はてなキーワード: 品種とは
50代、既婚子供持ちのヒョロっとした色黒おっさん社員が俺に聞いてきた
「君は、今までずっと続けてきた事って何かあるのかい?」
特にないですねえ。
「そうかあ・・・。僕は車が好きで、休日はいつも洗車してるんだけど、そういうのないの?」
ないです。
ここで会話は終わったが、あのおっさんが続けてきたことが、車・・・?
てっきり、空手やらギターやら能動的なものかと思ったが、車なんて金さえあれば誰でも持てる
ただの消費者、お客さんじゃないか。車検、自動車税、ガソリン代、駐車場代、ご苦労なこった
「車が好き」というからには、運転してる動画やら、魅力を語りつくすブログやYoutubeチャンネルを作ったりと
そういう主体的な発信や記録こそが「続けてきた事」としてカウントされるんじゃないの?
俺が「米を食べることをずっと続けてきました」と主張するんだったら
品種・産地による味の違い、炊飯器による炊き上がりの特徴等々を記録や写真に撮って残しておいたりするだろう
単に毎日毎日米を食べてきました、じゃ続けてきた事とは到底呼べない。そりゃ朝昼晩のどこかのタイミングで米ぐらい口にするわ
オードリー春日が単に移動手段で原付乗るだけなのに「趣味:バイク」と言うのと同じじゃないか
まず、普通のホームセンターで売られている観葉植物を買って育ててみましょう。
あまり植物売り場に力を入れていないような、小さなホームセンターがいいです。
どんなに小さなホームセンターでも、例えば、モンステラ、パキラ、園芸種のアンスリウム、セローム、ガジュマル、サンセベリア…このあたりの品種が売られています。
ホームセンターで売られている観葉植物なんて大したことないと思われるかもしれませんが、ホームセンターなどで大量に流通する品種というのは、
日本の環境で、あまり栽培経験のない人が育ててもぐんぐん成長する、頑丈なスーパーエリート植物たちなのです。
値段もお手頃で、頑強なホームセンターの観葉植物は初心者の方が経験を積むのにピッタリ。
というのは嘘だ。偽りの虚無・虚像だ。こんなことを言うやつのことは信用してはいけない。
本当は、まず、行ける範囲で最も大きくてマニアックな植物が揃っている植物屋にいくんだ。
東京ならオザキフラワーパークとか。無かったら植物園でもいい。
そして中を満遍なく歩き回る。端から端まで踏破する。
店の中なのになぜか植物を掻き分けるように進まないといけない場所もあるだろう。
そうやって歩きにくい店内を苦労して歩いていたら、どこかで魂が震えるような出会いがあるはずだ。
誇らしげに壁に飾られたビカクシダかもしれないし、アンティークのオブジェのようなユーフォルビアかもしれない。
堂々と値札を掲げた塊根植物かもしれない。燃え上がり噛みついてくるようなアガベかもしれない。腹をすかせた食虫植物かもしれない。
魂が震えて、その姿に目を奪われたら、とにかく買うんだ。
どんなにマニアックで、どんなに気難しい植物でも、どんなに高価でも関係ない。
見た瞬間魂が震える植物を見つけて、買う。それだけ。
それが、幸運にも育てやすいのなら問題ないが、やっぱり目を奪われるような植物はたいてい手間がかかる。
日本の環境でベランダに一年中置きっぱなしにできるようなものは少ない。
寒いのが苦手ならでっかい衣装ケースを買って、中にヒーターマットを敷いてやる。
湿度が好きな植物なら衣装ケースの中に水槽と水槽用のヒーターを入れて温度と湿度を与えてやる。
サーキュレーターも忘れずに。パソコン用のケースファンを使うのもいいぞ。
スイッチボットを組み合わせて光、温度、湿度、風を全自動でコントロールし、家の外からでも植物の状態を数値で管理できるようにする。
そうやって工夫と苦労と心配を重ね1年、全ての季節を乗り越えたとき、思うだろう。
他は?と言われると、馬、羊、山羊、あとは、アヒル?くらいのもんだろう
基本的にはどれも食うために飼われている
牛豚鶏はまさにそう
牛は乳も、鶏は卵も食われる
ジンギスカンうめえ
乳はチーズに使われたりするのをよく見る
異質なのは馬だ
馬も食うけど、生産される馬の大部分と食われる馬は結構品種が違う
食われない馬は何のために生産されるかと言えばもちろん、人が乗るためだ
乗れなくなった馬が処分されて食肉になるが、コンビーフやドッグフードなど加工品、または動物園の肉食獣の餌になる
でもそれは副次的なもので、世の人が誰も馬に乗らなくなったら、馬を育てる意味なんかなくなり、おそらく牛豚で十分となるだろう
いつかそんな世の中になっても不思議はないよね
しかし、だ
馬って素晴らしい生き物で、有史以来人類のパートナーだったわけだ
今の世の中での、トラクター、トラック、トロッコ、ベルトコンベア、乗用車、高級車、スポーツカー、自転車、このようなものの代わりを馬が務めていた
馬がいなければシルクロードでの輸送なんか起きなかったろうし、物流は格段に都合が悪くなっただろう
山中での果樹や山菜採取、木材採取なども、馬によって運び出せなければ生産効率は悪かったろう
そして何より大事なのは、それらの馬の世話、手入れ、飼育と、馬具、馴致、調教、乗り方にも全て技術があるということだ
野生の馬を捕まえてきたら誰でもすぐ乗れるみたいなことはなく、現実はポケモンの世界みたいではないのだ
しかし、人はどんどん馬に乗る必要がなくなり、数千年改良し続けた技術が将来滅びてしまう可能性を感じる
個人的には、これらの技術が失われ、馬の多様性が失われるのはすごくすごく惜しい気がしている
現在馬に乗るのは、観光農園の他には、馬術競技をする人と、競馬関係者くらいだ
そして競馬は、誰でも馬券を買うことはできるものの、その内側に関わることは、それを生業にする人以外はいない
観光牧場に遊びに行くのは誰でもできるものの、しょっちゅう行くわけではないし、牧場経営も、それこそ生業にしなければ無理だ
となると、我々一般人が馬事文化の維持、振興に関われるとすれば馬術競技しかない
馬術競技とまではいかなくとも、乗馬をたしなむことは誰でも趣味でできる
パリオリンピックでは日本が銅メダルを獲得するくらい、日本の馬術レベルは高い
歌舞伎を見たり、伝統工芸品を珍重するなら、それと同じく馬事文化の保存と継承にも関心を持って欲しい
そう、乗馬を習おう
乗馬って大型二種免許とるくらい、すごい技術の習得なんだと、シルクロードに思いをはせながら感じて欲しい
それが馬がこの先生き延びていく道だと思っている
ポケモン好きなら最高の瞬間だよ
すごい。
どうせマヨネーズとは名ばかりの甘いジュースかと思ったら違った。全然甘くない。そして、酸っぱさと油っぽさがあって、まさしくマヨネーズの味だ。でも、塩辛い。1本200mL中、食塩相当量1.6gなのはかなりの塩分量だ。もう少し塩分量が少なくても良かったのでは?
とはいえ、マヨネーズには塩気が必要という考えも、わからなくもない。食塩が少なければ、ぼやけた味わいになってしまいマヨネーズらしさが失われてしまうだろう。それと、夏の暑い時期なら発汗で失った塩分補給に適していたのになぁとも思った。
しかしながら、この飲むマヨはどういう時に飲めばおいしく味わうことができるのだろうか? と考えてみた。唐揚げやサラダなどマヨネーズを付けて食べる食品と一緒に飲むことが想起されるが、これは相性が良くなさそうだ。なぜなら、普通にマヨネーズを付けて食べた方がおいしいに決まっているからだ。
逆に、お菓子やデザートなどの甘い物と一緒に飲むマヨを飲むのが向いているように私は感じた。洋菓子ならば紅茶やコーヒーを和菓子ならばほうじ茶や緑茶をといった具合に、菓子の甘さを引き立てるのは甘さとは対極である苦みや渋みをもつ飲み物が適しているからだ。飲むマヨの酸味が甘さを引き立てるであろうことはもちろん、多量に含まれている塩分もまた甘さを引き立てるのに役立つだろう。
和菓子には塩分を多く含まれる物が多数ある。せんべい、みたらし団子、カンロ飴にはしょう油が含まれているのでもちろん塩分が多いし、しょう油でなくとも塩を含む和菓子は多い。和菓子にはあんこがつきものだがあんこの甘味を引き立てるのは塩であるし、スイカやトマトに塩を振りかけて食べることもある。このように和菓子などの日本の間食に塩を含ませる文化は、日本の夏の高温多湿な気候によって発汗で失う塩分を補わせる意味合いが強いのだろう。
対して、洋菓子には塩分を含む物が無いように感じる。ここに、飲むマヨの需要があるだろう。
油気も塩気も少なくあっさりとした味わいの洋菓子に対しては、飲むマヨが合うのではないだろうか。例えば、ゼリー・ジュレ・ジャム・シャーベットである。あるいは、酸味の少ない果物でも飲むマヨが合うかもしれない。バナナやマンゴーやスイカやカキといったもともと酸味の無い果物はもちろん、近年は品種改良でイチゴやブドウでも酸味のない品種が生まれているので、飲むマヨで酸味を補えば果物の甘さを引き立てることだろう。
昨今の気温上昇は日本に限ったものではないので、海外でも発汗によって塩分補給の需要は高まっているだろう。そこで、塩分の乏しい洋菓子に対して、飲むマヨの需要が生まれることは想像に難くない。
このようにして、飲むマヨには将来性があると考えられる。飲むマヨはテスト販売中とのことだが、ただの一過性のテストで終わってしまってはもったいない。
今年の一皿がそういうのがあって
また今年分も発表されたみたいなんだけど
たぶん今年の漢字は「金」よ。
オリンピック年定期じゃない。
たぶん金だわ。
谷でも金!亮子でも金!って言っている場合じゃないぐらい今年の皿もなに?って感じよ。
ちなみに「鰻」なんだって。
今年の流行語の「ふてほど」とか「鰻」とか
うーん、
私の気持ちは分かるタイトルで前のめりになりすぎている迷惑メールのたぶん「重要」って言いたい気持ちは分かるんだけど
そのなにかどうやったらそんな感じになるの?って言うタイトルの「重なら」を見ると
鰻の名店「重なら」の鰻を思い出すのよね。
さすがに
鰻ってあんな重箱の隅まで鰻がぎっしり詰まっている鰻重なんて高嶺の花の鰻処だから
食べるだなんてもってのほかじゃない。
だけど
私の今年の鰻メモリから保存してあった「重なら」以外の鰻メモリを取り出してみると、
確かに鰻食べていたわ。
玉子の鰻巻ね!
イキフンの季節のものだから雰囲気で食べておきたいシーズンだった、
あのなんだっけ?
今年は2回あったやつのまさか平賀源内さんも丑の日が年2回ある年を予想出来たかしら?ってぐらい2回あったじゃない。
そのうちのどちらかの日にその玉子の鰻巻を求めたのね。
季節のせいね。
思いっ切り「丑の日」に引っ張られちゃったわ。
でね、
その玉子の鰻巻は近所のマーケット謹製でそこそこのまあチープさは最初予想はしていたけど
思いのほか鰻がぎっしり入っていて、
おお!鰻これ4割ぐらい入ってない?って驚きを隠せなかったの!
きっと洗濯洗剤のシーエムで驚きの白さ!って声を吹き込む驚き屋さんも鰻たくさん入っている!って驚くレヴェルだと思うのよ。
私は予想もしなかったその玉子の鰻巻にすっかり満足そしてご機嫌さんになったってことが、
今年の唯一かたぶんその後リピしてまた別の日に買っているかも知れないその1回か2回ぐらいの鰻遭遇率だったのね。
だからあんまり鰻食べてない私のこの今年の鰻体験メモリーのこれを世間の平均値と見なすと、
一体どこで消費されているのかしら鰻って?
さすがに
ラーメン鉢の外側にチャーシューをまるで洗濯物を干すかのようにラーメン鉢一周するチャーシューをデコっている、
それの鰻重版の鰻のおひつの周り全4方向から全面鰻がはみ出ている、
そこでも「重なら」の鰻マックスの鰻重は通常の1.5倍ぐらいなのよね。
でも不思議と鰻不足だけれどお金を出せば食べられるって不思議よね。
あれはもうきっと職人技が必要のない完全なるファクトリーオートメーションで鰻がただたんに加熱されてご飯の上に乗せられる仕組みをとっているらしく、
ふーん。
なるほどね。
そう言ったところがあっても鰻のもともとの値段は変わらないだろうし、
きっとコスト削減出来るところは徹底的なのかも知れないわね。
まあ私はその鰻を思い出すために、
あるはずもない期待していなかったその「玉子の鰻巻」をいつでも探し求めていたのよ。
私がやっとゲットしてその思い出の鰻のイラストが描かれた走馬灯をぐるぐると回して鰻の柄が綺麗にキラキラ写し出す景色しかなく、
本当に世の中の人ってそんなに鰻食べてんのね!って思っちゃったわ。
でもそんな私のてっきり今年の皿が必ずしも今年たくさん食べられた一品とは限らないことを逆手に
逆に憧れの一皿であるのならば納得よね。
まあ、
あんまり私はグリル鰻よりグリルチキンの方がわーい!って喜ぶわ。
人類は鰻じゃないものを「う」として食べて鰻感を気分バーチャルに楽しめばもしかして鰻不足解決憧れの鰻への高嶺の花の鰻処がもっと低いところに降りてくるかも知れない。
鶏肉の品種の鶏の銘柄で「う」のつく烏骨鶏を鰻代わりに「う」が付いてるからそれを採用しましょう!って思ったけど、
今年の烏骨鶏年間消費量ははるかに鰻より少なくて希少らしいわ!
つーことは逆にまたこれ鰻より値打ちが上がって高嶺の花の鰻処よりはるか高い値段になっちゃうんじゃない?
そもそもお寺は殺生ダメだから「鰻」も「烏骨鶏」も召し上がらないかも知れないけど怒ると思うわ。
なんかそれだったら
「鰻」の代わりになる「う」つく精ののつくものを「烏骨鶏」以外で探さなくちゃいけないのよね。
なかなかそう簡単には「う」のつく食材をそうは問屋は美味しい海苔を卸さないのと同様に卸さないのよね。
うーん、
「う」のつく食材ってやっぱり世の中「鰻」と「烏骨鶏」しかないみたいね。
逆にこの2種類しかないことに
今初めて人類が気付いてしまった瞬間に私自ら立ち会ったような気持ちよ。
うふふ。
納豆巻き絶好超の美味しさでハマってるわよね。
まあだいたいタマゴサンドか納豆巻きかの二択の選択肢のうちのどちらか一方って感じだけど、
まあ朝の元気には変わりないので、
美味しい納豆巻きは朝の元気の源よ!
久しぶりに
夜にもオススメしまくりまくりまくりすてぃーな感じなので意外と夜のホッと一息にこのルイボスティーホッツもオススメなのよね。
朝の温活も兼ねての
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
元増田のカジュアルなメモはひとつも難しいことを書いてないが、増田(anond:20241203143657)にはこちらの方が向いてるかもしれない
Honey Crispという品種のりんごを見て、その黄色味に注目し、「黄林檎」と表現するのは個人の価値観や知識の問題で、特に気になるところはないです。
だけど、Honey Crispを見て「これはりんごではない」と言う人については、認知の仕組みに問題がある気がします。
極端に表層的な学習を行い、それに気づけていない可能性とかありそうです。
こうした認知のズレを持つ相手との会話の成立は難しく、まず「どのような形状や状態がりんごと見なされるのか」から話を始める必要があります。
もっとも、この世のどこかにHoney Crispのように見えるが実際にはりんごではない果物が実在する可能性や、見た目が同じでも研究の結果「りんごではなかった」となる可能性も、ゼロではないです。その場合、「りんごではない」という主張は成立するので、「りんごではない」発言する人について、この増田内ではOKとします。
しかし、「サッカーボールはボールだが、ラグビーボールはボールではない」という発言する人についてはどーでしょーか?
個人的には、哲学的な問いを仕掛けてきてる?概念の境界の話や、本質主義 vs. 構成主義みたいな話がしたいの?
ラグビーボールをボールのカテゴリーに入れて話を進めて貰うのは無茶な要求ですか?と言った気持ちになる。
- A、B、C、Dとディーラーがいる。
- ディーラーがトランプの山からカードを1枚ずつ取り、決まった場所にセットする。カードが何かを確認した後に公開する。
- 正解を当てるまでゲームは終わらない
A:「セットするときチラッと見えたけど、ダイヤのKで間違いない。ハートのKはすでに出ているし、見間違えるはずがない。回答はダイヤのKでいいよな?」
B:「当たるか外れるかは1/2だから、ダイヤのKでいいよ。」
C:「やっと終わったか。このゲーム考えたやつ、バカだろ?マリカーやろうぜ。」
D:「これはダイヤのKじゃない。」
Aは観察した事実を述べており、問題なく対話が可能です。ただし、状況によっては、Aの動体視力や観察力について確認や裏付けが必要になるかもしれません。
Bは残りのカード枚数という前提条件を無視し、「当たるか外れるか」の1/2に単純化して発言していますが、対話は可能そうです。ただし、状況によっては、なぜそのような単純化を行ったのか確認をする必要があるかもしれません。
CはダイヤのKを当ててクソゲーが終わったことへの率直な感想を述べています。対話自体は問題なさそうです。ただし、状況によっては、発言が周囲の空気を読めていない、配慮に欠けていると受け取られる場合があります。たとえば、Aが精力的にゲームを進行していた場合、Cの発言が不快感を招く可能性も考えられます。これはコミュニケーション上の配慮の問題であり、Dのような「認知の仕組みのズレ」とは異なります。
Dは「これはダイヤのKではない」と主張しています。理由を聞くと、自宅のトランプカードのKとフォントが違うからだと言います。Dとの対話は困難を極めます。
Dのような発言をする人は、現実に存在します。本人に皮肉やギャグを言っているつもりはありません。意図的に話を混ぜ返しているわけでもないです。
ただ特定の細部に過剰に焦点を当てているだけです。
Dの視点そのものがすべての場面で悪いとはまったく思わないです。でも、この文脈でのDの発言は、対象への理解が極端に浅いか認知の仕組みに問題があると解釈するのが自然よね?
実際、Dと対話を続けるには、トランプカードの基本的な形状、ダイヤというスートの概念、Kというランクの概念を一から説明する必要があって困難を極める。
対話が本質的に成り立たない理由は、Dが提示する論点が現実や共有された前提(コンテクスト)から逸脱しており、対話が成立する土台そのものを欠いているからです。
A、B、Cの発言はたとえ偏りや誤解があったとしても、それぞれ一定の範囲内で共有された認識や価値観に基づいており、訂正や調整を経て合意に近づける可能性があります。しかし、Dの場合は認知の仕組みそのものに問題があり、前提を共有するために基本的な概念から再構築しなければならず、その労力が極めて大きいのです。
多くの人が「価値観の違い」「IQの問題」「知識の不足」「コミュニケーション能力の欠如」に原因を求めがちですが、Dのようなケースはそれらの問題を超えており、根本的には認知のズレによって引き起こされていると考える方が適切です。
1. 価値観の違いなら、Aのように「ダイヤのK」と主張しても、議論や裏付けで解決可能。
2. IQや知識の不足であれば、Bのように「1/2」と単純化していても説明次第で改善可能。
3. コミュニケーションの軽率さは、Cのような態度に現れるものの、感情の修正や配慮で調整可能。
しかし、Dの「フォントが違うからダイヤのKではない」という主張には、認知そのものに根深い問題があり、共通認識にたどり着くまでに膨大な時間と労力が必要となります。
Honey Crispという品種のりんごを見て、その黄色味に注目し、「黄林檎」と表現するのは個人の価値観や知識の問題で、特に気になるところはないです。
だけど、Honey Crispを見て「これはりんごではない」と言う人については、認知の仕組みに問題がある気がします。
極端に表層的な学習を行い、それに気づけていない可能性とかありそうです。
こうした認知のズレを持つ相手との会話の成立は難しく、まず「どのような形状や状態がりんごと見なされるのか」から話を始める必要があります。
もっとも、この世のどこかにHoney Crispのように見えるが実際にはりんごではない果物が実在する可能性や、見た目が同じでも研究の結果「りんごではなかった」となる可能性も、ゼロではないです。その場合、「りんごではない」という主張は成立するので、「りんごではない」発言する人について、この増田内ではOKとします。
しかし、「サッカーボールはボールだが、ラグビーボールはボールではない」という発言する人についてはどーでしょーか?
個人的には、哲学的な問いを仕掛けてきてる?概念の境界の話や、本質主義 vs. 構成主義みたいな話がしたいの?
ラグビーボールをボールのカテゴリーに入れて話を進めて貰うのは無茶な要求ですか?と言った気持ちになる。
- A、B、C、Dとディーラーがいる。
- ディーラーがトランプの山からカードを1枚ずつ取り、決まった場所にセットする。カードが何かを確認した後に公開する。
- 正解を当てるまでゲームは終わらない
A:「セットするときチラッと見えたけど、ダイヤのKで間違いない。ハートのKはすでに出ているし、見間違えるはずがない。回答はダイヤのKでいいよな?」
B:「当たるか外れるかは1/2だから、ダイヤのKでいいよ。」
C:「やっと終わったか。このゲーム考えたやつ、バカだろ?マリカーやろうぜ。」
D:「これはダイヤのKじゃない。」
Aは観察した事実を述べており、問題なく対話が可能です。ただし、状況によっては、Aの動体視力や観察力について確認や裏付けが必要になるかもしれません。
Bは残りのカード枚数という前提条件を無視し、「当たるか外れるか」の1/2に単純化して発言していますが、対話は可能そうです。ただし、状況によっては、なぜそのような単純化を行ったのか確認をする必要があるかもしれません。
CはダイヤのKを当ててクソゲーが終わったことへの率直な感想を述べています。対話自体は問題なさそうです。ただし、状況によっては、ゲームを考案した人や功労者であるAへの配慮が欠けている点に注意が必要かも知れません。
Dは「これはダイヤのKではない」と主張しています。理由を聞くと、自宅のトランプカードのKとフォントが違うからだと言います。Dとの対話は困難を極めます。
Dのような発言をする人は、現実に存在します。本人に皮肉やギャグを言っているつもりはありません。意図的に話を混ぜ返しているわけでもないです。
ただ特定の細部に過剰に焦点を当てているだけです。
Dの視点そのものがすべての場面で悪いとはまったく思わないです。でも、この文脈でのDの発言は、対象への理解が極端に浅いか認知の仕組みに問題があると解釈するのが自然よね?
実際、Dと対話を続けるには、トランプカードの基本的な形状、ダイヤというスートの概念、Kというランクの概念を一から説明する必要があって困難を極める。
『メタ認知能力が極端に欠けている人』って表現は、"自惚れていてる"とか"井戸の中の蛙"みたいな評価に限定して使われているイメージがあります。
けど、ここで言いたいのはそういうことじゃなくて、エラー処理とか停止処理みたいな超基本的な考え方すら持ってなくて、それに気づけないままでいられる人のことです。
具体的な方法を知らないとかじゃなく、そもそも「そういう発想自体がない」って話で、これは単なる知識不足や視野の狭さ以上に、認知の仕組みそのものに問題があります。
時間が自然に解決してくれるようなものじゃなくて、かなり厄介な問題だと思います。
エラー処理とか停止処理って、ITだけの話じゃなくて日常でも必要なスキルです。
たとえば、「お目当てのプリンが冷蔵庫にないことを確認」(エラー検知)したら、フツーは「今日はプリン食べるの無理だな」って切り替えるじゃないですか。
冷蔵庫を何度も開け続けるのはちょっと変で、フツーは「開けるのをやめる」(停止する)って行動に移りますよね?
仮に、寄生獣に取り憑かれたために、冷蔵庫を開け続けちゃうのだとしても、「右手が勝手に動いてる?」って気づければ、他の方法を考えることができます。
けど、この『気づき』がなかったら、問題解決はかなり難しいです。
メタ認知は知識の応用力、いわゆる"知識移転(Knowledge Transfer)"にもめちゃくちゃ重要です。得意分野や好きなことだと、この力が特に発揮されやすいですよね。
たとえば、熟練プログラマーが別の言語でもスキルを応用できるのも知識移転の力があるからです。
でも、興味が薄い分野や苦手分野だと同じ力を発揮するのは難しい・・・それは自然なことではあるのですが、基本スキルや共通原理くらいはちゃんと押さえておくことが期待されます。
たとえば、プリウスの運転手が軽トラックをまったく運転できなかったら、それは個性とかそういう話じゃないですよね?致命的に知識移転能力が欠けてるってことです。大きさや操作性が違うにしても、ハンドル操作とか交通ルールみたいな共通点を活かせないのは深刻です。
仮に、共通点を見出せ無くなったのは異世界おじさんに「記憶消去魔法(イキュラス・キュオラ)」をかけられたからだとしても、「もしかして、記憶を消されてる?」って気づければ対処方法を考えることができます。けど、この『気づき』がなかったら、問題解決はかなり難しいです。
知識転移がうまくいかないのは、異世界おじさんに記憶を消されて気づかない以外にも、その対象の理解がそもそも極端に浅いことも大きな原因になっていそうです。
たとえば、『りんご=赤』って覚えるのは、学習コストを下げるためによくあることです。この簡略化を意識できる人は、この情報がいろんな側面の一つにすぎないってちゃんとわかっているので、黄りんごも青いりんごも許容します。りんごの品種や生育環境、熟成度みたいな要素が色に影響するんだろーなとか、味とか他の特徴も多次元的に捉えています。さらに、必要があれば「なんで赤いんだろう?」とか掘り下げて学ぼうとするオープンな姿勢もあります。
多次元的に対象を見れる人は、『見たままをありのままに受け入れて、自分の直感を大切にできる人』と言い換えても良いかもしれません。
だってりんごは、どう見たって単色の赤じゃないですからね。視覚的にも直感的にもそう感じるはずです。
一方で、こういう視点や意識(見たまま受け入れる、自分の五感や直感を信じる)がない人たちがどうなるかというと、
『りんご=赤い』っていう単純な答えでテストに合格して、「自分の理解は完璧だ!」って思い込みます。
現行のシステムでは、ぶっちゃけ深掘りする必要性がないので、結果として表層的な学びに終始してしまうのです。
で、こういう表層的な学習パターンが続くと、やがて複雑な問題に対処できなくなります。
同世代と話してもピントがずれた会話をしたり、科学、医療、社会問題、仕事の議論でトンチンカンなことを言ったりしてしまうわけです。
違う文脈で知識を応用するなんて、そもそもの理解が浅いと到底無理な話です。
新学習指導要領のSelf-Regulated Strategy Development (SRSD :自己調整型学習)って『自分で考えて学ぶ力』の改善策としてまあまあ良さそうだけど、
現状の受験システムとか評価基準が表層的な学びを助長するままだと、限界はある気がします。
それなら、メタ認知がないAIが多次元的に学んでいくプロセスを観察して、新しい教育のヒントを探すほうが面白いかもしれません。
増田のタイトルの通り、学歴があっても、長文を読んで理解するどころか、単純化された動画の内容さえ把握できなかったり、同世代との会話がどこまでも噛み合わなかったり、仕事の指示が通らなかったり、そんな人っていますよね?
これって、上記に書いてきたように、メタ認知能力が極端に欠けてることや、知識移転能力の欠如、表層的な学習が積み重なった結果なんじゃないかと確信を持っています。
大卒以上であっても、こういう人が無視出来ない数いるのは、正直「なんで?」って思う人が多いんじゃないでしょうか。でも、この「なんで?」の背景には、「勉強やデスクワーク=知的で選ばれたもの」っていう妙な誤解がある気がします。この固定観念が、現代社会における知性や労働の本質を見誤る原因になってるんじゃないかなと思います。
しかし、その一方で、社会の基盤を支える多くの職種が軽視され、不当に評価されている現状があります。
なぜかというと、"知識労働者(Knowledge Worker) "ではなく、"知的労働者" って呼称が使われたりすることからもわかるように、肉体労働者は知能を使わないみたいな妙な誤解を悪用し、仕事の複雑さや多様性を極端に単純化し、賃金差別(経済格差ではなく差別が適切)を正当化する輩がいるからです。
実際は、デスクワークだけでなく、フィジカルワークにも、高い認知能力は不可欠です。
例えば、エラーを検知し、適切なタイミングで作業を中止し、問題を解決する–これらは、メタ認知能力と深い経験に基づく高度な知的作業ですよね?プログラム組んだことなくてもロボットを作ったことなくても、誰しも直感的に知っていることです。
障がい者雇用に最適化された職場を除けば、こうした能力に欠ける人がフィジカルワークに適応することは非常に困難です。その理由は単純で、迅速に適切な判断ができなければ、事故や怪我を招き、最悪の場合、死人が出るからです。
フィジカルワークが出来そうもない人は、なんとなく知識労働を選ぶことが多いです。必ずしも自分の適性を十分に理解しているわけではなく、「選択肢の中で最も受け入れられる道」として選んでいることが多いです。でも、極端にメタ認知や応用力がないと、どんなに学歴があっても知識を活用できず、「結局この人は何ができるの?」って評価に甘んじちゃうことになります。たとえば、エラーメッセージに明確な解決方法が書かれているにもかかわらず、それを読み取れず(一応、読んではいる模様)、ただそのまま誰かに転送するだけの技術者とか、その典型ですよね。
もう一度言いますが、デスクワークだけでなく、フィジカルワークにも、高い認知能力は不可欠です。
それがある前提で、重要視されるのが、物理筋肉(運動能力)なのか、論理筋肉(知識)なのかって違いだけです。
1つ前でも少し書きましたけど、知識って筋肉みたいなものだと思うんですよね。鍛えればどんどんムキムキになるけど、筋肉単体ではその魅力をフルに発揮できない。
物理筋肉も論理筋肉も、それをうまく使うスキルが必要です。データベースが単体ではただの情報の塊で、システムと連携して本来の力を発揮するのと同じです。
で、そのシステムを設計するには、基本的なエラー処理や停止処理の考え方は欠かせません。そして、エラー処理をするためには、知識を他の文脈で応用する力、
つまり『知識移転能力』が必要です。それを支えるのが、メタ認知能力なんですよね。
国の競争力を維持する上で、論理筋肉マッチョを育成することは非常に大切ですが、その筋肉を有効活用するためのメタ認知能力がないと、いくら筋肉がついてもリソースの無駄になってしまいます。
というか、論理筋肉マッチョに限らず、どんな分野でも同じことが言えます。リソースの無駄遣いを避けるために、筋肉の活用法を理解する能力を養うことは、なによりも優先されるべき取り組みだと思います。
(長文が読めない、動画の内容すら理解できない、仕事や科学や社会問題の議論でトンチンカンな発言をする、仕事の指示が通らない、でも広範囲に知的な課題は持っていない、なんなら大学も卒業している――そんな人たちの姿を見ながら書いてます)
きゅうりは、95%以上が水分で構成されており、低カロリーな野菜です。しかし、水分だけでなく、以下の栄養素を含んでいます。
ビタミンK | 血を固まらせる働きを助ける |
カリウム | 高血圧予防に効果が期待できる |
食物繊維 | 便秘解消や腸内環境改善に役立つ |
シリカ | 美肌効果や骨の健康維持に役立つ |
これらの栄養素は、私たちの健康維持に役立つことが知られています。
きゅうりには、ビタミンCを壊してしまう酵素「アスコルビン酸酸化酵素」が含まれています。そのため、他のビタミンCを多く含む食品と一緒に摂取すると、ビタミンCの吸収率が低下してしまう可能性があります。
きゅうりは体を冷やす作用があるため、冷え性の人は食べ過ぎに注意が必要です。
オレンジジュースやパプリカなど、ビタミンCを多く含む食品と一緒に食べる際は、時間をずらしたり、加熱調理したりすることで、ビタミンCの損失を減らすことができます。
冷え性が気になる場合は、きゅうりを温めて食べるか、他の温かい料理と一緒に摂るようにしましょう。
きゅうりだけでなく、様々な種類の野菜や果物をバランスよく摂取することが大切です。
きゅうりは、栄養価の高い野菜ですが、食べ方によっては体に悪影響を与える可能性もあります。上記に挙げたポイントに注意しながら、美味しく安全にきゅうりを食べましょう。
色々理由を付けて子供を産まない女に対して、酸っぱい葡萄だとか何とか言って叩く人がいるけれど。
でも実際には葡萄が酸っぱいかどうかなんて、食べなくたって予め分かるよ
同じ品種、同じような生育環境、収穫からの期間の葡萄なら、そりゃ同じような味になるに決まってるじゃない?
こっちは自分自身の人生という葡萄を既に嫌と言うほど味わって、それが酸っぱい事を知っているの。
ブスで発達障害で、実家も細くて地方出身低学歴低収入。地獄だよ。
そんな女が子供を産んだところで、その遺伝子を受け継いで生まれてくる子供の人生も似たようなものか、さらに辛いものになるに決まっている。
しかも現実的に配偶者として期待できるのは、自分と「釣り合う」ような相手だけ。自分と、それと釣り合うレベルの底辺低スペ男間に生まれてくる子供なんて、低スペにしかならないじゃん
万が一自分と到底釣り合わないようなハイスペ金持ちイケメンが自分に猛烈に惚れてプロポーズしてくれるなら別かもしれないけれど、そんな事はまず有り得ないし。
「もしかしたら酸っぱくないかもしれない!甘いかもしれない!」なんて希望的観測で、わざわざチャレンジするのは馬鹿馬鹿しいとしか思えない
しかも葡萄ならば酸っぱい思いをするのは自分だけで済むけれど、子産みはそうじゃない。我が子という他人の口に、強制的に酸っぱい葡萄を突っ込む事になるんだよね
いや、酸っぱい葡萄云々言う人達は、仮に同じ人が子供を産みたいと言ったとしたら、多分今度はブスは産むな障害者は産むな劣った女は産むなと止める側に回るんだろうね
ある日、私のデスクに小さなサボテンが置かれていた。特に気にすることもなく、「まぁデスクにグリーンがあるのも悪くないな」と思っていたんだけど、そこからすべてが始まった。
数日後、同僚が私のデスクにやってきて「このサボテン、ちゃんと水やってる?」と尋ねてきた。え、水? サボテンってほとんど水いらないんじゃなかったっけ?と思いつつ、「まあ、時々ね」と答えた。でも、その日を境に、毎日のようにサボテンの成長具合を聞かれるようになった。
「この種類、ちゃんと育てないとすぐに枯れちゃうから気をつけてね!」 「光の当て方、間違えてない? 日差しが強すぎるとダメージ受けちゃうよ」
そして、ある日には同僚が自分の持っているサボテンコレクションを見せてくる。「見て!私のサボテンたち。こっちが10年もの、こっちは海外から取り寄せたレア品種なの!」
いや、私、別にサボテンにそんな興味ないんですけど…。それでも毎日、サボテンに関するアドバイスが飛び交う。「サボテンが枯れたらデスク運も落ちるよ」なんて言われたりして、もう完全にプレッシャーだ。
そして今日、ついに同僚が「このサボテン、他の子に比べてちょっと元気ないね。ちゃんと世話してる?」と鋭い目でチェックしてきた。私のデスク周り、いつの間にかサボテンの成績表でも作られてるのか?とさえ感じる。
なぜこんなことになったのかは全く不明だが、私の職場生活は今や「サボテンハラスメント」によってじわじわと追い詰められている。誰か助けて…。