はてなキーワード: 存在とは
離婚経験があることを隠してはいないが、安易に人には語らない・知られないように気をつけている。これまでろくなことがなかったからだ。特に、難があるけど引き取ってやってもよいと、私の離婚歴を声高に強調しつつ迫ってくる異性がいるからだ。「離婚しているから自分と結婚前提で交際しろ」。何も無ければ私に関われないけど、私がそうと分かれば積極的に関わろうとし迫ってくる人が一定数いて、私はそれを嫌悪する。
そんなこともあって、新規に知り合う人にはまず言わない。数年前に転職した今の職場でも公表していない。
ところで、私は今の職場の上司(異性)が大嫌いだ。その上司は既婚者で社内結婚だ。この上司、見た目ははっきり言ってぱっとしないし性格は非常に悪い。結婚して気が大きくなったんだろうなと思う。他人をバカにしてコミュニケーションを取るタイプ。未婚の部下には平気で「なんかお前今日さっぱりしてるな。昨日風俗行ってきただろ。」などとと言う。既婚の男性の部下には「お前奥さんと早く離婚した方がいいぞ。」、本人がいないところで「あの人の奥さん全然かわいくない。増田さんのほうがかわいいよ。」などと平気で言うが、自分のことは清廉潔癖かつ紳士と言わんばかりに「ぼく、風俗行ったことないんですよ。女の子をお金で買うのは間違ってる!でも将来デリヘルとか使うかもしれないけど、もし好みじゃない女の子が来たらどうしよう。好みじゃない女の子を傷つけないようにするにはどうしたらいいんだろう。」などとのたまう。私に対しては、唐突に前触れもなく「不倫しないでください」と言ったり、「増田さんは〇〇さんのことを愛してますもんね」(この〇〇さんには何パターンかあって、同じ会社内のものすごく年齢差のある人か三枚目の既婚者の人の名前があてはめられる。)と言ってくる。
あとは基本的に未婚女性に対しては「かわいい」と過剰に言う。増田に対しても言ってくるが、非常に不愉快に感じている。既婚者の余裕というコンフォートゾーンに己が存在しており一方的にこちらが絶対弱者と決めつけ見下し、このような言葉が吐けるのだと、「こんな男に」と思いただただ不快である。言われて嬉しそうにしている人もいるけど、思う壺だよと思って見ている。
私が既婚者だったらそこまで不愉快ないじり方はされないんだろうなと思うようになっていた。それどころか離婚歴があることが知れたらもっとひどい対応をされるんだろうな。
はじめのうちは、この上司のいないところへ行きたいと思っていたのだが、再婚して幸せになりたいと思うようになった。それに、もし私が結婚したらあの人の私に対する態度は少しはましになるのかどうか反応が見たいという気持ちに駆られている。こんな気持ちはばかげており健全でないのは承知しているが、あそこまでバカにされているのが一体どうなるのか。どのような反応であれ納得したい気持ちが大きい。
離婚して10年近く経つけど、別に無理に再婚する必要もないと思っていた。仕事で忙しくしていたし、そもそも今の会社に就職するまでは仕事が楽しかったから。あの上司のもとにいると仕事はただハードなだけなので、異動願を出したが増田は使い勝手が良いからという理由で手放してもらえない。微妙にモテ期が到来しているのを感じているが恋をする体力と時間を仕事に奪われている。早く幸せになった私を見せつけてやりたいというのに。
無限の猿定理の研究は、かなり示唆的な含みを持ってはいないだろうか?
チンパンジーが一生タイピングし続けても"Bananas"という単語すら打てないなら、
カンガルーに袋があったり、キングコブラが毒を持ったり、デンキウナギが電撃を発したりするために
必要な時間を待っていたら宇宙の歴史が終わってしまうかもしれない。
つまり、チンパンジーが一生ランダムにタイピングし続けることはなく、
神の見えざる手によって「結果的に」知性を獲得する必要があるのではないか。
結果から遡って考えると確かにそこに存在していなければ成立しない何か。
まだ、わからないことは多いということだ。
もし人間が現時点でそんなに知的なら、政治家はもっと良い政治をするし、医者はもっと簡単に病気を治すし、学者の意見はそんなに対立しなくてもいい。
そうは思わないか?
アプリや婚活で会ってみただけの初対面の相手を断る女は自分に釣り合った男を選ばない身の程知らずの高望みクズ
たまたま一度接点があっただけの女にアプローチして求愛を断られる経験を拒絶するような、関係性の薄い若しくは存在しない女相手にすら従順な態度を要求する男と人間関係を成立できる女はいない
婚活やマッチングアプリで無数に沸くこれらの主張をする男と一度関係性を持ったらリスクしかないからそら避けるだろ
ただでさえ別れ話や告白を断られてストーカー化するのは男が8割
非モテが告白を断られて放火殺人したりたぬかなを半年間の無職潜伏生活に追い込んだり、自分を受け入れない女相手に定期的に事件を起こすのも男
女がハズレを掴まないように警戒・厳選されるのは当たり前だろ
すげえ時代遅れ、釣りにしても5年は書くの遅い出羽守なのすげーな
EV持ってるフリしてるけど、車持って無さそうだから、HyondaiのBEVとか試乗したことないんだろな
Tier4とか、存在も知らないんだろうな
もっと正確に言うと、人権派と陰謀論者の中間、あるいは地域の名物おじさんみたいなものだった。
この家に育って何が起きたか。
それは認めるし、親としては感謝している。
だが、私はこの家に育って、世間とまったく感性が通じないというか、後天的なコミュ障のような人間になった。
少し前に、発達障害者の人たちが「健常者エミュレーター」という概念を紹介していたが、それを見た時、私は膝を打った。
また、統一協会やエホバの証人の二世問題について知った時、私はこれに近いんじゃないかと思った。
自分が世間から見て「おかしい」ことはわかっている。だが、私に植え付けられた何かが、「いや世間なんて」と茶々を入れ続ける。
私の両親は、あらゆる凶悪事件がまるで発生していないか、あるいはまるで被疑者が英雄みたいに私に話すのだった。
大きな例を挙げると、神戸の連続殺傷事件(酒鬼薔薇)について、両親は冤罪説、つまり少年Aは犯人ではないということをしきりに唱えていて、まだ小さかった私にも、「これは嘘なんだよ」「警察はしっかり調べていないんだよ」と吹き込んだ。
私の父は予備校の会報か講師たちの同人誌か、そういう冊子に、そのことをずっと書いていた。そしてそれを小学生の私に読ませた。
食卓で悲惨なニュースを見ながら、「〇〇ちゃんは、人の心について考えられる人間になってね」と、両親は笑顔で私に話しかけるのだった。だが、「人の心について考えられる」というのは、イコール、死刑廃止活動やあらゆる有名な事件にまとわりつく陰謀論に近い冤罪説を信じろ、ということだった。
母は、左翼の地方議員の勝手連みたいなことをやっていて、時々家が集会場所となった。学校から帰ると、おばあさんとかおばさんが五人くらい集まっていて、きついコロンの香りを漂わせていた。
別に悪い人たちではない。本当なら、私よりもずっと世間に貢献している人なのだろう。お菓子やお土産とかもいっぱいもらった。だが、結局のところ、ある宗教の座談会の人権版が家で行われているのと変わらない。そしてこの集まりから何か発展的なことが生まれたようにも見えない。
こういう家に育って、私は中学生のころまで、いわゆる純粋培養で育った。親の言うことが全てという世界で。
極端に聞こえるかもしれないが、世間のあらゆる犯罪は、冤罪であるか、犯人の非ではない何かの理由があって発生した者であり、警察と政府は悪。端的にそう言う世界だった。
ネット上には、死刑廃止運動に絡めて、ある左翼の議員が、「殺されてしまった人よりは、生きている犯人の人権の方が大切なのだから」と発言した、という情報がある。実際はその議員はそんな発言をしていないらしいのだが。
私が初めて、ちょっとした疑問を覚えたのは、小学校高学年の時だった。
それまで放課後開けていた小学校の校門や校庭を、これからは明確に管理しようという話が、小学校で出たらしい。
しかし、私の両親、特に母親が待ったをかけた。というより、その現場に居合わせた。
母親はその情報を知るや否や、私もつれて、なんと校長に面談を申し入れた。
私は校長室の革椅子に座って、横で母親が延々と「開かれた学校という理念はどうしているのか」「治安というのはつまり何を基準に申しているのか」と校長にまくし立てていたのを覚えている。
なぜ私がそこに連れていかれる必要があったのか、そして半分笑顔でねちねちと喋り続ける母の姿は、子供ながらに、不安だった。その時はそういう言葉を知らなかったが、今考えると、敬語を使うだけのモンスターペアレントではないか、と思う。
そして自分が世間と徐々に乖離していると気づいたのは、中学校に上がってからだった。
両親。家の食卓で両親がわざわざ解説してくれるニュース。両親が取ってる新聞。送られてくる雑誌。友達。漫画。それだけが全てだった私に、携帯電話が買い与えられた。
両親は万能ではなかったし、全てではなかった。むしろ、ピエロの様な、少数者だった。
だが私はそれを知っても、どう処理すればよいかわからなかった。
「いい?憲法にはこう書いてある」と両親は時々言っていた。多分、世間一般の人々より、両親は「知的階級」だ。良いことを言っている。正しいことをしている。多分。恐らく。
だが、世間はそう動いていない。そう育てられた私に対しても。
そこで、当時話題になっていた、ある凶悪犯罪を揶揄するネタを余興としてやる男性がいた。
私は、今考えると、自分でもわからないのだが、「そういうのはやめた方が良いよ。まだ犯人だって決まったわけじゃない」と真顔で伝えた。
場はしらけ、そして私は飲み会に呼ばれなくなった。
SNSなら、これはリベラル的な武勇伝となるのだろう。だが私は、はっきり言って、普通に、なりたかった。
人権は、そしてそれを擁護する存在は重要だろう。犯罪だとか治安だとかに対して、「疑う」ことは重要だろう。だが、それは、宗教と同じく、大人になってから自分で学ぶべきことだったのではないか。
* 捜査権の独占: 捜査権は、警察や検察といった国家機関に独占的に与えられています。これは、捜査の公正性や客観性を確保するためです。
* 法律の制限: 民間会社が捜査を行う場合、プライバシーの侵害や違法な手段を用いる可能性があり、法律で厳しく規制されています。
補足
* 特殊な場合: 一部の民間企業が、警察と連携して捜査を行うことがあります。しかし、これは特別な許可が必要であり、一般的なケースではありません。
* 海外: 国によっては、民間企業が警察のような役割を担っている場合もあります。歴史的にも現代においても、いくつかの例が挙げられます。
歴史的な例
* 古代ローマ: 公共の秩序維持を請け負う私兵集団が存在していました。
* 中世ヨーロッパ: ギルドや都市国家が独自の治安維持組織を有していました。
現代の例
* アメリカ合衆国:
* 保安官: 一部の地域では、保安官が警察のような役割を担っています。保安官は選挙で選ばれることが多く、警察官とは異なる権限を持つ場合があります。
* 民間軍事会社: イラクやアフガニスタンなどでは、民間軍事会社が警備や情報収集など、従来は軍が行っていた業務を請け負っています。
* アフリカの一部:
* 私兵: 一部の国では、独裁政権や反政府勢力が私兵を組織し、治安維持や戦闘を行っています。
* 政府の機能不全: 政府が治安維持能力を持たない、または十分な能力を発揮できない場合、民間企業がその役割を担うことがあります。
* 効率性: 民間企業は、政府よりも効率的に治安維持を行うことができると考えられる場合もあります。
* 利益: 治安維持事業は、大きな利益を生み出す可能性があるため、民間企業が参入する動機となります。
* 中立性の欠如: 民間企業は、利益追求を目的とするため、中立性を保つことが難しい場合があります。
* 人権侵害: 民間企業による治安維持は、人権侵害につながる可能性があります。
* 非合法行為: 民間企業が違法な手段を用いて治安維持を行う場合もあります。
日本の状況
日本では、警察権は国家に独占されており、民間企業が警察のような役割を担うことは法律で禁止されています。
まとめ
民間企業が警察のような役割を担うことは、歴史的に見れば珍しいことではありません。
* 保安官
* 私兵
* 治安維持
* 警察権
同じ部署内の一部の人達が、どうも私のことをネタにして盛り上がってるっぽい
全然気づかなかったけど、給湯室から漏れる話でわかっちゃった。あ、これ自分のことだ、って
(だけど、現時点では辛くて言語化できない)
職場は仕事をする場。友達作りの場所ではない。仕事ができれば問題ない。面倒ごとが起きる可能性が高いから、職場の人とは悪口や噂話をしすぎない。
そういう考えは、ここでは浮いてしまうみたいだ
この春、この部署に異動してきて最初に思ったのは、「なんかこの部署、みんながお互いの噂話をするんだなあ。ちょっと監視社会っぽいなあ」だった
だから、まあ、自分が言われてたとて、「そんなもん」なんだけど
だけど、いざ自分が話題になってると、流石に気分が悪い。というか、なんというか、やるせない
自分のことを大切にしてくれる家族、彼、友達はありがたいことにいて
別部署には、お互いを気にかけあえたり、軽口を叩きあえる関係性の人はいて
仕事ばかりしてればいいってもんでもないようだ
自分がとてもちっぽけに思える
毎日、デスクの前で、私をネタにしている奴らに、お前らに何がわかるんだよ、と叫びたくなる衝動がある
空気のような存在になりたい、「あの人はああいう(真面目で淡々としてる)人だから」という認識で、ほっとかれたい
「顔真っ青だし、なんか痩せた?」とも「すごい量食べてるけど大丈夫?」とも聞かれる
強がりでもなんでもなく、1人でいるのは(も)好きなのにね
年取るとみんなこうなるんかね。
M-1で霜降り明星の粗品が『しょうもない人生!』なんてツッコミをした時、お笑い好きの俺は他人事のように爆笑したが。
その女への恋愛感情を自覚したのは、霜降り明星がM-1を制覇する少し前のことだった。
世間を知らぬクソガキではあったが頭だけは良かった俺は、公立校あるあるの『ガリ勉を虐める文化』を見事に喰らい、中学校までまともな青春を送れていなかった。
高校に上がってからも、そこまで高校の偏差値が高くなかったせいか、頭が良いことはあまり評価されなかった。『なんかめっちゃ頭良いらしい』とだけ認識される、教室の片隅でオタクと駄弁っている男子でしかなかった。
…………しかしある時、平均身長以下の小さな同級生は、面識も無い俺にこう言ったのである。
冷静に考えて。
幾ら友達の友達とは言えど、クラスも違えば部活も全く違うし、何なら会話すらしたことの無い程生きる世界が違う人間に、勉強を教えるという労働を頼み込むなど、常軌を逸している。自他境界がイカれている。
しかし、何故かその反応が心地良かった俺はそれを承諾し、勉強を教え始め。
―――気付けば、俺の周りには人だかりができるようになった。
そして、それを通した会話や、彼女が切っ掛けで生まれた人間関係に揉まれていく中で、俺のコミュニケーション能力や人間力が向上し、友達も交友関係も大きく広がり。
2年に上がる頃には、もう学年全体に名も性格も知られる存在となり。
終いには、『お前が間違いなくこの学校の中心人物だ』と教師に言われる始末。
味方など何処にも居なかった苛められっ子のガリ勉デブは、青春を謳歌するガリ体型の優等生へと進化していたのだ。
さて、そんななろう小説みたいな人生を送ってきたとなれば、その元凶たる彼女に恋をするのは、オタク兼元陰キャとして当然の流れだろう。
高校3年の秋。2年間友達だった彼女が、俺の悩みを聞くやいなや自分のことのように泣き、共感してくれた事を切っ掛けに恋愛感情を自覚し。
いつかお前に告白するぞ、なんて思い。
―――気付けば、6年経っていた。
そして。
彼女のSNS上での結婚報告により、俺は人知れず敗北を悟った。
要因はいくらでも考えられる。
大学に入ってから物理的距離がかなりあったこととか、俺が6年制の大学に居て学生期間が長すぎるとか、連絡を取る頻度を減らしすぎたとか、やっとの思いで漕ぎ着けたデートで勇気を出せなかったとか。或いは単純に顔が平均以下だからか。
ここ2年はまともに会うことも無く、心の何処かでは『どうせ無理だな』と半ば諦めていたから、こうなることは理解できる。
経済的に豊かになる為に、猛勉強して某名門大学まで上り詰めた。
その中でも1番取れたらカッコいいなんて思い、リスカする程精神を追い詰めて勉強し、学科内で主席になった。
恋愛経験を積む為に、彼女を好きだという感情を抑圧して、複数の女性と付き合った。
そして、彼女との関係を進める為と心の中で言い張って、交際相手を何人も振った。
その全てが、たった今水泡と帰した。
明確な敗北なのだ。これは。
どうやら俺は、行動原理の大半を知らず知らずのうちに『彼女に相応しい人間になり、いつかこの恋愛を成就させる』ということに割いていたと、今になって思う。
そして今、その行動原理―――或いは生きていく意味が無くなった今、俺の人生は敗戦処理へと切り替わってしまった。
周りから見たら俺は成功者なんだろうが、いま俺は自分のことを敗者としか思えない。
何故なら俺は敗者なのだ。
幾ら年収やらスペックやら社会的地位やらで優れていても、俺は彼に負けたのだ。
敗者が言えることなど、無い。
だがしかし、いくらしょうもない人生だろうが、時は止まってくれない。
彼女に告白する勇気すらなかった俺が、死ぬ程の勇気なんて持てるはずもなく。
そんな中、部活で頑張りすぎて吐いた後輩の為に、息を切らして飲み物を買いに行った。
「こういう自他境界を無視した馬鹿みたいな優しさは、お前から学んだんだよ」
なんて思って、届かない星を見上げた。
特にかつて日本人が売春ツアーなんてしてた途上国の男から買われる状況とかポイント高い
日本が落ちぶれていく快楽ってのはポルノとして確実に存在してると思う
それに絡めて女性蔑視の「女さん ざーまーみろ」みたいな女叩き要素もあるだろう
これはポルノの宝庫やで
「下手の考え休むに似たり」という言葉は、一見すると凡庸な教訓のように思われるが、その背後には、熟練と未熟の対比、行動と無為の葛藤、そして思索そのものの限界と可能性といった、多層的な哲学的・心理的含意が隠されている。この諺の核心には、人間の知的営為が必ずしも価値を生むわけではないという冷厳な認識があり、その背景を掘り下げることで、人間の思考と行為の微妙なバランスを探る契機となる。
この諺は、考えることそれ自体を否定するものではないが、「考える」という行為が持つ潜在的な二面性を指摘している。「下手」とは、単に未熟であること以上に、「適切な方法論を持たない」という含意を持つ。つまり、下手な人間の「考え」は、方向性を失った反復や錯乱に陥り、結局は「休む」こと、すなわち何もしない状態と等しいとする厳しい評価を示している。
「休む」という語の選択も興味深い。ここでは、ただの身体的な休息ではなく、「無効性」や「停滞」というニュアンスを帯びている。したがって、この諺は単なる知的な怠惰を指すのではなく、誤った方法による熟考がむしろ不作為と等しいというパラドックス的な洞察を表現していると言えよう。
この諺を解釈する際、特に興味深いのは「休む」という行為が果たして本当に「無」と同義なのか、という点である。ここには、「何もしない」という消極的な態度と、「無駄にする」という積極的な損失との間に微妙な違いが潜んでいる。休むという行為そのものは、中立的な意味を帯びる可能性もあるが、未熟者の考えが「休むに似たり」とされることで、それは一種の「偽りの活動性」への批判に変化する。考えるフリをすること、つまり見かけだけの努力をすることは、むしろ静止よりも害悪ですらあるという指摘が込められているのだ。
この点で、「下手の考え休むに似たり」は、古代ギリシャ哲学における「現象」と「本質」の対比を想起させる。プラトン的には、下手な考えは単なる「影」であり、それ自体は現実に触れない空虚なものに過ぎない。あるいは、ヘラクレイトスの「静止は存在せず」という思索を逆転させ、無意味な運動は静止以下であるとさえ言えよう。
この諺をさらに具体的に読み解くためには、「下手」の範囲を拡張する必要がある。ここでの「下手」とは、単なる技術的未熟さではなく、正しい道筋を見いだす能力、すなわち実践知(phronesis)の欠如を指している。この点ではアリストテレスが述べた「善く考える(euboulia)」という概念に近い。善く考えるとは、理性が行動の適切な目標を指し示す能力を持つことを意味し、下手な考えはその逆、すなわち目標も見失い、行動を導く力を欠いている思考を指す。
この実践知の欠如は、しばしば「方向感覚の喪失」というメタファーで表現される。下手な考えが「休むに似たり」とされる理由は、その思索が明確な目標に向かわず、無駄にループを繰り返すことで進歩を妨げるからだ。これは、経験や洞察に裏打ちされた熟考とは異なる、浅薄で空虚な反復を暗示する。古典文学で言えば、例えば『ドン・キホーテ』における無謀な行動や、シーシュポスの神話における徒労に通じるものがある。
心理学的には、この諺は「過剰思考(overthinking)」や「分析麻痺(analysis paralysis)」と呼ばれる現象を指摘していると考えられる。未熟な人間ほど、あれこれと余計なことを考え、選択肢を増やすばかりで最終的な決断に至らない傾向がある。つまり、熟練者が直感的かつ素早く判断を下せるのに対して、下手な者は思考過程そのものが目的化し、行動のタイミングを失うのだ。
ここには、「知識の量と知識の質」という重要なテーマが隠されている。下手な考えはしばしば知識不足から生まれるが、逆に言えば、中途半端な知識はむしろ思索を停滞させる。フランシス・ベーコンの言う「知識は力なり」という言葉も、適切に使われなければただの重荷となるのだ。
「下手の考え休むに似たり」は、経済学的には効率の問題として解釈できる。この諺の背後にあるのは、思索という「投資」に対して得られる「リターン」がきわめて低いという状況の批判である。言い換えれば、下手な考えはコストに見合う成果を生まない「非効率的なリソース配分」の典型例である。
この観点から見ると、「休むに似たり」という表現はむしろ控えめであり、下手な考えは単なる無駄以上に、リソースを奪い、他の重要な活動を妨げる存在とすら言える。たとえば、組織やプロジェクトの文脈では、下手な計画が最初からなされることで、リソースが浪費され、最終的な失敗を招くという例が挙げられる。
現代において、この諺はますます重要な意味を持つ。インターネットの普及により、情報は過剰なまでに流通し、誰もが「考えること」が可能になった。しかし、その結果として、考えるという行為の質が低下し、無駄な議論や非生産的な思索が増加する状況が生じている。「下手の考え休むに似たり」は、こうした現象に対する警鐘として読み替えることができる。
現代社会では、むしろ「考えることをやめる」という選択が重要になる場合もある。これは、「情報断捨離」や「マインドフルネス」のような概念と結びつき、必要な判断に集中する能力を取り戻す試みとして解釈される。
「下手の考え休むに似たり」という諺は、表面的には思索の無駄を戒めるものであるが、深く掘り下げると、思索それ自体の構造的な矛盾や、人間の知的限界を指摘する哲学的洞察を内包している。この言葉は、私たちに効率と成果のバランスを問いかけるとともに、思索という行為の価値を再評価する契機を提供するものである。
どうにもならなくなったら年齢的に国から必要とされず尚且つしがらみのない未婚底辺男性を満州やブラジルに送り込んで後はどうなっても放置するのがこの国のパターン
男一人で多数の女に種付けできる上に、若い女を上回る数の精子ピチピチ同世代男性が存在するから50代未婚男性というマイノリティの彼らの為に女を輸入する必要はない
こういうの、一見尤もらしいんだけど、どうして「したくない」女性の事しか考えてないんたろうな。
「したくてもできない」女性の存在は無視なのか?婚活市場は女余りだって、常々言われているのに…。
男にモテないブスの存在は、フェミニストからも常に透明化される理不尽さ。
🥶
@OXojz
女性の生活が楽になる方法が軒並み「女性器を男に使わせて引き換えに助けてもらう」しかなくてそれをしたくない女性にとってはハードモードの現実しかなくて本当に死にたくなってくる
最近のアップデートで好きなジャンルの写真モードに目線を合わせる機能ができた。
自分に目を向けてくれる推しはとても輝かしくて嬉しいが、同志が彼氏っぽい構図の写真を上げて少しモヤモヤしている。
同担拒否ではない、むしろ同志がいるのは盛り上がって楽しいけれど、推しが恋人のように振る舞っているのは違和感を覚える。
推しには私に目を向けはしても、温もりは向けないでほしい。
彼は私にとってアイドルのような存在であり、決して恋人のような距離を求めていないのである。私がただ拗らせているだけの取り巻きのような存在だから、絶対に歩み寄られたくない。
所詮私はガチ恋勢でないからそう思うのかもしれない。他人の楽しみを奪うようなこともしたくない。
何よりやっと見つけた心地よいジャンルで住人を傷つけるようなことを言いたくない。
本垢で呟けば今の盛り上がりに水を差すような気がするからここで供養させてほしい。
面倒な人間で本当にごめん。
御存知の通り、中学生がターゲットになった無差別殺傷事件が起きた。
発生現場からは距離も離れているが、自分も本当に子どもを休ませようと思った。
こんなに痛ましい事件だというのに、それをきっかけに更に社会を混乱させようとする輩なんかに日常を奪われてたまるかという気持ちになったからだ。
メールを送ったのが殺傷事件の犯人であるかどうかはわからない。
仮に本人だろうが別人だろうが、このメールの目的ははっきりしている。
人々の平穏な日常を奪うことであって、それはまさにテロ行為にほかならない。
この事件やそのメールをきっかけに、日常を萎縮してしまうようなことがあれば、それはまさにテロに屈したことになる。
それを相手が実感してしまえば、それはすなわちテロの成功を意味してしまう。
いつもより少しはいろいろなことに敏感になったり注意を払ったりはする。
でも、学校を休むだとか、習い事を控えるだとか、そこまでのことをするべきではない。
なのに。
なのにだよ。
わざわざ現場まで出向いて、夜道で照明を消してまで恐怖を助長するようなシーンをお茶の間に流し続ける?
それ自体がテロリストの満たすべき目的を後押ししてしまっていることになぜ気が付かない。
センセーショナルな事件だから報道が加熱してしまう理由はわからなくはないが、市民の日常を萎縮させるような結果につながる報道は、すべてテロ行為の後押しにしかならないことをもっと自覚してほしい。
杞憂という言葉は、文字面の単純さを超えて、思索と反省の対象となるべき哲学的・文化的・心理的な深淵を秘めている。それは「不必要な心配」や「ありもしないことへの過剰な恐れ」といった単なる辞書的定義を超え、人間存在そのものに内在する不安の構造や、思考の限界を暗示する概念である。この言葉の起源を辿りつつ、その背後にある多層的な意味を探ると、杞憂という語は一つの寓話的なシンボルとして、私たちの精神的地平を照らし出す。
「杞憂」は中国古代の典籍『列子』の「天瑞篇」に由来する。物語の舞台は杞(き)という小国である。そこに住む一人の男が、「天が崩れ落ちてきたらどうしよう」と絶えず恐れていた。その恐怖のために、彼は食事も喉を通らず、夜も眠れなかったという。この杞の男を見かねた人が、「天とは何か」と理性的に説明を施す。曰く、「天は空気の層であり、その性質からして崩れ落ちることはあり得ない」と。しかし、この説明を聞いた杞の男の恐怖は一向に収まることがなかった。彼は依然として「では、大地は崩れるのではないか」と新たな恐怖を生み出したという。
この逸話を素朴な道徳的教訓や人間の愚かさの象徴と捉えることは容易だが、それはこの物語の本質を単純化しすぎるだろう。杞憂の核心には、存在論的な問いが潜んでいる。すなわち、「我々は何を恐れ、そしてその恐れの根拠は何か」という問題である。
杞の男が恐れていたのは、「天が落ちる」という一見荒唐無稽な事態であったが、彼の恐れの本質は、物理的な事象に対するものではなく、「秩序が崩壊することへの恐怖」だったと言える。天と地というのは、古代中国の宇宙論では根本的な秩序の象徴である。天が落ち、大地が裂けることは、自然界の崩壊のみならず、存在そのものが瓦解することを意味する。したがって、この恐怖は単なる無知や杞の男個人の愚かさに還元されるものではなく、人間が持つ「根源的不安(existential anxiety)」の表出である。
杞憂という概念には、複数のレベルでのメタファーが隠されている。そのいくつかを抽出しよう。
空(天)が落ちるという恐怖は、現代的に翻訳するならば、我々が宇宙や自然の安定性を信頼することの脆弱さを示している。宇宙論的スケールで考えると、杞憂はブラックホールの蒸発や熱的死といった現代物理学の概念に通じる、秩序の不安定性に対する漠然とした恐れとさえ言える。
大地が裂けるという杞の男の第二の恐怖は、社会や文化の基盤が崩壊することへの比喩とも読める。歴史的には、革命や戦争、経済的崩壊の予兆として、こうした恐怖が群衆心理を支配した例が数多く存在する。
杞憂の本質的な特徴は、恐怖が「自己生成的」である点にある。杞の男が「天は落ちない」と説明されてもなお「大地が裂ける」と新たな恐怖を抱いたように、恐れというのは理性による説明をすり抜け、次々と新しい対象を生み出す。この現象は、心理学で言うところの「一般化不安障害(GAD: Generalized Anxiety Disorder)」に近いものであり、人間が恐怖を必要とする存在であることを暗示している。
「杞憂」という言葉の文化的意義は、人間が「未知」や「制御不可能性」に直面した際の反応を考える契機を提供する点にある。杞の男の恐れが批判されるのは、それが非合理的で無用であるからという理由に加え、その恐れが「何の行動も生み出さない」からだ。しかし、この逸話は現代人にも重要な問いを投げかける。我々が杞の男と同様に、漠然とした不安に囚われている時、それを「無駄」と切り捨てるだけでよいのだろうか?
たとえば、気候変動やAIの台頭といった現代的課題を巡る不安の多くもまた、杞憂として一蹴されることがある。しかし、それが真の杞憂なのか、それとも未来への警鐘なのかを判断するには、慎重な検討が必要である。杞憂は時として、無意味な心配ではなく、行動を促す予兆でもあり得るのだ。
「杞憂」とは、表面的には「不必要な心配」を示すが、その奥には、「不安という人間の根源的条件」が反映されている。杞の男の恐怖は、無知や愚かさの象徴であるだけでなく、存在の根底に潜む不確実性、そして我々がそれにどう向き合うかを問う寓話的な警句でもある。
言い換えれば、杞憂とは、我々が避けて通れない「虚無」と「秩序崩壊への恐れ」の象徴であり、それを通じて、不安にどう対処すべきかという哲学的・実践的な問いを私たちに投げかけていると言えるだろう。
元農水事務次官長男殺害事件では親がキモおじの息子を殺しただろ!
土地相続して賃料収入で暮らして引きこもってる一人暮らしのおっさんをどうやって見つけてどうやって殺すほど憎めるんだ…
まず存在することに気づくことができないだろ
困るのも憎むのも家族だけなんだよ