はてなキーワード: 自然の摂理とは
いや……そんなわけなくない?
生殖可能な年齢の異性を性的に見るのは当然のことで、若い個体だからといって例外になるということはないよね?
性加害がNGなのは年齢に関係なくすべてNGだというのは大前提として
「未成年者を性の対象とみなすこと」を悪とするのはちょっと歪みすぎてると思う
現代においては「未成年」の定義が社会的になりすぎてて、生物である人間の内心を縛る基準としては不適当だと思う
個人的には「グルーミング」とかいう考え方も全然納得できてない
意中の相手に合法的な手段でアプローチかけてそれが受け入れられたとしても、その時点で相手が未成年だったら後で「あれはグルーミングだった、思い出だすだけで気持ち悪い」みたいに言われて加害者にされるのってどう考えてもおかしい
いや、わかるよ
もちろん嫁入り前のお嬢さんにみだりに手を出すのは良くないってのはわかるし、若い女をあてがってくれ〜とか言うつもりもない
でもさ、それは社会的によくないのであって、性的に見ること自体は自然の摂理なんじゃないの?
食い逃げ犯は処罰されるべきだし根絶されるべきだけど、牛丼買えないホームレスが店内覗いて「牛丼食いてえな〜うまそうだな〜」って思う内心を罰そうとしてはだめだよねっていう感じ?
Take a good look—this is the LDP. A rotten ship through and through. The hull is riddled with holes, the deck is stacked with decayed planks, and the crew talks big about their voyage while steering aimlessly. They don’t even know where they’re headed—just waiting for the inevitable sinking. And what about the passengers? A chosen few lounge in luxury cabins, sipping on fine drinks, while the rest shiver on the exposed deck, battered by wind and rain. Yet, no one dares to abandon the ship. Why? Because there’s no other vessel in sight.
Those people, they claim, “We are the pillar that upholds this nation.” But that pillar is infested with termites, reduced to nothing but a hollow shell. They mask the stench of decay with flashy decorations and smooth words, and the public, gullible as ever, eats it up. This, too, is part of the sickness afflicting the country.
Defense, the economy, countermeasures for the declining birthrate—they shout these slogans at every turn, but the truth is, they’re all empty promises. Everything they touch reeks of graft, cronyism, and self-enrichment. No matter how much the people suffer, it’s of no concern to them. Every election, they trot out crowd-pleasing phrases, gather the votes, and voilà—the same faces, the same farce, over and over again.
But doesn’t it strike you as strange? Why do we keep boarding this doomed ship? Why is no one speaking up? Watching a sinking ship and doing nothing but praying won’t change a thing. If the ship is broken, we need to build a new one. If no one else will do it, then we’ll have to take the helm ourselves.
LDP, your time is up. No matter how many rotten planks you patch onto this ship, it’s destined to sink. That’s just the way of things.
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はてなの匿名ダイアリーの増田になった気分で,作文して.内容は,自民党を腐す感じ.ですます調は禁止.タイトルもつけて.
自民党という名の腐った船 見てくれ、これが自民党だ。まるで腐った船。船体には穴が空き、甲板には腐った木材が積まれ、乗員たちは口先だけで航海を語る。どこに行くのかも知らず、ただ沈むのを待つだけ。乗客たちはどうだ?選ばれた少数は船室で酒を酌み交わし、残りは甲板で雨風に打たれている。それでも、みんなこの船から降りようとはしない。なぜなら他に船がないからだ。 あの連中は言う。「我々こそがこの国を支える柱だ」と。しかしその柱は白蟻に喰われて、ただの見せかけになっている。腐敗臭を隠すために、華やかな装飾を加え、言葉巧みに煙に巻く。それを鵜呑みにする国民もまた、この国の病巣だ。 防衛だ、経済だ、少子化対策だと喚くけれど、その実、中身は空っぽだ。何をやっても中抜き、天下り、自分たちの懐を肥やすだけ。どれだけ国民が苦しもうと、彼らは関係ない。選挙のたびに耳触りの良いフレーズを掲げ、票を掻き集める。そして、気がつけば同じ顔ぶれ。同じことの繰り返し。 でもおかしいと思わないか?なぜこんな船にいつまでも乗り続けているのか。なぜ誰も声を上げないのか。沈みゆく船を見て、ただ祈るだけでは何も変わらない。船が壊れているなら、新しい船を造ればいい。誰もそれをしようとしないなら、俺たちがやるしかない。 自民党よ、お前たちの時代は終わった。いくら腐った木材を継ぎ足そうと、この船は沈む。それが自然の摂理だ。
おk.これを英語にして
死ぬのが怖い(痛そう)
死ぬのが怖い(地獄とかあったら嫌じゃね?/「無」って怖くね?)
死ぬのが怖い(自分の存在や生きた痕跡が忘れられるって恐ろしくね?)
意識とは何なのか?死とは?知りたい
自分の満足と納得を追求したい、この気持ちだけは本物だと信じてみよう
サウナ気持ち良すぎワロタ 夜中のお出かけ楽しすぎワロタ 暇を持て余して抽象的な事ばっか考えてる人、バカですw
ゴチャゴチャと理屈を捏ねるまでもなく、人生とは何らかの熱狂的な情熱を放てるか否かが全てではないか?
生きるのが怖い、腰抜けには死ぬことすらままならないのが心底恐ろしい
自分が何を悩もうとも運命が存在するのならそれもまた予定調和に過ぎないが、もし人の意志に聖域があるのだとしたら?その源が神なのか自然の摂理の偶然性にあるのかは分からないが、今まで確信や納得だと思っていたものよりもより純度の高い信仰がそこにはあるのではないか?
それを実証的に明らかに出来そうな気はしないし、無根拠に信じるというのは蓋をするのと同義でもあるかもしれない
記憶にある限り、こんな感じで興味関心が移ろいでるな。マジで他人が登場しない。
般教の思想史でも似たようなトピックと似たような理屈が出てきたりして面白い。やっぱ人の考える事って似通うんだな。人類、歴史を伝って思春期やってるじゃん。
というよりその歴史が何らかの形で自分の考えに影響を与えたのかも分からんけど。思想史的に時代が進んだり戻ったりしてるような気がする。
車輪の再発明というやつか。自分で捏ねくり回して得たからこその納得というやつが人生に対する実感をもたらすと思えてならねえ。
本でも読めば近道出来たかもしれない事から目を逸らすような自己弁護なのかもしれないけども、まあ別にいいや。長い人生始まったばっかだし。
「自然な出会い方」として学校や職場などのコミュニティのなかでの恋愛を持ち上げるけどさ、それができるやつは特権階級とまではいわないが、平均以上のスペックと地位を持つ人間なんだよね。コミュニティということは、個人と個人の一対一の付き合いではなくて一つの「社会」との付き合いが上手くないと個人と親密な関係になるのは難しいのよね。だからとりあえず異性の多いコミュニティに入れば誰でも恋人ができると思ったら大間違い。そりゃ異性が少ないよりも多い方が可能性は高まるけど、カーストの高い人間に人気が集中するのが自然の摂理。まぁかと言ってマッチングアプリもスペックゲーだから弱男にはどの道無理。見合い文化がなくなった今、弱男は番えません。そもそも恋愛はいつの時代も上位3割しかできなかったというのも有名な話。ドラマや映画のせいで恋愛って普遍的な娯楽だと思ってる人多いけど、実は贅沢品なんですよ。
https://togetter.com/li/2443173
とあるコレクターが「ゲームやマンガのコレクションを完全無料寄贈してほしい」と大学と政府の人に言われたが断った話
記事の中で「eスポーツは国が税金を投入するほど評価されてるのに、それ以外のゲーム文化は基本的に舐められる」」という嘆きがあった。
当たり前だろ、そんなこと。
経済効果の高い文化を優先するのは自然の摂理であり、eスポーツはずっと経済効果を声高に主張してきた。
業界団体によるロビー活動で高額賞金の大会を開けるようにしたし、ドコモやソフトバンク、レッドブルなど大手スポンサーを引き入れたりなどした。
ただのゲームで終わらせたくない一心で、多くのゲーマーが尽力してきたわけ。
舐められたくないなら、周りから評価されるように働きかければ?
なんかしらんが、ゲームの愛好家の中には世間的に評価されたがらない奴が目立つ。
eスポーツとか言って市民権を得ようとしなくていい、ゲームはゲームのままでいい、みたいな。
そのくせマスコミがゲームを敵視するような記事を書くと、一斉に反発してみせたりする。
ちゃんと世間に認められたい、産業としてゲーマーを成立させたい、
https://archive.md/m3u6E#selection-495.0-495.47
The Problem With Saying ‘Sex Assigned at Birth’
「割り当てられた性」が採用される理由のひとつは、敬意に満ちた婉曲表現が提供され、特にノンバイナリーやトランスジェンダーの人々にとっては、厳しい生物学的現実のように感じられるものを和らげることができるからである。誰かが「出生時に女性に割り当てられた」と言うことは、その人が生物学的に女性であることを伝える、間接的でより丁寧な方法であると考えられている。この用語は、トランスやノンバイナリーの人々との連帯を示すと同時に、伝統的な性の理解は時代遅れであるというラディカルな考えを伝えるためにも機能する。
「出生時に割り当てられた性別」の表現は、善意によるものかもしれないが、進歩ではない。私たちは礼儀正しさや連帯感の表現に反対しているわけではないが、「出生時に割り当てられた性」は人々を混乱させ、生物学的事実について疑念を抱かせる可能性がある。また、私たちの伝統的な性に対する理解を正す必要があるから、このような表現が求められるのでもない。
そうではないのだ。セックスは、私たちの種にとって重大な結果をもたらす基本的な生物学的特徴であるため、それに関する誤解を助長することには問題がある。
性差は健康、安全、社会政策にとって重要であり、文化と複雑な相互作用をする。女性は男性に比べ、薬物による有害な副作用を経験する確率が2倍近く高いが、この問題は女性の薬物投与量を減らすことで改善できるかもしれない。一方、男性はCovid-19やがんで死亡する確率が高く、殺人や性的暴行の大部分を犯す。"割り当てられた性 "が死亡数を増加させるわけではない。重要な事柄に関する用語はできるだけ明確にすべきである。
影響力のある組織や個人が「出生時に割り当てられた性」を推進するとき、彼らは、「セックス」、「男性」、「女性」のような、社会で誰にとっても馴染み深く、性の意味合いを議論するのに必要な言葉を使うことで、市民が辱められるような文化を奨励している。これは通常の検閲のようなもので、特定の意見を公的に支持することを抑制するものではない。もっと巧妙で、そもそもその意見を議論するのに必要な語彙そのものを抑圧しているのだ。
より急進的な「割り当てられた性」の支持者は、生物学的事実としての性という考え方そのものが疑わしいと異議を唱えるだろう。フランスの哲学者ミシェル・フーコーや、最近ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーに関連するこの見解によれば、性とは何らかの文化的生産物であり、赤ん坊に男か女かのレッテルを貼った結果である。したがって、「性別」よりも「出生時に割り当てられた性別」の方が好まれるべきであると主張する。
この立場は、人間が自然の摂理から免除されていることを暗黙の前提としている。残念なことに、私たちは動物である。有性生物は少なくとも10億年前には地球上に存在していたし、人類が進化しなかったとしても、オスとメスは存在していただろう。セックスは、分娩室での言語的儀式やその他の文化的慣習の結果というわけではない。
一部の学者によって蒔かれた混乱にもかかわらず、私たちは性別の二元論が人間の発明ではないことを確信できる。
「出生時に割り当てられた性別」の問題は、確立された生物学的事実から会話を遠ざけ、政治的アジェンダを吹き込むことである。私たちは、医学的、社会的、法的な問題に関して、意見を明確に述べ、最善の方針を打ち出すのに役立つ共有言語を必要としている。その共有言語こそが、たとえ強い意見の相違が残っていたとしても、相互理解と民主的な審議の出発点なのである。
そりゃ乙女ゲーなんかは俺らのような男が楽しめる要素ないしウゲっと思うだけだが
男性メインターゲットの美少女ものは別に本来誰でも楽しめる作りになってるせいだろ
現実世界で歴史上ずっと男にとって他の男は生殖競争上のライバルでしかなく長い付き合いでもない限り容易に親しみを持とうと思わない
一方で女にとって女はとくにライバルになることはなくむしろ権力的な意味で弱者同士コミュニティにおいて互助的な疎通を図ろうとする
これは男が種をいくらでも撒ける強者総取り構造なのに対して女は身籠ったら半生が拘束されることで競争状態から離脱することに起因している
だから女性ってのは男性に対しても女性に対しても親しみを持ちやすい構造にあるんだよ
むしろ女性はヅカ系みたいに同性相手にすら恋慕を示すことが商業的にも示されているわけ
もちろんカッコいい系女のみならずカワイイ系女にも女性は好感を示すがこれはきっとロールモデル的な称賛や共感が入っているんだろう
一方俺らのような男がイケメンを称賛しようものなら自分に目を向けてくれる異性が減る一方で自傷行為でしかない
イケメンを素直に褒められる男ってのは男の中でもすでにトップ層の地位を確立してる強者か、生殖競争から離脱してる超弱者だけなんだよ
美男子ばっかり出てくるゲームを微塵もやりたいと思えない俺ら男とは発想が違うんだよ
だから男性メインターゲットの作品を女性が楽しめてしまうのは自然の摂理だし男向けなのなんだのに執着するのは筋が悪い
制作側が女性ユーザー層を意識したモノづくりをしてしまう場合があるのが嫌なのは分かるが
それが嫌なら少なくとも全年齢向けをやるのは間違ってる
https://archive.md/m3u6E#selection-495.0-495.47
The Problem With Saying ‘Sex Assigned at Birth’
「割り当てられた性」が採用される理由のひとつは、敬意に満ちた婉曲表現が提供され、特にノンバイナリーやトランスジェンダーの人々にとっては、厳しい生物学的現実のように感じられるものを和らげることができるからである。誰かが「出生時に女性に割り当てられた」と言うことは、その人が生物学的に女性であることを伝える、間接的でより丁寧な方法であると考えられている。この用語は、トランスやノンバイナリーの人々との連帯を示すと同時に、伝統的な性の理解は時代遅れであるというラディカルな考えを伝えるためにも機能する。
「出生時に割り当てられた性別」の表現は、善意によるものかもしれないが、進歩ではない。私たちは礼儀正しさや連帯感の表現に反対しているわけではないが、「出生時に割り当てられた性」は人々を混乱させ、生物学的事実について疑念を抱かせる可能性がある。また、私たちの伝統的な性に対する理解を正す必要があるから、このような表現が求められるのでもない。
そうではないのだ。セックスは、私たちの種にとって重大な結果をもたらす基本的な生物学的特徴であるため、それに関する誤解を助長することには問題がある。
性差は健康、安全、社会政策にとって重要であり、文化と複雑な相互作用をする。女性は男性に比べ、薬物による有害な副作用を経験する確率が2倍近く高いが、この問題は女性の薬物投与量を減らすことで改善できるかもしれない。一方、男性はCovid-19やがんで死亡する確率が高く、殺人や性的暴行の大部分を犯す。"割り当てられた性 "が死亡数を増加させるわけではない。重要な事柄に関する用語はできるだけ明確にすべきである。
影響力のある組織や個人が「出生時に割り当てられた性」を推進するとき、彼らは、「セックス」、「男性」、「女性」のような、社会で誰にとっても馴染み深く、性の意味合いを議論するのに必要な言葉を使うことで、市民が辱められるような文化を奨励している。これは通常の検閲のようなもので、特定の意見を公的に支持することを抑制するものではない。もっと巧妙で、そもそもその意見を議論するのに必要な語彙そのものを抑圧しているのだ。
より急進的な「割り当てられた性」の支持者は、生物学的事実としての性という考え方そのものが疑わしいと異議を唱えるだろう。フランスの哲学者ミシェル・フーコーや、最近ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーに関連するこの見解によれば、性とは何らかの文化的生産物であり、赤ん坊に男か女かのレッテルを貼った結果である。したがって、「性別」よりも「出生時に割り当てられた性別」の方が好まれるべきであると主張する。
この立場は、人間が自然の摂理から免除されていることを暗黙の前提としている。残念なことに、私たちは動物である。有性生物は少なくとも10億年前には地球上に存在していたし、人類が進化しなかったとしても、オスとメスは存在していただろう。セックスは、分娩室での言語的儀式やその他の文化的慣習の結果というわけではない。
一部の学者によって蒔かれた混乱にもかかわらず、私たちは性別の二元論が人間の発明ではないことを確信できる。
「出生時に割り当てられた性別」の問題は、確立された生物学的事実から会話を遠ざけ、政治的アジェンダを吹き込むことである。私たちは、医学的、社会的、法的な問題に関して、意見を明確に述べ、最善の方針を打ち出すのに役立つ共有言語を必要としている。その共有言語こそが、たとえ強い意見の相違が残っていたとしても、相互理解と民主的な審議の出発点なのである。