ何がともあれ、ΖΖは再評価してもらいたくはある。
アムロとジュドーが邂逅して、最後のシャトル発射シーンでのやり取りがあそこが最高にいい。
MSはGM IIIとドーベン・ウルフがカッコいいと思います。
しかし、あの頃手書きでよくあれだけの作画を週間でこなせたよなあ……
どんなストーリー化というと「ガンダムでラピュタをやってみた」。
ラピュタってどんな話かっていうと、「少年がお姫様の女の子を助けに行く話」じゃない。
それをガンダムでやってみた。
そう思ってる。
そしておまいらの大好きなきれいなおねーさんがたくさん出てきて大活躍だ!!
大活躍だ!!
それだけでなく、ガンダムお約束の敵と味方とが心判りあう瞬間もあるぞ。
「これは壊しちゃならない。これは、人類全部の宝だってことを、アンタだって知っているだろう!!」
「褒めてやる」
ね?
……ね?
他にも色々印象的なシーンは数知れず。
今まではガンダムを作っていたのが父ということが多かったんだが(1st:テム・レイ、Ζ:フランクリン・ビダン)、今回はF91に続き母がガンダムを作るという。
どこかでちらっと読んだんだが、Vガンダムは女性の社会進出を意識して描いたと。
バブル崩壊以降の情けない男性と、その中で女子供が奮闘する姿を、と。
そういうことを考えると女性がガンダムのエンジニア、というのもありなんだなあ、と。
なお、第36話「母よ大地に帰れ」。
見てください(予告でシャクティが言っているし)。
そしてそのまま第40話「超高空攻撃の下」まで駆け抜けるんだ!!
ラゲーン基地でマチス・ワーカーの家族と出会ったしまったウッソは……そして夜間に空襲を受けるラゲーン基地からマチス・ワーカーの奥さんと子供を避難させるためにカサレリアに連れて行って……
もうこれでもか、という展開にもっと評価されてもいいと思うんですよ。
最後のリーン・ホース特攻はだらしない大人たち、老人たちが始めた戦争の後始末、と解釈している。
「軍は有給休暇をもらえるところだと思っていた」というゴメス艦長がリガ・ミリティアに参画して、だらしない大人の男たちの象徴であった面々が後始末のために、と。
Vガンダムに関して思うのはウッソとシャクティの描写が幼馴染とか恋人同士というより、「夫婦のそれ」感がするのは俺だけか?
カルルマンもいるし。
「「どっちがきれいなお姉さんなんだい?」」
「違います!!」
特に最後のシャクティとカテジナとの邂逅のあのやり取りは奥さんみしかない。
まあ「カテ公だわ!! あんなことして生き延びやがって!!」で(ry でないだけマシだがw
副読本で「いけ!いけ!ぼくらのVガンダム」を置いておくことをお勧めします。
その他色々見どころはあるんだけど、Vガンは語りだすと長くなるのでこの辺で切り上げ。
これは劇場版ではなく13話全話見て欲しいなあ。
ストーリーを簡潔に言うと、
ジオン残党の排除を目的にガンダム開発計画で核兵器搭載型ガンダム作ったらパチられてえらいことになった
以上。
いやあ……色々あるけど、13話の中できちんと初代~Ζの間の中できちんと辻褄が合うようにきちんと考えた内容なんだよなあ。
どこぞやの謎パワー連発のガンダムと違って。
サ〇コフレームと言えば何でも許されると思うなよ(謎)。
最近ではデラーズフリートなんて単なるテロリストじゃんという風潮があるけど、それに対しては後付けになるがこれを言いたい。
「グローブという街があった」
これは後付けだが、それ以外にもジオン共和国内等で類似の事があってデラーズフリート内にも話が届いていたのを……と考えたらどうなのだろうか、と。
そう考えるとデラーズフリートの決起も理解できるのでは……と思わなくもない。
それがいいとは思わないが。
13話だしサクッと見られるしね。
バニング隊長色々あるけど、いい年の取り方をしたおじさんキャラとして描かれているし。
なお、俺はヒロインはルセットさんに交代した方が良かったんじゃあないかなあ、と思う。
(※上記文章は何が言いたいかはご察し下さい……ご察し下さい……これ以上書くと(ry)
ルセットさんきれいだったよなあ……どうして……どうして……
デラーズフリート側も何だかんだと言って俺は好きなんですよ……デラーズ閣下も、ガトーも、カリウスも、ノイエン・ビッター少将も。
己が正義を通すための意地、と。
シーマ様はドラマCDとかで補完されているらしいが、未聴なので判断は保留にさせてください。
富野監督が「こんなもん作りやがって!!」と怒ったとかなんとか真相はいかに。
御大が怒るのは……もういいよねw
一年戦争時中立コロニー群サイド6の「リボー」コロニーで起きた戦争をアルフレッド・イズルハの視点で描いた作品
全6話と短いので初めての人にもおすすめ。
取り合えず、ジオン側的には「新型ガンダムが出来たんだけど、それパチるか壊さねーとやべーから中立コロニーでドンパチやるか」
連邦側は「俺達戦況有利だし、戦後の後始末あるからコロニー内駐留していいよな? ン?」
まあ……こんな感じでしょう。
ジオンのザクカッコいい!! と思っていたアルがバーナード・ワイズマン(バーニィ)、クリスチーナ・マッケージ(クリス)と出会い、一生忘れられないクリスマスを迎えるという……
作品内容がクリスマスの季節なので、24日に合わせてみることお薦めします。
後戦時の食糧事情とかも描写されていてなかなかコロニー生活の実態が、と。
某VTuberが24日に合わせてみていたなあ……今度も見る人出るんだろうか……「最近ガンダムって面白いの?」って訊いている某VTuverがいるんだが。
是非クリスマスに合わせてY民(仮名)さん達と見て欲しいなあ……。
……もう、いいよね。
個人的にはMSをピックアップすると、ケンプファーのカッコよさも悪くないんだが、寒冷地ジムや量産型ガンキャノンがカッコいいと思うんですよ。
そしてこの作品の一番俺が推したいのは毎回流れるエンドロール。
これは絶対飛ばさずに見て欲しい。
なんか年末YouTubeで流すらしいから、是非見て欲しいと思う。
あー、みんな大好きΖガンダム。
盗んだガンダムで走り出す17の昼さ「一方的に殴られる怖さを教えてやろうか!(ズバババババッ) ハッハッハッ!!」
あー……何かストーリー書くのめんどくさくなったので、だれか頼む。
「サボテンの花が咲いてる」
とか
「もう一度言ってみろ、カミーユ!!」
だっけ、まあ主人公サイドだけでも何かとボコボコやってましたね。
「今の私はクワトロ・バジーナだ。それ以上でもそれ以下でもない」
後、ジェリド君、やたら機体落とされるよね。
後はやりダカール演説がないと何故エゥーゴとティターンズが戦っているのかが不分明なので、やはりTV版だな。
MSの評価としては、やはり百式+メガバズーカ・ランチャーじゃあないかと。
「機動戦士」を外してアナザーガンダムの嚆矢となったガンダム。
まあ当初は滅茶苦茶叩かれました……叩かれていました……こんなのガンダムじゃあねえ……と。
けど、12話以降空気が変わって……45話実質最終回を迎えては……!!
先々週45話サンテレビで放送していたんで見たんですよ……最高ですね。
ストーリーとしては
武力戦争で政権取っていたら人類破滅するから、ガンダムファイトで4年ごと優勝国家が政権担おうぜ、という国際ルールで決められた平和な世界
とまあスポーツの祭典的な決め方ではあるんだが、そこに渦巻く表に出ない闘い、陰謀、思惑が……
そして45話が実質最終回だと思う。
あの悲しみに満ちたマスター・アジアの拳……人を思い、絶望し、導き出した結果……そして最後には……
最初は散々「ガンダムじゃあねぇ」とか言って叩かれていたけど、東方先生の叫びを聞いて「……ガンダムだっっ!!」と。
ドモンが途中で「もうあんたのことは師匠とは呼ばない!!」とか言っていたのに、時折漏れる「師匠!!」と言ってしまうツンデレぶりを見るのも楽しいぞw
後、タイトルでストーリーが判るので安心してみることができます。
この三作は全て見てようやく全てが繋がる、という感じで。
もしくは無印だけでの完結か。
大まかなストーリーとしては、
遺伝子操作技術が進化し、人工的に優性遺伝で作られた人類(コーディネーター)と自然遺伝妊娠に基づく人類(ナチュラル)が互いの尊厳をかけて戦争をする
というなんか人類的にありえそうだよなあ……という怖い内容と俺は思う。
で、まあそんな中地球連合側(基本的にナチュラルで構成されている政府)側のGメカ4機がザフト(コーディネーター)側にパチられて、残った一機を民間人だったキラ・ヤマトが操縦してザフトと戦っていく……そして戦っていく相手は親友だったアスラン・ザラと相まみえて……どうすればいい、と言いながら模索していくという……
なかなか殺伐とした内容で、キラが親友の彼女を寝取る(2回)とか、連合兵が降伏しているのに「ナチュラルの捕虜なんていらねえぜっ!!(ズババババッバッ)」とか……結構うん、アレな感じ。ウン。
だから他のガノタから「治安コズミックイラ」とか言われるんだよw(※他も大概酷い)
無印は無印でいいんだけど、Destinyがねえ……オーブで中立を保つキラをはじめとするアーク・エンジェル群がきれいごとの言い過ぎ且つ戦場にしゃしゃり出て混乱を生み出しているだけ感があるんですが、後半になってザフトに戻ったアスランが追放されている姿を見ていると、もうカオス感しかねえ……と。
そして、DESTINY(HDリマスター版)のラストでキラが「僕達は……また花を植えるよ」という抽象的な言葉で占められてモヤモヤ感が……それを抱えたままの感想でしかなかった……
劇場版の話を聞いて幾星霜。
約20年後に狼煙が上がって、まあ今更作ってもかよ感しかもって思ってなくって、香典を供えに行くか、と思って見に行ったら「祭り発生!!」のFREEDOM。
いやあ……7回ほど見に行ったねw
ストーリーについては……もういいいよね。
ファウンデーションという新しい国が好き勝手やって「分身はこうやるんだあぁっ!!」で終わるという。
意味不明だが後半戦はそんな感じなのよ。
ラクスが寝取られそうになっていて思ったけど、「やはりNTRは滅ぼすべき文明!! 青き正常なる世界のために!!」と。
アスランのMS登場シーンが最高で、あのシーンは屈指の名シーンですわ。
見た人のほぼ9割はあのシーンは良かった、と思っていると思うw
まあ、見れw
続き
以前「夏目漱石「月が綺麗ですね」の元ネタを遡る」という記事を書いたのだが、いろいろ追記することがあったので改めて整理しなおそうと思う。
大雑把に言えば、この「夏目漱石が I love you を月が綺麗ですねと訳した」という話は、
に分解できる。ひとつずつ追っていこう。
まず、夏目漱石は「I love youは日本語にない表現である」と書き残している。これは漱石のイギリス留学時代である1901年から1902年にかけて書き留められたメモ書きの一つで、ジョージ・メレディスの『Vittoria』という小説に言及したものである。ただし、この台詞はヴィットリア(Vittoria)がラウラ夫人(Signora Laura)に向けて言った台詞なので、恋愛の「I love you」ではなく親愛の「I love you」である。
formula ノ差西洋日本 “I will excuse myself to you another time,” said Vittoria. “I love you, Signora Laura.”――Vittoria p. 113. 此 I love you ハ日本ニナキ formula ナリ.
1908年の『明治学報』に掲載された、上田敏の「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにも、同様に「I love youは訳せない」というような記述がある。上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンのためいきの」などの詩訳で知られる。漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だった。
日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです
同じく1908年に劇作家の益田太郎冠者という人物も次のように書いている。
欧羅巴人にはアイ・ラブ・ユーといつた、美しい詞があり、此の詞の中には、女の身上を刺激する意味が十分に含まれて居るが、日本人には斯ういふ詞が無く、その上「言はぬは言ふにいや優る」などといふ事が古来から上品としてあつて、万事詞が引込み思案になつて居るのです。
やや遅れるが、1922年に刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村『近代の恋愛観』にも、同様の主張が書かれている。厨川白村は漱石の教え子で、恋愛観について議論を交わしたこともあったという。
日本語には英語の『ラブ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you" や "Je t'aime" に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。さう云ふ英語や佛蘭西語にある言語感情が、全く日本語では出ないのある。『わたしあなたを愛してよ』、『わたしや、あなたにいろはにほの字よ』では、まるで成つて居ない。言葉が無いのは、それによつて現はさるべき思想が無いからだ。
以上からすると、夏目漱石が最初に言い出したかどうかはともかく、この時期にさまざまな人が「I love youは日本語に訳せない」と主張していたことは確かなようである。
そしてこの「I love youは訳せない」という話から「月が綺麗ですね」が派生する。いまのところ見つけられたかぎりでは、1927年の『帝人タイムス』に掲載されたコラム「東方へ」での記述が最も古かった。
西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス
1935年刊行の笠間杲雄『沙漠の国』にもそうした表現がある。元になった記事が雑誌に掲載されたのは1926年ごろのようなので帝人タイムスの記事より早いかもしれない。
第一、欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味を外国人に答へると、然らばあなた方日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉で意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。
以降も「月が綺麗ですね」という話は散見される。たとえば1950年の雑誌『英語研究』。
月下に若い男女が語らい合つている. 男が女に愛の言葉をささやくとして, この場合の純日本的な表現は今夜はいい月ですねえ!ということであり, 女がほんとうにいい月ですこと!といつたとすれば, それは男の愛を受け入れたことになる.
1957年の雑誌『産業と産業人』の対談記事「ニッポン居よいか住みよいか」。
三宅 その言葉が昔からないんだね。向うはアイ・ラブ・ユウ、実に簡単ですよ。ところが日本はそういう表現はない。「ああいい月ですな」というのが、ほれたと翻訳しなきゃならんのだ。(笑)
大山 「いい月ですね」ってそのくらいのことは言われたような気がしますけど……。(笑)
1961年の早川東三『じゃぱん紳士周遊記』。こちらは「月が青いですね」である。
ドイツ人学生が日本の女の子に夢中になった。日本語で愛の告白は何と言うのだい、と切なそうに聞くから、「われわれは皆んな詩人だからね、イヒ・リーベ・ディヒ(わたしはお前を愛する)なんて散文的なことは言わない。月が青いですねと言うんだ」と教えてやったが、ご使用に及んだかどうかは知らない。
1962年『日本人の知恵』。これは朝日新聞に連載された記事をまとめたものらしい。
さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同士が愛の告白をするとき、西洋人のように、
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。そんなことばを口に出さなくとも、満月を仰ぎ見て、
「いいお月さんですね」
そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。
以上のように、戦後にも「I love youは訳せない」や「月が綺麗ですね」はそれなりに広まっていたと思われるが、しかし、この時点ではまだ夏目漱石とは結びついていなかった。
それらの話を夏目漱石と結びつけたのは、おそらくSF作家の豊田有恒だろう。たとえば1978年の『SF文迷論入門』(雑誌掲載は1977年)では以下のように書かれているが、他のいくつかの著作でも同様のことを書いており、いわゆる「持ちネタ」のようなものだったことが窺える。
明治時代に、夏目漱石が、学生に、I love you を、どう訳すか、質問した。学生は、明治時代だから、我なんじを愛すというようなことを答えた。漱石は、怒って、一喝した。おまえら、日本人か? 日本人は、そんな、いけ図図しいことは言わないんだ。I love you というのは、日本語では、月がとっても蒼いなあ、と、こう訳すものだ、って言ったろ。
ほぼ同時期に、つかこうへいが小田島雄平との対談で同様のエピソードを語っているが、こちらの記事の初出は1978年なので豊田有恒よりも後ではある。つかこうへいが豊田有恒の記述を読んだのか、それとも共通の元ネタがまだどこかにあるのか。
古くは夏目漱石が I love you はどう訳せるかって言ったという有名な話がありますよね。生徒たちがそれは「愛してます」って訳すると言ったら、夏目漱石が教壇からばかやろうとどなりつけて、「月がとっても青いから」って訳すのだと言った話がありますけど、そういう翻訳のリアリティーっていいますか、それは、時代とともにいろいろ変わっていってるんでしょうね。
以降の流れは「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証に詳しい。
ツルゲーネフの『片恋』における「Yours」という台詞を二葉亭四迷が「死んでも可いわ…」と訳したという話を、「二葉亭四迷がI love youを死んでもいいわと訳した」に変形させた犯人探しも行われているが、それはおそらく土岐善麿だろう。1957年の『ことば随筆』にこう書かれている。
「アイ・ラブ・ユウ」を日本語に直訳すれば「われ、なんじを愛す」であろうが、二葉亭四迷はそれを「死んでもいいわ」と表現したことがある。ツルゲーネフの「あいびき」の中にあるのを読んで、その訳しぶりのすばらしさにおどろいた記憶がある。
この記述は、のちに金田一春彦がいくつかの著書で引用しており、そのあたりから広がっていったのだろう。たとえば金田一春彦の1975年『日本人の言語表現』ではこういった具合だ。
土岐善麿氏によると、二葉亭四迷は、トゥルゲーネフのある小説で女性の言うI love you.を訳すのにはたと困ったそうだ。何でも相愛の男女が愛を確かめあうクライマックスの場面であるが、男がI love you.と言い、女もそれに答えてI love you.と言う。男のせりふの方は「ぼくはあなたが好きだ」で簡単だ。が女の方はそうはいかない。もし、「私もあなたが好きです」とでも言ったら、それは教養のないあばずれ女ということになる。女のI love you.を日本語で何と訳すべきか、二葉亭は、二日二晩考えた末、今も名訳として伝わっている日本語を思いついた。それは「死んでもいいわ」という文句という文句だという。