はてなキーワード: 宗教儀式とは
ペンライト演出の起源には意外な歴史的背景があります。それは、遥か昔のキリスト教のミサにまで遡ります。
中世ヨーロッパでは、ミサが非常に重要な宗教儀式として行われていました。このミサの中で、信者たちは一斉に蝋燭を灯し、その光を聖なる象徴として用いていました。特に夜のミサでは、闇の中で揺らめく無数の蝋燭の光が幻想的な雰囲気を作り出し、信者たちの心を一つにしました。
時は流れ、現代の音楽シーンに目を移します。1980年代後半、日本の音楽業界は新しい演出を模索していました。その中で、あるアーティストがヨーロッパ旅行で訪れた大聖堂のミサの光景を思い出しました。蝋燭の光が作り出す神聖な雰囲気と一体感に感銘を受けた彼は、これをライブで再現できないかと考えました。
しかし、蝋燭をライブ会場で使用するのは安全上の問題があります。そこで彼は、化学発光のペンライトに着目しました。このペンライトは、安全に光を楽しむことができ、かつミサでの蝋燭のように観客全体で一体感を演出できる道具として最適だったのです。
初めてライブでペンライトが導入された時、その光景はまるで現代の「光のミサ」のようでした。観客全員が一斉にペンライトを振ることで、音楽と光の融合が実現され、会場全体が一つに繋がる感動的な瞬間が生まれました。
この新しい演出は瞬く間に広まり、他のアーティストやグループも次々とペンライトを取り入れるようになりました。そして、現在ではライブの定番として定着し、色とりどりのペンライトが織りなす光の海は、ファンとアーティストが一体となる象徴的な光景となっています。
いいよね! 西日本の美術館・博物館! 関西というくくりからは外れちゃうけど、ワイは以下が好き。
琵琶湖の「生活の場」としての人文的側面と古代湖としての自然的側面を両方堪能させてくれる超贅沢な博物館。琵琶湖湖畔で営まれた長い年月にわたる人々の暮らしを堪能したあとに、古代湖という環境で育まれた多種多様な固有種が展示されていて、歴史も生物も好きなワイは大歓喜だった。ビワコオオナマズとかイワトコナマズとかホンモロコとかワタカとかニゴロブナとかの琵琶湖固有種、どれもここで初めて見たし、水槽での遊泳の展示だけじゃなくて固有種を使った郷土料理についての展示もあるのがもう文理融合って感じで素晴らしいのよ。さらにさらに古代湖繋がりで世界各地の古代湖の生き物が展示されていて水族館としても楽しめる最高の施設。マラウィ湖の色とりどりの熱帯魚キレイ~~~~~バイカルアザラシかわいい~~~~~!!1!!! ……あれ? ヴィクトリア湖の展示には1種類の魚しかいないぞ? あっ……(察し)
言うまでもないやつ。1日じゃ足りない。早足で回っても6時間以上かかったんだけどどうなってるんですかね。日本にいながらにしてこれだけの美術品の原寸大レプリカを見ることができるの、最高すぎますわ。おいおい西欧だけじゃなくてウラジーミルの生神女とかの正教文化圏のやつまであるのかよ。世界史の資料集で見たことある名画が勢揃いしすぎていて興奮せずにいられない。しかもレプリカだから傷めないように大事に遠いところで保管されてる本物と違って鼻がくっつきそうな距離でまじまじと見れるというのも良い。西洋美術史を一望できる素晴らしい美術館。ありがとう大塚製薬。
これも言うまでもないやつ。山奥の宗教儀式から現代アフリカの都市生活まで幅広く世界の民族文化が扱われていて最高。ヨーロッパから南米・アフリカまで、はたまた朝鮮・琉球から日本の山村まで、ありとあらゆる地域がカヴァーされていてまったく飽きない。あと途中にある世界の様々な言語で書かれた『はらぺこあおむし』とか、日本各地の方言で読み上げた『桃太郎』とか面白い。
ここほんとすき。四国各地から移設した伝統的な建築物が立ち並んでいて、海沿いの漁村から山奥の秘境まである四国という島の多様性を体感することができるし、そもそもの「日本家屋」自体の地域性を感じられるというか、気候や生業や階級によって家屋の形って違ってくるんだよなぁっていう当たり前かもしれないけど忘れちゃいがちなことを思い出させてくれるというか、いやー、良い博物館です。日本文化について勉強してますっていう海外の学生さんにはぜひここを訪れてほしい。源氏の君や富嶽三十六景とはまた違った日本文化の多様性を目にすることができるので。
銅剣の展示がすごすぎる。圧巻というほかない。荒神谷遺跡しゅごい……他にも、出雲神話についての展示が充実していたり、石見銀山の展示があったりと、神代~中世くらいまでの出雲国の歴史を知る上ではすごく良い。タタラ場体験コーナー良かったです。あとワイが行ったときはちょうど隠岐についての企画展やってて、なかなか知る機会のない隠岐諸島の歴史も勉強することができて大満足だった。明治維新のときに松江藩の郡代を追放して島民が自治政府を結成した(隠岐騒動)とか、もうたまらないよね。わぁい離島の自治政府。あかり離島の自治政府大好き。
日本に古代オリエントの研究拠点を整備したかった某皇族が県立美術館に対抗して市立美術館を持とうとした岡山市に声をかけてできたという由緒のある美術館。古代メソポタミアからペルシャ美術まで、各地域各時代の中近東の美術品が並べられていて目の保養になる。えっペルシャに影響受けた中央アジアの陶器のデザインめっちゃ好きなんですが……
平安文学の世界に入り込める博物館。ここ古文の授業でやったところだ! とか、古文の授業でやったあれってそういうことだったんだ! とか、えっ何それ知らない……みたいなのがいっぱい押し寄せてきて楽しい。あとトイレのマークが平安装束なのオシャレでいいよね……女子トイレが十二単で、男子トイレはどんなんだったっけ? 直衣? 狩衣?
京都精華大学の本気を見た気分。日本が誇るマンガ文化についての圧倒的な展示。『キャンディ・キャンディ』とか、超レアなやつじゃん……オタクなら一度は行っておきたい博物館っすね、はい。
城下町だけあって武家屋敷を模した建物(そして敷地内には実際に家老屋敷が現存している)で大変よい。やっぱ博物館は展示品だけじゃなくて雰囲気も大事っていうか、西洋の博物館が靴のまま上がりこむのが普通なら日本の博物館では靴を脱いで畳の上で展示を見るんだよ! っていうコンセプトを感じられて好もしい。そして中世後期~近世以降の松江の歴史が丁寧に展示されていて、たぶん古代出雲歴史博物館とセットで見てまわることで出雲国の通史がわかる構造になってるんだと思う。面白かったです。
美観地区の高台にある旅館を改装した美術館。和風の町並みの真ん中にある和風建築で浮世絵を見るの、雰囲気があってとてもよいし、展示されてる絵がどれも贅沢。さらにキャプションが完全な日英バイリンガルなので「インバウンド狙ってます」感が強く(なおオープンしたのはコロナ禍の真っ最中だった模様)、実際外人さんにはウケると思うので日本に行く人には紹介してあげたい。ミュージアムショップも充実しててよき。相馬の古内裏Tシャツ買っちった。
小豆島の町中にある古い家屋を改装して美術館にしたやつ。1つの家屋じゃなく、ご近所に点在する複数の家屋が1つの美術館になっているので、順路に沿って巡るイコール小豆島の街歩きになるという、一石二鳥な美術館。実際ワイも順路に沿って見て回ってる最中に美味しそうな和菓子屋さん見つけて名物の大師まんじゅうとか『からかい上手の高木さん』とのコラボお菓子とか買っちゃったもんな……。注意点としては、あくまで「博物館」ではなく「美術館」、つまり妖怪アートを展示しているところであって妖怪の学術的展示をしているわけではないということ。なので現代の作家が考えたオリジナル妖怪とかSDGs妖怪(何だよそれ)とか妖怪コンテストの入賞作とかも展示してあるんだけど、いや現代美術の展示として見るとめっちゃ楽しいなこれ。妖怪に仮託したイマジネーションを楽しむ施設です。上の国芳館と同じくインバウンドの外人さんに強くオススメしたい。あと入館方法がハイテクで良い。
この規模の美術館にしては立地がパーフェクトでは。マジでJRの駅の真横とかにあるぞ。そして外観がまず目を惹きつけられるし中に入ると濃厚な現代美術空間で、日本のあまり広く知られているとはいえない現代美術作家の作品が色々あるし、瀬戸内国際芸術祭で展示された作品なんかもあったりして(そういえば丸亀市の市域にはけっこう離島があるんだよな)、いや自分の知らない文化っていっぱいあるんやなと。夭折した作家や認知症にかかった作家の特別展とかもやってて、作家の人生込みで味わえる美術館になってるなぁ。
小さくてすぐ見終わってしまうけど、竹久夢二の絵に包まれて大正ロマンに浸ることのできるプチ贅沢な美術館でしゅき。ミュージアムショップは夢二グッズが充実していて何を買おうか悩んでしまう。クリアファイルとか普通に普段遣いできるオシャレさだわ。猫のイラストのやつ買っちった。
日本酒の作り方に関する展示がすごい丁寧な上に、酒蔵直営だからミュージアムショップという名の酒屋がめっちゃ充実してて良き。酒が飲める飲めるで~酒が飲めるで~♪ いや本来の意味でのミュージアムショップもいいんだけどね。日本酒グッズがいろいろ置いてあって楽しい。
展示品が1つでも美術館を名乗っていいんだ、っていう勇気をもらえるよね!
小説の世界と現実の世界が渾然一体となった感がすごい幻想ミュージアムとして見るとなかなか面白いよね!
小学生が書いた竹島についての学級新聞とかが飾ってあってドン引k……いやいや、日本の領土を守ろうとする姿勢に好感が持てるし、アンケートに答えると無料で竹島が描かれたエコバッグをもらえるから、松江城とか松江歴史館とかを観光する前にここに立ち寄るとついもらって荷物になっちゃうパンフレットとかを持て余さずに済むから便利だよ! めっちゃオススメ!
千里市じゃないよ吹田市だよ。恥ずかしい。訂正しときました。いや知ってたんですよ? 吹田市だっていうのは知ってたんですよ? でもなぜか書くときに千里市とかいう謎の自治体が出現してしまったんだ……
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
・ミルクの手間暇については母乳が最高。消毒?いらねえよ常在菌でいいんだよ。
どうせちょっと知恵がつくと遊びのみして楽しそうに手でいじくってまた咥えたりしてんだから消毒で擦ると乳首がひりひり痛むだけだぜ。
それで腹も壊さず丈夫に育ったよ。お出かけのときも乳パッドしときゃいいし授乳室でぺろんと腹出すだけだし。本当にラク。
(ただ、ノロウイルスとか流行る時期は、アレ塩素以外で死なないし乳児が罹患すると本当命の危険あるから気をつけてつくってあげて。手袋してつくるとか)
大腸菌ふくめて13種類の有害物質がとりのぞける浄水器わりと信頼してるけど防げないものもある
水道ならいいけど、ど田舎の井戸水だと、検査結果によっては、硝酸態窒素があって赤子にのませられない水がでてる場合がある。
ブルーベビー症候群になるからスーパーの浄水くんでこい。まあペットボトルでもいいけど。
・「添い乳(ふたりともごろごろしながら乳咥えて寝かせる)が窒息死の危険がある」とか、
突然死がうつぶせは後日医学からも訂正でてたとおもう。うろおぼえだが。
ただしうつ伏せでないと寝なかった子は今はかなり猫背ではあるが。関係無いと思うよ。ドーナツ枕で頭の形とかルッキズムじゃん……
・移動(自動車のベビーシート)はめちゃくちゃ寝かしつけに有効なんだが、移動最中から寝始めて熟睡。
夜に目がぱっちりして「なぜ昼にしない?今が夜のはずがないだろう!」って泣かれてこまった。夜にあてどなく走るのも親がイヤだよ……
「授乳時に乳児の顔を見まもれ見下ろせ」ってのも肩は凝るし巨乳デブだと端から無理だ
・とにかくゆっくり歩く子のについていくのかったるかった父親が自動車にばかりのせていたら、
運転免許とったら母親より上手く苦にならないといって運転する子になった。ただしデブ。
・小児教育は全部無駄。どうがんばっても親以上の子にはなかなかならない。義務教育以上は御の字。
アメリカ留学中に生まれてキンダー通って英語教育されてた子、今全部わすれてるしなんなら日本語もへた
諦めが肝心。あるいは下手な鉄砲も数打ちゃ当たるで平均値とっとくために3人以上産むとか。
とにかく牛や猿にもどったとおもってたくましくカロリーと栄養をとって生き抜け。
野菜食べろとか上質な生活とかヴェジタリアンとかそういうのイラネ。肉だ卵だうどんだ。食わせて寝かせろ。
学校給食が始まるまで生き抜け。夏は学童弁当に食中毒気をつけろ
・運動会の弁当にゆでたてで冷水締めしたそうめんを一口サイズにまるめてならべて水筒にひえたそばつゆいれていった
とにかく感情過多・説明能力皆無・金もない・頭も悪い・合理性がない・説明できないから無茶苦茶適当な理屈で議論やクレームをつけてくる
コンビニバイトみたいなクソ安バイトでさえクレームつきまくるしな
以下、ワイが聞いたことある中で、うわぁ…すげえなーーー!!!(ドン引き)と思ったクレーム
(意味も生産性もなくても無駄な労働をさせ、とにかく労働環境を劣悪にすることに強度の社会的合意があるwwww
かつては神道とかの名前のついた宗教儀式的な振る舞いだったが、名前が消えて今はひたすら名残の宗教感情で金にならない苦労をお互いに強いている。
勿論こいつらはその経緯を知らないので理由を聞かれても答えられない。何故って聞かれてもみっともないから、日本人の心、なんか嫌なんだよねとしか説明はできない。欠陥民族なので自己探究や自己批判はできない。)
(宗教性は強いのに宗教の体を成しておらず、宗教感情のためのコストは非常に高いのに、精神教育や相互幇助や弱者救済のような宗教の本来持つメリットはあまり残ってないwwww
弱者救済意識は先進国だけでなく途上国を含めて見ても底辺、お互いの利益より足引っ張りを優先する度合いは世界一位。
つまり虚無のために苦労することを望み続けている)
(女性蔑視
要するに労働人口の50%の生産性を意味なく捨てるためにどんな屁理屈でもつける。
化粧やヒールによる経済効果は全くなくてコストであってもお気持ちの問題なので関係ない。原因は複合的だが、大体感情過多で合理性がない国民性が理由。日本人の思考能力では合理性というものは高度な概念すぎて考えることができない)
・接客態度が悪い
(経済的合理性よりも感情オキモチが大事なので給料が安くても高いサービスを提供する労働者を求める。
高い金を払おうとしないので社会全体が低給になるなんて、どう考えても当たり前なのに理解できないらしい。知能が低すぎる。賃金が低いと悩んでる人が沢山いる 爆笑)
・弁当を温めるか聞かれなかった
・心遣いが足りなかった
(家で温めれば?追加料金払えば?
多少接客の気が利かないとかいうことにこだわりオペレーションを複雑化させることに余念がない。
感情論しか判断基準がなく、経済的合理性を無視してサービスを求めるヤバい人間が中流階級の80%を占めている。低い賃金低い生産性が加速 爆笑)
・ミスをした時に改善案や補償やミスをカバーする設計ではなくて、とにかく申し訳なさそうな重々しい雰囲気で頭を地面にこすりつけて謝罪することを求める
・商品が安すぎるが店員の給料はちゃんと良い金額を支払われているのか
みたいなクレームがついて、
一般市民は日本ほど愚かじゃないので、合理性のないところにまでクレームをあまりつけないからね。
・接客態度の悪さ→サービス料や対価を払わないのに求めるわけにはいかない
・多少のヌケモレ→ミスのないサービスを作る不可能のための高すぎるコストよりも産業の発展を優先すべき
・使ってたら壊れた→壊れなきゃ売れない
当たり前だよね。
医学的エビデンスに乏しく感染症予防への効果が不明瞭なうがいを、手洗いと同列に並べるな。
そもそも、うがいが必要な人なんてごく限られてるだろ。粉塵や煤煙で汚染された場所で働いているならうがいの必要もあるだろうが、そうでなければうがいなんて不要だ。
喉を乾燥から守って潤したいのなら、水をわざわざ吐き出さずに飲み込んだほうがいい。口腔だけでなく喉の奥や食道までを潤すことができるし、水分補給にもなる。
厚生労働省はインフルエンザや新型コロナウイルスなどの感染症予防として手洗いやマスクの必要性を啓蒙しているが、そこにうがいは含まれてない。確かな医学的エビデンスが無いんだから当然だ。もしも厚生労働省がうがいの有用性を主張しているっていうなら論文なりURLを示してくれ。全力で謝罪文を書いたうえで土下座させてもらうからな。
医師によってはポビドンヨードの含まれたうがい薬を害悪であると主張する人もいる。喉は繊細な粘膜なので、皮膚と同様に消毒液を用いたら粘膜が荒れてしまうからだ。粘膜に対する消毒は基本的には厳禁だ。肛門も口腔と同じく粘膜の入口(出口?)だが、石鹸などで必要以上に洗いすぎたら肛門が荒れてしまうのは常識だ。うんこを頻繁に漏らしたり肛門臭ケア😡を心がけたりしている諸君らにとっては釈迦に説法だろう。
国民の公衆衛生向上を目的として組織された厚生労働省とは違い、薬を売って金儲けをしたい製薬会社は、「手洗い・うがい」という言葉を使ってうがい薬を宣伝してやがる。国民の健康を阻害させるうがい薬を「手洗い」と同列に扱うな。宗教儀式にすぎない「うがい」を衛生行動として喧伝するな。
君はそれ書いて毎回消すけど宗教儀式なの?