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「記号論」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 記号論とは

2024-07-21

ウォーク左派ジジェクファンによる、ジジェクへの反論

https://anond.hatelabo.jp/20240721230541

上記ジジェク記事への反論記事

ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済

2023年3月2日

ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/

 

私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである

彼の著書『終焉時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、

彼の他の著作に興味を抱かせるきっかけとなった。

ジジェク文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。

 

本棚に積まれ1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。

私は、ジジェク長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分知的価値を測るようになった(現在ほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。

 

それだけに、現代政治文化に関する最近記事で、ジジェク非難するのは心苦しい。

しかある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、

なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、

有利なポジションに私を置いていると感じている。

 

私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクエッセイである

そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。

 

ジジェク哲学は、ヘーゲルラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着からオーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。

他方で世間一般におけるジジェクペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス挑発者であり、象徴破壊であるが、自分勝手ものではない。

ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。

 

したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。

 

私は、ジジェクお気に入りトリックひとつである正式哲学分析範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、

喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。

(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレ特殊構造が、

ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界概念に対する究極の反論となっている)。

 

ほとんどの場合ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さら重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、

しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである

 

そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。

トランスジェンダー権利をめぐるスコットランド政治的混乱からまり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトラカンへの言及で締めくくる。

しかし、このざっくりとした読み方は根本的に間違っている。

 

表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。

これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;

 

ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダー権利をめぐる、最近政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、

正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。

 

結局のところ、ジジェクは皮相な哲学手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。

ジジェクは、過去10年間にリベラル知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。

 

ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:

 

  「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。

 その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。

 言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。

 批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間サポート必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。

 

この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?

 

ジジェク引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。

実際、彼が引用したガーディアン記事を読んでいれば、上で引用した段落修正できたかもしれない。

 

ジジェク引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカー不妊の原因にはならない "と書かれている。

したがって、このスロベニア人知的怠惰恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険形態である

 

さらにひどいのは、ジジェク記事の冒頭で取り上げた最初文化分析対象である

コンパクト編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。

 

それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性レイプしたことを我々は知っている"

 “We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”

 

ジジェク言及しているのは、アイラブライソンの事件である

 

この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプ有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、

トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハテストとなった。

 

ここでジジェクは、基本的事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。

 

さら問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである

(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。

 

ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェク性別を間違えて表現することに固執するのは、

ジジェクトランスアイデンティティ尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。

 

ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。

 

しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である

彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;

 

この時点でようやくジジェク哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。

 

記事の次の部分はさらに長く、さら面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事宣伝である

(中略)

 

で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?

 

その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。

彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。

The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.

 

 [ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭利益残酷計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」

 

思春期ブロッカー使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。

 

ここでジジェクは、ジャニスレイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、

製薬企業にとって重要経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。

 

そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実物質的な対立のために戦うのではなく、

資本の側、つまり極悪非道個人の側にいる人々として捉え直すことができる。

 

バトラーフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェク盲目にさせているのだ:

 [ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識プロセスである

 それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。

 

作品全体と同様、これはジジェク特有哲学プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである

この最終的な帰結は、英米トランスジェンダー物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクお墨付きスタンプを押したということだ。

 

ジジェクは、社会の変化に懐疑的ジャーナリスト知識人瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまたかのようだ。

これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である

 

過去思想家からの豊かな引用を悪しき議論隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。

 

私たちにとって悲しい日であり、多くの意味ジジェクにとっても悲しい日である

 

ジジェク豊富理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。

このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。

[終]

2024-03-08

anond:20240224181401

漫画ステレオタイプというか、記号論が発展してきた結果、「男女がいる=恋愛に発展する」という式が成立してしまい、男性キャラクター存在すら許せなくなった人間の愚かさが悪い

2024-02-18

anond:20240218115738

定義表現が別物なんて言ってない

厳密に表現する手段として記号論理なり推論規則なりが定められていて広く認められてるのに対して、

「¬¬¬¬¬A→Aと曲解してくる人間存在」を想定して水掛け論に持ち込むのは少なくとも数学範疇ですべき議論ではないだろと言ってるだけだ

2024-02-17

anond:20240217200727

の具体的になんて本(ネットpdfでもよい)の何ぺージあたりから元増田の問いにとって核心なのって話よね

てか、ラムダ計算よりむしろ記号論理学のほうが学問としての領域気持ち広くなってね?

ちなみにそもそも自分自身ラムダ式勉強した経験があるけど

1. 変数xはラムダ項。

2. ラムダ項M, Nに対して (M N) はラムダ項。この形のラムダ項を適用ラム適用)という。

(後略)

という定義があるんだけど、これに基づけば(x x)というのもラムダ項じゃないのって思ってた。

でもラムダ式で(x x)なんて形のは見たことないし、違うんだろうなと。

でも論理的にはなぜ違うのか全く納得できてないので(納得感が正しさにとって問題じゃないとはいえあえて言うが)(x x)だってラムダ式でしょって胸を張って言い張れる。

なんでxxがラムダ項といえないかお前は説明できそうだな?教えてくれんか?

anond:20240216215810

「Aかつ¬Aの証明を得ることができる」に対して、「いいや得られない。お前がそのように見せかけているだけだ」おれの計算(記号処理)手続きこそ推論規則に適っているし正しいと、反論されたら?

また、「そもそもここでいう『得る』とは」どういう意味か?と突っ込まれたら曖昧でなく『得る』ということが『得る結果の具体例ではなく』『どういうことか』記述できるのかという話です。

¬¬A→Aという規則に基づいた結果が

¬¬¬¬¬A→¬¬¬(¬¬A)→A

なんだよ!と言い張られる。もちろん常識的にはおかしいと思えますが、いまは突き詰めたことを言っています

一般には、¬¬¬¬¬Aを書き換えるために、この記号列の一部分¬¬Aに着目して、規則からAと書き換えられるから、この結果を¬¬¬(¬¬A)に代入?して、¬¬¬Aに書き換えられる、という思考プロセスをとるでしょう。

しかあくまものとしては、ここで考えているのは¬¬Aではなく¬¬¬¬¬Aなわけです。

規則通りに書き換えられてない、言い換えるなら同じ規則を使っていないという主張に対して、そもそも同じ規則適用できているということ、規則が同じとはどういうことか自体定義公理に組み込むことはできるのか。

矛盾証明ということはまだその概念記号列で示す余地があるが、規則が同じかどうかという定義もとい「規則」は厳密に定義可能かということです(無定義語として関係性の定義でもよい)。図形が合同か、みたいな合同の概念定義など比べてもまたレイヤーが一段メタ的になっていて厄介というか。「違うのは自明じゃないか!」といっても、自明説明できてこそ自明なのですが、ここでいう同じかそうでないかということについてはそれを根拠だてる定義原理的に無理なんじゃないかと思えてしまます

さきほど『得る』という言葉に突っ込まれたら云々ということを言いました。

ブコメには「自然言語曖昧さで数学をの厳密さ否定しようとしてるだけだ」というのがあります

別に私は自然言語曖昧さを問題にしていません。そこは問題本質ではないです。

しろこうした言葉一般に疑いようなく明らかなものです。「左右」とか「これやあれ」みたいな近称や遠称の概念などもそう思われるでしょう。

しかしむしろこれらの概念には一切曖昧さはないという前提に立っても、これもごく単純な話で、曖昧でないからといって、いままでその概念を持ってなかった知性的存在に対して、「これ」や「左右」といった「概念」を、対面やジェスチャーを使えばいざしらず、記号列を用いて一意に定義できる保証はないよね、ということです。定義の厳密さを担保する必要条件が、記号理学に基づくということにあるのなら、数学を厳密とのたまうかぎりにおいて、当然対面やジェスチャーではなく、これとか同じとかみたいなもっと原始的な部類の言葉まで全て記号で一意に定義できることを示せなければならないでしょう。

あとあなたが↓のトラバと同一だと言ってくれたら以降↓の方のツリーに返信書いて一元化するのでそのつもりで

https://anond.hatelabo.jp/20240216215810

ちなみに関連しそうな話題として自分自身ラムダ式勉強した経験があるけど

1. 変数xはラムダ項。

2. ラムダ項M, Nに対して (M N) はラムダ項。この形のラムダ項を適用ラム適用)という。

という定義があるんだけど、これに基づけば(x x)というのもラムダ項じゃないのって思ってた。

でもラムダ式で(x x)なんて形のは見たことないし、違うんだろうなと。

でも論理的にはなぜ違うのか全く納得できてないので(納得感が正しさにとって問題じゃないとはいえあえて言うが)(x x)だってラムダ式でしょって胸を張って言い張れる。

分かってる人からみれば、そして俺にとっても¬¬¬¬¬A→Aと同程度にバカげた主張なんだが、そのわかってる人にとっても「この規則ならこういうことが言えると思うのに、なんで正解とされてるのと自分が思ってることが違うの?」ってなることはあるはずで、それはこの世で一番数学ができる人であってもありえること。この世で一番数学ができる人さえ規則を正しく適用できていないらしいときそもそも正しい適用とはなんだってなりそうに思うんだが。

anond:20240217122730

正しいものならコンピューター証明できるが短時間計算が終わる保証はない。また、正しくないものであれば計算永遠に終わらないことがある

あと、どんな数学的主張も記号論理学でいう記号列に翻訳できるものなら(逆にいえば翻訳できないもの数学問題としての資格はない)コンピュータ機械的証明が正しいか確認できるっていうけど

anond:20240217105658

望月トンデモなのじゃなくて、数学定義原理的に厳密であり得ないという可能性も否定されないよね。

あと、どんな数学的主張も記号論理学でいう記号列に翻訳できるものなら(逆にいえば翻訳できないもの数学問題としての資格はない)コンピュータ機械的証明が正しいか確認できるっていうけど、

それならなぜABC予想の証明記号列に直さないんだ?それが完了すりゃ紛糾の余地なく白黒はっきりつくはずなのにね?やってるけど難しいからまだできてないってだけ?

そもそも証明論文から記号列に直した「つもりになってる」ある記号列を作ったとして、それがコンピューターが正しいと言った時、記号列が正しいことにしかならなくないか

まり「つもり」ではなく、論文という多少なりとも自然言語の部分をはらむ文と、記号列が厳密の翻訳元と先として対応していることを、この自然言語原理的に介在してしまっている「対応してるか」という問題を解けるのかということ。

anond:20240217105009

から、基づいてないとどうしていえる?基づいているの定義は?って話されたら終わりじゃん?

記号論理学はたとえば記号列を記号列を書き換える矢印?いやなんでもいいけど「書き換える」に相当する記号規則が示されてるだろうけど

そもそも「書き換える」を定義できるか?「矢印」含めて記号列全体が規則なわけだが、「矢印」のみを「書き換える」という意味を持つ特別資格を持つ記号だと規則として示すのに常識によらないことは可能か?どうやって?

2024-02-16

anond:20240216210851

言及されている状況を(記号論理のような)推論規則を用いて何らかの証明を書いていると仮定します.

証明」というもの特定の条件を満たす公理と推論規則を用いた操作の列として(数学的に)定義されています. ここで公理や推論規則などはあらかじめ固定されています.

与えれた記号列, 文字列証明であるかどうかもその定義に基づいて判定することができます.

言及されている状況での会話ですが, あくまで推察ですがおそらく生徒の書いた証明証明の体を成しておらず, 皮肉混じりに言ったのではないでしょうか?

(上で言及しているように, 公理や推論規則を変えた場合, どういう記号列が証明であるかも変わります. )

anond:20240216124331

記号論理学問題だって複雑なのだと解答を間違える人はいるわけじゃん。

それは記号の生成・操作規則に対して「正しく理解してる人」と異なる法則として理解しちゃってるからなの?

でもじゃあその法則が間違ってるってどうしていえる?淡い想像から自信ないけど究極的には「こうだからこれで合ってる!」「いいや違う!」と蒟蒻問答みたいになりそうだけど。

まあもちろん例題そのとおりの、考えうるもっとシンプル問題については与えられた「規則」を用いて誰もが同じ解を出すだろうけど、複雑な問題に対して、習熟してるとされる先生学生とで答えが異なったとき、どうして前者だけの規則適用の仕方が正しいと証明できるだろうか。しかも本人はそれなりに納得感を持ってその解を出しているのに。

規則に対して正しく内容を理解してる、言い換ええば、規則に対してその規則と異なる規則を持っているのではない、ということを解(途中式含めて)「こうだからこう!」じゃなくて、筋道立てて学生側の未熟とされる解を否定しきるのは「困難」なんじゃないかそもそも正しいってなんだ。

anond:20240216170217

でも記号論理学でもなんでもいいけど、結局は数学定義を正しく理解するかにかかってるわけじゃん。

理解解釈区別すべきかどうか知らんけど、理解すら数学の外だと否定するなら、世の中には数学概念を伝える手段などなくたった一人の人間しか数学ができないことになるよ。

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

2024-02-14

anond:20240214191158

こういうこと言うやつは自然言語使わないでほしいよな

一生記号論理とかで喋っててほしい

2023-11-07

マナー講師嫌悪する奴ら

正直言って俺も胡散臭いと思っているし、信用もしていない。

大方の意見ネット民と同じだと思っていい。

しか提言するべきことがある。

重要なのはマナー講師を何故胡散臭いと感じるかだ。

理由簡単マナー講師の奨めるマナーというもの一般的ではないように感じるため。

まり恣意的なんだよ。

マナー講師独自マナーを作ってそれを流布しようとしている。

けどそれって、あなたルールですよね?というわけだ。

だが少し待ってほしい。

恣意的ものというのは果たしてマナー講師マナーだけだろうか?

本題に入ろう。

ここから言語の話だ。

日本人であれば当然「てにをは」のことは知っているだろう。

掻い摘んでいえば助詞の使い方についてであり、文法規則のことだ。

例えば、次のような文章があるとしよう。

1.私は増田が好きである

2.私は増田は好きである

一般的に正しいのは1。

では2はどうだろうか?

違和感を覚える?そうだろうね。

でも、2が間違っているわけではない。

それはただ読み難いというだけに過ぎない。

しか試験で2のように書けば×をもらうだろう。

そもそも我々が「は」を「が」と同様にしない理由はあるのだろうか。

はっきり言おう。

そんなものはない。

そこに必然性はなく、あるのは恣意性のみだ。

馬鹿を言うな。そんなことを是としてしまえば世が混乱する。

ええ、その通り。だからこそ世の中のルールというのはおおよそが恣意的である

にもかかわらず、恣意性であることに気づいていない人が大半なのは悲しいことだ。

しかしこれは悪いことではない。寧ろ必要なことであり通念がなければ社会は成立しない。

要するに、社会というのは洗脳されなければ成立しない。

からこそ必然性のない恣意性を我々は教育として受け入れ、それを是として正しいと認識する。

緩やかな洗脳必要悪。それは洗脳と呼べばそうであろうし、常識と呼べば好まれる。

からこそマナー講師糾弾するというのは同時に、自分洗脳に対する嫌悪でもあるはずなのだ

世はSNS全盛期。

人々は情報に踊らされ、偏った情報洗脳されている人々を笑う。

洗脳されている奴らを洗脳されていることに気づいていない奴らが笑う。

人生喜劇である

巷でたまに聞くこの言葉意味は、そういう意味なんだよ。



追記

拙い文章ながらブクマコメントいただきありがとうございます

初めての増田投稿のためドキドキしながらも嬉しいです。

そしてコメントにおいて何点か気になるものがあったため追記しました。

君は自分が思ってるほど頭良くないし作文も上手くない。もってまわった言い回しを全部切って文量を半分にすると頭良くなるし作文も上手くなる。騙されたと思ってやってみな。

まず、これは頭が「良い」や「悪い」の話ではありません。

そのため本文の内容を理解できたのであれば感想として「頭が良い」「頭が悪い」といったものは出てきません。

何故なら本文が示す意味準拠するものを問うからであり、意味理解したなら「そもそも頭が良いとは何か?」といった感想になるはずです。

まり「分かりやす文章を書けた方が”頭が良い”のならば、その分かりやすさはどの程度の知能を基準とするのか?」という問題です。

本題と言いつつ本題ではない部分だけど、文法的に通じることと同じ意味として通じることを混同している。愛の告白をする時に「僕は君は好きだ」なんて言ったら十中八九「じゃあ誰が嫌いなの?」って返されるよ。

あえて混同させています

その上で「じゃあ、どうしてそれを”混同”と呼び、差異を認めるのか?」といった話です。

ただ例として出した文章が分かり難いといったことは否めず、それは完全にこちら側のミスと言えるでしょう。

すみません…。

格助詞「が」と副助詞「は」は同じではないよ。

問題は、それら「が」と「は」が同じではないとして、では何故同じではないのか?という話です。


本文を書くきっかけは、部下と言語についての話をしたことでした。

私は言語学や記号論を学んでおり、当時はそれらが時代の潮流に乗り、栄えた時代でもありました。

部下は著名な大学を出ており、専攻は文学と聞いていました。

そこで私がジェラール・ジュネットマリー=ロール・ライアンを持ち出して話をしたところ、ポカンとした表情を見せられ、

じゃあロラン・バルトについてはどう思うのかと聞きました。

すると彼は「それってガンダムキャラクターですか?」と笑って尋ね、私は愕然とし、構造主義としての思想はもはや廃れてしまったのか?

憂慮する思いを抱きつつ、多少の啓蒙目的で本文を書き記した次第なのです。

2023-10-27

記号論理を万能だと勘違いして自然言語の会話で持ち出す人間はアレ

2023-10-17

構造主義者がなろう小説レビューすると

言語というものには少なから記号論イデオロギー存在するため、異世界転移(もしくは転生)した者が地球とは異なる物理世界魔法等が存在する)において、同等の文脈で会話が可能であることに違和感を覚えずには居られないのである

2022-11-17

anond:20221117101823

ワイ理系だけど溝ありまくりだと思うで

文系高校生でも知ってるようなおなじみの記号論とか知らんやつ多すぎるし

2022-09-04

anond:20220904164442

他人発言には記号論理的な正誤以上の高い理性を求めるくせに、自分発言そもそも事実関係からして間違っていても「被害者から大目に見ろ」と。卵が先か鶏が先か知らないけど、お互いに「あいつらが先に!」と言ってるうちは「どっちもどっち」でも、ここまで自分に甘く他人に厳しいのは流石に狂人

anond:20220903222817

本件を理解するポイントは二つ。

彼らそれぞれが本当に言いたいのはこう。

小山北村自分を"若い女"だと言った(事実誤認)。北村ナルシスト(レッテル貼り)」

Spica「"生意気若い女"という表現を使ったのは嶋(事実)。嶋にはそのつもりがなくとも、このような文章を書いたこ自体北村に対する侮辱である(意味不明)」

墨東(嶋)「表現解釈以前に俺はそんなこと言ってない(事実誤認)。こいつは嘘つき(レッテル貼り)」

吉峯「言った(事実)。嶋にはそのつもりがなくとも、このような文章を書いたこ自体北村に対する侮辱である(意味不明)」

小山と嶋は手がつけられない狂人。前提となるべき基礎的な対話能力が欠落してる。「1+1は2じゃない」と大真面目に言うタイプブロック推奨。

それはそれとして、Spicaと吉峯も冷静ぶってるけど、どさくさに紛れて事実確認の隙間に「敵への攻撃」を仕組んでいて、それは「白とも黒とも言えないグレーを黒と言い張る」ような不誠実さがある。


しかしまあ実際のところ、Spicaや吉峯レベルというのはだいぶマシな方で、小山や嶋みたいなレベル狂人が「論壇」ぶっているというのがTwitter現実ではある。

2022-07-08

サイゼメニュー記号論資本主義がというの、「開陳したものが、豊かに生きるための教養の一つじゃなく、手垢まみれの手癖の一つでしかなくなる日」って誰にでも来るのだなあという顔をしている。

教養人たる当人としちゃ教養はどれも等しく尊くEverlastingな物なのでご指摘には当たらないと信じておられるのだろうが、その立ち位置ポップカルチャーとは対岸にあるし、カビの生えた手法ポップカルチャーを不躾に触るのは教養のある手付きとは思えないんだよなあ。

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