はてなキーワード: 芋虫とは
女の芋虫みたいなダウン、あのダサさ、まじで何なの?
白い芋虫もやだけどなあ
子どもの頃から俺はおかしかった。別に、変な子どもとか言われたことはない。むしろ褒められることの方が多かった。学校の成績はイマイチだったが、運動や芸術の成績はよかった。
自己紹介は必要最小限にしたい。今は四年制大学でスポーツを教えてる。幼少期から柔道をやっていた。中学校の全国大会で結果を出して、スポーツの名門高に進学して、同じく名門大学に進学して、卒業後はパチンコ機器のメーカーに入社(スポンサー契約)してプロになった。
※柔道にプロ制度はない。あくまで「それ」で食ってるという意味。
回想を始めたい。パチンコメーカーの次の転職先を主題に据えて話をする。
新卒で入社した、そのパチンコメーカーとの契約期間は3年だった。最終年度になると、次の道を考えないといけない。一応、次期も残れるだけの実績は出したものの、新しい、次のステージに挑戦しようと考えていた。柔道は、野球やサッカーに比べると現役でいられる時間が少ない。体をたくさん動かす分、選手生命が短いのだ……。
当時は、全日本の強化選手(A指定)だった。合宿にはフルで参加していて、オリンピックに出場する連中とも交遊があった。あの頃は、井上康生が全日本の主将を務めていた。彼が不在の時は俺が副として動くこともあった。ウザいかもしれんが、ちょっとくらい自慢させてくれよ。こういう場で文章を書く機会は滅多にないんだから。
※ところで、この日記はとても長い。ゆっくり読まれることを推奨する。
次のステージについて悩んだ結果、選んだのは……学校の先生だった。大学時代に保健体育教諭の免状を取っていた。いざという時に潰しが効くようにと、大学時代のコーチが勧めてくれた。今でも感謝してる。
どこの学校にしようか思案したところ、やはり地元がいいと思った。出身高校の柔道部の監督に相談したところ、広島県の東の端っこにある高等学校が指導者を探しているということだった。
さっそく面談のアポを取り付けてくれて、その高校の現監督と面会すると、すごく驚いてた。まさか強化選手が高校教師に転向するなんて思ってもみなかったんだろう。
トントン拍子に話は進んで、その翌年度から、俺はその高校の保健体育の教諭(兼柔道部顧問)として赴任することになった。
指導者としてのミッションは『古豪復活』だった。その高等学校は、昭和40年代まではすべての体育会部活がインターハイで活躍していた。
だが、『何か』があって進学校路線へと方針転換し、スポーツ推薦枠を徐々に減らしていったところ……平成に入る頃には、ほぼすべての部活が市内大会ですら勝てない状況になっていた。それでいて、進学校路線にも失敗していた(学内の最優秀者の進学先が広島大~関関同立くらい)。
そんな状況で、柔道部を立て直すのが俺に課せられたミッションだった。正直難しいと思われたが、チャレンジする価値はあると思っていた。
とまあ、そんな経過で柔道部顧問としてキャリアスタートを切ったものの、部内はひどい状況だった。柔道部も地区大会止まりとは聞いていたが、冗談抜きでレベルが低かった。心・技・体以前の問題である。
部員の多くが高校から柔道を始めていたし、運動センスが抜群の子はいなかった。そして、柔道の何を教えても、どれだけ丁寧に教えてもダメだった。心構えは、まあいいよ。徐々にハートを鍛えていけばいい。ただまず、基礎体力の時点で問題があった。
例として、ベンチプレスだと80kgを上げられる子が1人しかいなかった(それは乳首が大きい子で、皆からのあだ名は苗字2字分+チクビだった。当時は高二)。ほかの子は概ね40~60kgといったところか。マトモな高校選手であれば、体重70kgくらいの子でも……ベンチ100kgは難しくとも、訓練すれば半年以内に達成できる。
800m走にしてもそうだ。なんと、150秒を切れる子が1人もいなかった。ゼロである(参考までに、当時26だった俺の記録がほぼ130秒。高校の頃は118秒がベスト)。
こんな状況で、この部員達約15名(+女子マネ3人)を、最低でも中国大会まで導かねばならないという……正直、難しかった。柔道のプロとして言わせてもらうと、不可能に近い。
難しいのはそれだけじゃない。どれだけ心構えを説いても伝わらなかった。なんというか、やる気とかいうレベル以前に、人としての器量というか……そういうのが圧倒的に足りてない。
困難な物事でも、ひとまず取り組んでみるとか、目標達成のために努力を積み重ねるとか、そういう志をもって挑んだ経験がないのでは? と感じるような子ばかりだった。
柔道部の子だけじゃない。学校全体でそうだった。本校は、「中高一貫教育により、6年間を通して自ら考え、自ら動き、目標へと達するだけの力を陶冶できる人間を育てる――」と入学パンフレットで謳っていた。そんな生徒は皆無だった。惜しい子はいたのだが。
校則は厳しかった気がする。月イチの全校集会の後、生徒らが体育館前でクラス単位で並ばされて、髪型や制服など、生徒指導担当の教師陣が細かいチェックを行う。俺の出身校も、服装やマナーは厳しい方だったが、ここまでではなかった。
こちらの高等学校の偏差値は、40~45くらいだった。そこまで高い方ではないが、かくいう俺も、中学や高校のテストは平均50点未満しか取れなかった。里香なんかは14点だったこともある。国語濃緑濃緑すら怪しかった……。
柔道に青春を捧げていた。それ以外はどうでもよかった。勉強の成績は最低だったけど、高校も大学も、ほかのスポーツ特待生と一緒に先生方の温情で卒業させてもらった。
でも、確かにバカだったけどさ。当時、柔道関係の書籍は年に五冊以上は読んでたし、毎月発行の『近代柔道』だって、全ページの隅々まで目を通してた。
何が言いたいかというと、向上心である。たとえ下手くそでも、誰かに馬鹿にされようと、負けまくったとしても、そんなの関係ない。もっと上に行きたい、勝ちたいという気持ち。向上心がない若者に未来なんてあるか。
俺は油断していた。百年以上もの伝統がある高等学校だったら、多くの生徒はきっとポテンシャルがあるに違いないと高を括っていた。見通しが甘かった。
それでも一生懸命に教え続けた。暖簾に腕押しだったけど。指導を続けたのだ。怒りを我慢する場面は多くあった。指導者として悔しい思いもした。
当然、結果は出せなかった。他校との合同練習も、ローカル大会・公式大会の結果も散々だった。おおよそ、彼ら柔道部員はこんな調子だった。
・試合の度に勝敗分析シートを作るよう求めたが、半数は作らない
※ベンチプレス80kgのチクビの子。最後は設備の測定限界の160kgまでいった。
俺のストレスは有頂天だった。我慢できないところまで来ていた。
なぜ、こいつらはやる気がないのだろうか。成績がいいとか、地頭があるとか、機転が利くとか、そういう能力の話ではなくて――"生きる力"とでも言えばいいのか。そういうのがなかった。
ストレスを抱えていた折、ついにやってしまった。あれは秋頃だったか。県大会があったのだ。高三が引退した後、最初にある十一月の新人大会だった。
大会は二日間あって、初日は団体戦予選だったと記憶している。当校の成績はひどいものだった。リーグ戦があって、出場校が4校ずつに分かれて戦うのだが、普通に全敗だった。最初に戦った学校は、数年に一度は全国優勝者を出すほどのレベルだった。全員もれなく数十秒以内に瞬殺された。
チクビの子は、四十秒くらいは戦えていた。対戦相手は、彼と同じ高校二年生で、81kg級のスラッとした体形の選手だった。俺の記憶だと、ケンカ四つでガッチリと組み合った後、チクビの子がバタバタと大内刈りをしかけた。全く効いてなかった。
その直後だった、内股で吹っ飛ばされていた。相手の右脚が彼の股下に入ったのを捉えた次の瞬間、その肉体が空中二回転半して畳にめり込んだ。
ほかに戦った2校も、全国レベルに準ずるところだった。そのうち1校は、毎年安定して県内ベスト4に入る伝統校だった。もうひとつは、偏差値70の私立高校で、全国有数の進学校である。なんと、この学校は週に2回しか柔道の練習をしないらしい。それでいて、団体戦も個人戦も、毎年ほぼ県内ベスト8に入る成績だった。
この2校には、当然コテンパンにやられた!……いいところがほとんどなかった。三部トーナメント行き確定である。一日目の全試合が終わった後、怒りの気持ちを我慢しつつ部員全員に静かな檄を飛ばした。惨めな気分だった。
成果があったといえば、上のチクビの子(T君)が1回だけ勝った。体重も相手の方が重かった(T君は当時85kg、相手は100kg級)。人生で初めての指導者としての喜びだった。
彼は寝技が得意だった――厳密には、運動神経が絶望的だったので寝技しか残ってなかった。寝技には運動神経は関係ない。ほぼ努力で上手になる道ができる。相手と密着している分、計算がしやすいのだ。立ち技だと、コンマ数秒の遅れで技の威力に変化が生じる。
毎日の練習では、何度も何度も得意のパターンを繰り返した。俺が何回抑え込んでも、関節を極めても、締め技をかけても、決して諦めなかった。送り襟締めや袖車締めで落とした(※頸動脈の圧迫で意識がなくなる)回数は50回を超えている。
夏場にあった合同合宿だと、T君が他校の選手に寝技で抑え込まれている時、竹刀で背中や太腿を何十発もぶん殴ったっけ……「どうしてそこで力を抜くんやっ!?」と何度も指導した。
T君はそれに応えた。土中から這い出たばかりのカブトムシとか、成虫になろうとして藻掻いているハナムグリの芋虫みたいだった。精いっぱい、本気で動き回っていた。とにかく、妥協だけは絶対しないように教えた。
振り返ってみると、彼に柔道を教えていた期間は一年半もないんだな。たったそれだけである。ヤツは諦めなかった。妥協することはあったけど、俺の指導に最後までついてきた。
そりゃあ、T君が情けない試合をした後だと、ブン殴ったことが何度もあったよ。鈍くさいし、柔道はボテボテしてるし、平々凡々の才能だった。でも、あいつはスゴイ奴だったよ。柔道を選んでなければ、別の道でインターハイに出ていたかもしれない。
さて。県大会一日目が終わって、部員一同は広島市にある古びたホステルに宿泊することになっていた。ただ、女子マネ×3と引率教師である俺は別のホテルになった。
一応は、監督の意見だった。この3人は一年生で、最初の泊まりなので配慮が必要ということだった。最初の宿泊が、あの年季が入ったボロホステルというのは、確かに……と俺も感じた。
女子マネ3人のうち、2人は双子だった。二卵性だから顔はそこまで似てない。お医者さんのご子息と聞いていた。このうち妹の方(マネ子とする)は、相当マジメな子だった。よく気が利くし、頭の回転が早いし、学業成績は最優秀である。学内では清楚キャラで通っていた。実際、練習前には必ずお茶くみをしてくれる。
ほかの2人にしても、こんな弱小柔道部のマネージャーを半年も続けてる時点でひた向きだと思う。普通だったら辞めてるよ。半年間でほとんど勝ててないんだから。県大会の個人戦だって、誰一人として出場できなかった。
責任を感じていた。柔道部が結果を出せない原因は俺にだってある。それが申し訳なかった。それで、姉妹のうち妹の方だけ、俺の宿泊部屋に呼んで話をすることにした。
この不甲斐ない状況について話を聞いてみると、彼女も思うことがあるようだった。会話をしたのは数十分である。
マネ子は、半分涙を流していた。こんな子がマネージャーで本当によかった。
ところで、俺がいた高校の柔道部は、全国でも上から数えた方が早かった。いわゆるガチのところである。女子マネージャーなど存在しようがない。いや、男子校だから本当に存在しようがないのだが。
気が付くと、マネ子の髪を撫でていた。それから何を思ったのだろうか、そのままグイっと彼女の頭を、俺の肩のあたりまで引き寄せた。変な雰囲気になってた。マネ子は無抵抗だった。左手で胸のところまで引き寄せると、暖かい感触があった。
その子の顎を右手の指先で持ち上げるようにして、キスをした。抵抗はなかった。ベッドの上に押し倒して、後は流れだった。体のいろんなところをキスしながら触っていったけど、本当に無抵抗だった。たまに、俺の肩を猫の手でちょんと押すくらいだった。そのままずっと、ペッティングみたいなことを続けた。
このくらいの年齢の子って、あんまり柔らかくはない。女の子はやわらかい、といった世間のイメージは正しくはない。柔らかいのは大人の女性である。未成年はそこまで柔らかくはない。
などと思いながら、ちょっとずつ服を脱がしていった。その時のマネ子は、体操服のような簡素な恰好だったのを覚えている。すぐに脱げた。
胸は大きくない。でもきれいな形だと思った。お互い、完全に裸になる前に明かりを消した。それから、肢体のいろんなところに触れたり、舐めあったり、くすぐったりした。マネ子は、俺に合わせて動くこともあったし、微動だにしない時もあった。全体的に反応は微かだった。
ひどいことをしている認識はあったが、それでもセックスの相性はよかったと思う。彼女は、最初の方は緊張してたけど、少しずつほぐれてきて、会話をしても大丈夫になった。お互いに唇をすぐ近くまでもってきて、囁くように会話をした。
マネ子は気分が乗ってきたみたいで、行為の最中にいろんなことを言ったり、いろんな体位をやってくれた。最後の方はイチャイチャとしていた。会話を思い出してみる。
「持ってる。財布の中」
「なんで持ってるんですか笑 彼女さんいるんですか?」
「いないよ」
「えー、だってH慣れてるじゃん」
「慣れてないよ。下手くそだろ」
「……ほんとですか?」
「うん、本当」
「うそだー」
「本当だよ」
マネ子にまたキスをすると、態勢を変えて、ベッドの中で真上に乗っかった。
顔を近づけて、両手でマネ子の頬に軽く触れて、しばらくずっと舌を絡め続けていた。舌を抜いた時、彼女がまっすぐ延ばした舌先で唾液がうねるみたいに躍動した。それから、マネ子にまっすぐに乗っかって行為をした。俺はマネ子を知ったのだ。
行為が終わると、この子は暗闇の中で俺の眼をずっと見つめていた。俺はそのままベッドを出て、もう一度、財布のところまで歩いていった……。
次の日の朝、初めてあの子を見たのはホテルの朝食をとるスペースだった。ビジネスホテルよりは少し立派なバイキング方式だったっけ。
マネ子は、別に何でもないって顔をしてた。当時の俺は若かった。罪悪感はそこまでなかった。マネ子は本当に普通の様子で、俺や、マネ子の姉とも普通に会話をしてた。
この子たちとの朝飯を済ませてから、サッとチェックアウトをして、みんなを(広島市内の実家から借りてきた)自家用車に載せて会場に向かった記憶がある。
大会二日目は、これまでの中で最大の成果だった。リーグ戦で全敗した関係で、三部トーナメント行きになったのだが、なんと……ここで優勝してしまったのだ!! 嘘ではない、事実だ。ノーシードからきっちり4回勝って、優勝トロフィーを手にした。
T君が活躍したのもあるが、ほかの選手も本気で頑張っていた。あれだけ練習したというのに、リーグ戦での完全敗北が響いたのだろう。心に火がついたといっていい。三部トーナメントの出場校について、選手の半分ほどが白帯だったのもある。
柔道の場合、一試合の時間が野球やサッカーといった団体スポーツに比べて短い。試合に必要なスペースも100㎡以下である。このように、各校の試合回数をできるだけ多くする配慮ができるのである。
ここでいったん切る。
次です
平気で差別的な発言をする人だとか、相手に対する不快感を露骨に表してしまう人っていうのは、多分 豊かな環境で育ってきた人なのだと 思う思う。言ってしまえば おぼっちゃま お嬢様。
食べ物の話で、食べ物の好き嫌いを許容できる社会だとか、アレルギーのある人でも生きていける社会というのは、文化的に豊か と判断されるらしいのよ。
我慢してでも 芋虫を食べなければいけない文化の中で好き嫌いを言える状況じゃないし、アレルギーを持って生まれてきたらアレルギーが判明する前に死んでしまうのだから。
言うなれば 食べ物の好き嫌いというのは 食べ物をランク付けして 選び取る作業 なわけ。
話は戻って、例えば 職業差別 なんていうのも 職業をランク付けして 選び取ってる行為と言えるよね。
もちろん食べ物に 人格はなくて、その職業についている人には人格があるわけだから、全然違う行為ではあるんだけれど、対象をランク付けして見てるというのは 同じ なわけ。
しかるべくして、差別的な発言をしちゃう人とか、相手に対する不快感を露骨に表しちゃう人っていうのは 、多分 豊かな環境で育ってこれた人なんじゃないかな。一方で社会はそれを許容できるほど豊かではないということでもある。
本書は、3年毎日に連載されている「これはあれだな」の中から選ばれた文章を集め、過失したエッセイです。
「これはあれだな」とはどのようなコンセプトのコラムでしょうか。
何か気になった事件や本、作品などがあったら、それについて書くのが普通ですよね。それだけじゃ面白くないので、過去に同じようなことがなかったかと探し当て、その二つを比べて何が変わって何が変わっていないかを考えるというのがコンセプトです。
つまり、例えば文学作品であれば、文学作品と何かの映画とか、100年前に同じようなことがあったとか、こういう事件があったけど、50年前に全く同じようなことがあったよね、といったことです。だから、ジャンルが違う場合もあって、例えば映画と最新作のアニメでは、これどこかで見たことあるなと思ったら、80年前のあの映画と同じことをやってない?ということです。
パッと5、6個思いついて「これならできそう」と思って始めたんですが、途中で「大変だ」ということに気づきました。少なくとも二つは見つけなければならない作業であることに10回目くらいで気づいたんです。普通は一つの話題で済むところを、必ず二つ見つける必要がある。多ければ多いほどいいんですよ。例えば今と大正と明治で同じようなことがあった、とか。
時代は変わらないね、というのは面白いんだけど、めちゃくちゃ手間がかかる。読み直しを結構確認しなければならないですからね。一応記憶に頼って「こんなことあったな」と思い出しても、記憶も曖昧になってきます。でも、本当にこれ面白いんだと。途中からは大体ストックがあって、これは似てる、逆に今のこれがあれだけど、あれから発想する場合もあるんです。昔こんなのあって、こんな面白いものって今にはないかな、と。
そうやって見ていくと、最近の若い人の旅に出た記録が1000年前の元神尚の記録に似てるとか、1500年前のものとそっくりだ、とか。そういうふうにしていくと、結構いろんな時代に似たものがある。特徴性が被るものがある。だから、時代にそういうものを生み出す必然性があるっていうことを考えると、話としては面白いんで、ただ手間がかかる。
今回本にまとめられたのも、別に今回が初めてではないです。これで3冊目です。毎週締め切りがあると憂鬱になっちゃう。まずこれを見つけるでしょ?で、あれがなきゃダメなので、どんなに面白くても「これ面白いんだけど、ペアになるものがいないよね」ってなると、できない。
そもそも、ご自身の文学作品を作るっていうのも、アイデアを出さなきゃいけない。アイデアはひねり出すんですけど、あれを見つけるっていうのはなかなか難しい。でもやっぱりコンセプトが光ってますね。やっててうまくいったときは「これ、よく見つけたな、自分でも」って思います。
あの、本書の前半では、2022年9月13日のフランスの映画監督ゴダールの死について書かれています。高橋さんにとってゴダールはなぜこれほど特別な存在なんでしょうか?
これは世代的なもので、僕の世代で芸術、音楽、映画、文学が好きな人でゴダールに影響を受けていない人はいないと思います。
当時はSNSもないし、情報だって今ほどは入ってこなかったから、例えば映画のニュースもなかった。テレビのニュースもやらないから、どこで知ったかというと、映画雑誌とか、映画芸術とか、そういうところにちょこっと載っていて、新作が出たって今だったら全部SNSでお知らせが来るんでしょうが、そういうのがなかった。だから新作が出たって言っても、日本公開がいつかはわからなかった。
僕は映画だと、アートシアターというのに入っていました。60年代、相当幼い時から、そういう会の会員になって、中学入ってすぐそういう会に入った。だから映画もクレイジーキャッツからゴダールまで一緒に見ていました。そもそもそれを分けて考えるのはダサいって感じだった。
しかも極端なことを言うと、芸術ばかり見ていると馬鹿にされるから、逆にクレイジーキャッツとかGSの映画を見ないと恥ずかしいって感じだった。そういう背景の中で、ゴダールの作品はかっこいいと思ってましたね。彼の即興スタイルが特に印象的で、シナリオを書いていかないんですよね。当日、その場でセリフを持っていく。そして基本的に編集で映画を作るというスタイル。
引用が多い。ゴダールの作品は、引用が多くて、ただ引用しているだけのものもある。それはオリジナリティに対する嫌悪なんだと思うんです。オリジナリティではなく引用で作品を作る。だから、過去の世代を否定する度合が一番強いのが彼で、その影響を受けていると思います。
最後の作品についても書かれていますが、イメージばかりが連続してくる、写真がバンバンバンと順番に来るような映画で、画質は必ずしも良くないのに、なんだか異様に綺麗な映像が印象的でした。
どうでしたか?その最終作に対する感想は?というと、ゴダールの作品が好きだなって感じですね。もういい悪いじゃなくて、好きだって感じですね。ゴダールはずっと「映画はテーマがどうとかじゃなくて、90分なら90分、じっとその映画館に座って見ていればそれでいい」と言っていて、ただ画面を見ていれば幸せ、映画ってそれでいいんだ、という考え方を持っていました。
ゴダールは、自分の映画が自殺の映画だと言っていて、主人公が死ぬ映画が多いんです。「気狂いピエロ」もそうだし、「勝手にしやがれ」もそうだし、最後に主人公が自分で目を閉じて死ぬ。あれはすごいなと思う。しかも、あれがデビュー作なんですよ。最後に自分の意思を表現する映画を撮るという意味で、彼の作品は一貫してそのテーマを持っているんです。
「映画史」という映画も撮っていますが、ゴダールという監督は、常に作品と現実の境界を取り払うことを考えていたんです。作品と現実が別々のものではなく、その境界を取っ払って、映画館で観ている観客に語りかけるという姿勢がありました。
映画の中で、主人公が観客に話しかけるというのは珍しいことではないですが、それを堂々とやったのがゴダール。アメリカでも10年くらい前に「ハウス・オブ・カード」とかで流行りましたけど、ゴダールはもっと前からそれをやっていた。それがかっこよかったんです。
また、魚くんの電気映画「魚の子」や、中村喜子の「女と刀」、植物学者牧野富太郎の「牧野富太郎自伝」などについて書かれた箇所を読むと、一つの観念や興味に取り憑かれて、非論理的であろうが、非経済的であろうが、自分の道を進む人が高橋さんの好きなタイプなのではないかと思いました。そういう方にどんな魅力を感じるのですか?
いや、面白いですよ。単純に普通に面白くないですか?ちょっと病的な感じさえありますが、頭おかしいんですよね。でも、そういう人は見ていて面白いですね。付き合いたいとは思わないけど。
でも例えば、魚くんだと、そこに書きましたけど、魚くんも面白いけど、お母さんがすごいですよね。僕も読んで「あ、そうなんだ」と思いました。魚くんの主人公はお母さんなんですよね。つまり、こういう人はいるんですよ、きっと。街を歩いても変な人はいます。変な人はいるけど、大体は困るんですよね。それが普通で、生きる人の知恵です。普通に生きてるとそうなるんですよ。
でも、時々そうは思わない人が出てくる。だから、変な人も大事なんだけど、その変な人を受け入れる人の方が自由だと思っています。お母さんがそうですね。お母さんは自分の息子だけど、そのおかしさを全面的に抱きしめる。
普通、おかしいって言っても結局排除されるか、直されちゃう。「お前、おかしいから普通にしなさい」と。でも、そのおかしさを育てるというのがすごいなと思います。それは他者とか異業のものを尊重するってことなんですよね。つまり、おかしくても存在意義がある。
これは結局、すべての人に存在意義があることにつながるんですけど、普通の人は存在意義があると認められている。でも、おかしな人とか、魚くんならいいけど、例えば身体障害者とか、知的障害者の人たちは見たくないと思うこともある。でも、それでも家族でも受け入れられない人もいる。
僕も色々調べました。障害がある子供が生まれると、受け入れられる家族と受け入れられない家族がいます。時間をかけて受け入れられるようになる家族もいます。特に父親は最初は受け入れないんですよ。でも、母親はすごいなと思います。お母さんは何でも受け入れるんですよね。
魚くんも牧野富太郎も色んな人が出てきますけど、その面白さとは別に、それを誰が受け入れたのかが重要なんです。牧野富太郎も変人だけど、奥さんが受け入れたんですよね。牧野富太郎は植物愛に没頭する変人ですが、それを受け入れるのは大変なことですよね。
でも、それを受け入れたからこそ、彼の生存が保証されたんです。だから、僕が書いた美方ククスとかも超天才だけど、あれ夫だったら困るよ。でも、受け入れた人がいたから、その生存が保証された。
でも、どうですかね。例えば、牧野さんとか魚くんとか、みんな著名になって仕事に繋がって成功しているけど、そこまでお母さんが考えていたか奥さんが考えていたかは分からないけど、魚くんになれなかった魚くんや、牧野富太郎失敗版みたいな人も絶対たくさんいたはずです。
結局、成功者の影には1000人の失敗者がいると思います。きっとそういう人たちのところにも、お母さんがいたんですよ。でも成功しなかったけど、いいんじゃない、それで。
これでも、親もすごいけど、1000人の失敗した人を見守ってた親がいて、その人たちが不幸だったかっていうと、そうでもない。そういう人たちは必要なんですよ、ということをよく考えますね。
セコさんの漫画「マダムたちのルームシェア」とか、信友直子監督の「ボケますから、よろしくお願いします」、早川知恵監督の「プラン75」など、老いと向き合った作品が多数言及されています。今、世界で最も高齢化の進む国と言われる日本で、高橋さんは何を感じていますか?
自分が年取ってきましたからね。今年で73歳です。もうやばいです。あと2年で後期高齢者です。やっぱり、身体的な衰えを感じます。確実に老いていくのがわかります。それに対して色々と体に気をつけています。
一つは、老いを新しい経験だと捉える感覚です。確かにそうですよね、経験したことないことですから、新鮮です。僕もそうですよ。ちょっと年を取ってきて体が辛くなってくると「こんなの今までなかった」と思うことがあります。
例えば、鶴見俊輔さんという哲学者の方が「限界芸術論」を書かれたんですが、90歳を過ぎて、「今日1日転ばないことを目標に生きよ」と書かれていました。「あ、そういうもんなのか」と思って、わかりました。
転びそうになるんです。僕、スクワットして足腰を鍛えているから平気だと思っていたら、筋肉じゃないんですね。バランスが悪くなっている。神経が悪くなっていて、神経は鍛えようがないから転ぶ。僕は筋力鍛えれば大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかったという新しい発見がありました。
そんな老いを新しい経験だと思って、余裕を持って受け入れることが大事なんです。実際、この国、これは日本だけじゃないと思いますが、68歳、70歳、72歳になると社会の窓が次々と閉まっていく。つまり、色々なことができなくなってくるんです。
例えば、家を借りようと思ってインターネットを引こうとしたら「72歳ですか、ではご家族と契約になります」と言われたんです。「70歳とインターネット契約ができないってどういうこと?」と聞いたら、「こういう決まりなので」と言われて、「おかしいでしょ」と思いました。これってちょっと差別的ですよね。
プラン75もそうですが、年寄りが不要だという考え方があるんですよね。これが寂しいです。今「シルバーデモクラシー」と言われて、年寄りが恵まれていると言われていますが、それは嘘だと思います。年を取ってみたら、社会の窓が閉じていく。シルバーデモクラシーという言い方で、年寄りが恵まれていると若い人に思わせようとしているんです。
でも実際には、全世代がそれぞれ抑圧を受けている。70代以上はこういう抑圧があるけど、20代30代も年金の支払いなど、みんなそれぞれ抑圧されているんです。だから、全世代が連帯しなきゃいけないと思うんです。分断が一番都合がいいから、それをやめるべきです。
僕は政治テーマとして、全世代が連帯すべきだと考えています。知らないかもしれませんが、70歳になったらインターネット引けないんですよ。72歳になったらローンもできないんです。なのに恵まれているなんて、ふざけているとしか思えません。
これは、土線(映画)とかでテーマになってもいい話ですよね。でもそれはなかなか声になりにくいんですよね。40代50代の時には知らなかったけど、68歳70歳72歳で新しい抑圧が出てくるんだな、と気づくんです。
社会ってさ、普通のことは知らせないようにしているんですよね。それぞれの世代とかジェンダーで、社会から抑圧されていることをお互いに調べ合って、連帯しなきゃだめです。
ジャニーズ問題と玉音放送について、高橋さんがテレビ局の幹部たちに「ジャニーズ問題を無視するのか」と質問した時のエピソードについて書かれています。昨年末にジャニーズの性加害問題が巨大なテーマになりましたが、この間、どう感じていましたか?
あそこにも書きましたけど、僕がちょうどBBCが放送した直後に番組審査員を辞めて、最後の番組で「これはダメだよ」と言ったんですが、沈黙がありました。その後、某テレビ局が漫画問題で騒ぎになって、それを良かったと思って続けました。
でも、やっぱりテレビ局は商業放送だから、視聴率が下がることが怖いんですよね。だから、視聴率が下がる可能性があることはなるべく避けたい。僕は怯えすぎだと思うんですけどね。もうそんなに怖がらなくても、普通の常識でやればいいのに、忖度している。忖度しない方が視聴者の指示を得るんじゃないかと思いますが、なかなかそうはならないんですよね。
今と昔を比較して、昔の方が保守的だったかというと、そんなことはなく、テレビ全体は進化している。ただ、メディアが動画サイトやSNSに壊れていく時にどうするかを同時に考えなきゃいけなくなっているので、やることも多いんです。
だから、僕も言ったんですが、面白い動画サイトの番組はテレビより面白いですよ。テレビのバラエティなんてやめたらいいと思います。個人で作っているものでも、ものすごくよくできた動画番組があるんです。それを見たら、テレビはお金も人もあるんだから、もっとできることがあるはずなんですよね。
Netflixのドラマなんかも面白いですよ。コンテンツの中身も含めて、やれることがあるのにやっていない。同じようなラブコメばかり作って、誰が見るんだろうって思います。
江戸川乱歩の「芋虫」を現代では取り上げることがかなり難しいということについて書かれていますが、以前、マルキ・ド・サドの作品を絶賛されていた話もあります。今の時代の言論の空気感についてどう感じていますか?
メディア、テレビ、ラジオだけじゃなくて、小説も含めて、僕がデビューした頃に比べると、だいぶ書きにくくなっています。例えば「ピエロ」って言えないじゃないですか。今では「ピエロレフ」って言われることがありますが、検索しても出てこない。
一番怖いのはこれですよね。こういう名詞ごと削除されること。ポリティカル・コレクトネスで、こういう言葉を使いなさいというのは一つの考え方としてあるかもしれませんが、元々あった言葉が使えないというのは、歴史の捏造じゃないですか。
今、「ジプシー」って言葉も使えないんです。「ロマ」とか言いますが、これは歴史の捏造であり、存在させないという方向に進んでいるんです。例えば、ゴダールの「気狂いピエロ」も、僕はそれを見ましたからね。でも、「ピエロレフ」って言われてもわからない。
ポリティカル・コレクトネスについては、理解できるところもありますが、理解できないところも多いです。多分、それを推進している人も、やっていて変だと思っているんじゃないかと思います。定義や限度が確定していないのが問題で、空気みたいなものだから。
ポリティカル・コレクトネスの一つの問題点は、日本が元々空気社会だから、空気で決めるというのはやばい。ポリティカル・コレクトネスが空気で決められるようになっているのが、日本の事情なんですよ。
上辺だけの議論が多く、社会的な不正義の問題は見ないで、言葉だけで物事を判断する。ポリティカル・コレクトネスは、社会的な問題を言葉だけで覆い隠そうとしているだけです。
その辺が、日本という国は忖度する社会だから、空気を読めということがずっと言われてきて、変わらなかった。変わるかと思ったら、ずっと空気を読んでいる。片方では多様性を唱えているけど、それは言っているだけで、実際には何も変わっていない。
大杉栄についても言及が複数見られます。思想、生き方、性格、私には高橋さんと似ている印象を受けましたが、大杉栄をどのように見ていますか?
大杉栄は、日本でも代表するアナキストですが、やっぱり感じがいいですね。友達になりたいなと思う。問題はいっぱいありますが、女癖が悪いとか、迷惑な部分も多いけど、その一方で愛すべき点がある。だから、あの人は人たらしなんです。
例えば、子育てをしていたんです。普通、政治的な人は政治活動はするけど、家のことは見ない。でも、大杉栄は、伊東のと結婚して子供が生まれたら、赤ん坊の選択をしたり、オムツを変えたりしていた。嫌じゃなくて、それが好きだったんです。
彼の中では、夫婦や男女の形は形式じゃなくて、対等であって、子供だから自分が Permalink | 記事への反応(1) | 08:25
小学校のころの俺の放課後は、ほとんどオナニーのためにあった。
中年になった今の劣等感や支配欲で濁った性欲ではなく、まぶしいほど純粋な性欲に漲っていた。
わくわくするような好奇心に突き動かされて、俺は早熟の天才としてオナニーの深みを探求していた。
正しいオナニーなど知らない俺は、本能でそれを会得しようとしていた。さながら芋虫が誰に教わることもなく蛹になるように。
オナニーの道具で想像するような激しい振動をするものではなく、何かのおまけでもらったようなちゃちな振動をするだけの白いプラスチック製のマッサージ器だ。
マッサージ器と出会う前は、床に擦りつけるだけのオナニー原始人だった俺は、このマッサージ器を手に入れたことで飛躍的な進歩を遂げた。
スイッチをオンにしたマッサージ器をチンコの付け根に押し当て、そのまま寝そべる。
括約筋と床にかける体重を調整しながらそれが来るのを待つ。
おかずはもちろん、貧相なものだ。その当時親がとっていた新聞に載っていた少しエッチな広告をこっそり切り抜き、集めていた。
重力をまだ知らない想像力が導く世界を、俺はもう忘れてしまった。
この世には存在しない何かを見て、触って、嗅いでいた。
その世界とチンコの付け根の振動がシンクロすると、やがて、来る。
最初は恐ろしかった。身体が自分の意思とは関係なく動き、必死に抗うと目の前が真っ白になる。
頭を血が駆け巡っているのが分かる。
チンコを中心として下半身に感覚がない、そう思った次の瞬間、自分が強烈な快感の台風の目の中にいたことを思い知る。
奥歯を強くかみしめても声が漏れる。言葉にならない声がどんどんあふれてくる。
どれくらい時間が経ったかわからないが、立ち上がろうとしても足が痙攣していて上手く歩けない。
このオナニーに俺は耽溺していた。
だが、やがて小学校高学年になり、精通を経験すると、次第にそれは訪れなくなっていった。
暫くたってからもあの感覚をもう一度味わうためにいろいろなものを試したが、すべては徒労に終わった。
懐かしさと好奇心から触ってみると、なるほど、これはかなり強力な振動だ。
もうここ数年はすっかり諦めていた、あの感覚を取り戻すためのチャレンジをもう一度してみたくなった。
だが、この振動の強さ、大丈夫だろうか。よくわからないが俺の前立腺的なものは耐えられるのか。
安楽死反対派は死にたい人の気持ちなんてわからんのだから話し合いは無理なんよ。
だって死にたくない人は生活が充実してて五体満足で後遺症もなくて健康で幸せで毎日に困ってない人ばかりな訳で。反対するのも自分らの生活を支える奴隷がいなくなって困るからにすぎない。死にたくない人が~とか死を望まれて~とか詭弁でしかならない。死にたくないやつは死なねぇし、死にたいやつは死ぬんだよ。同調圧力で死を選ぶと言うが同調圧力で生きることを選ばされてるのはどうなんだよ。
こっちの気持ちを理解できねぇ奴にどん底人生なんて理解出来るわけない。
いい事あるよ!って言うけど治療法もなく完治せずだんだん悪化するが死ねるわけでもなくただただ苦しみに耐えるだけの病気の俺によくそんなもん言えるな。あまりに解像度低くてびっくりするよ。病院行け?行ってるよ。治らないのにまた来たのかって顔される気持ち分かる?分かんねぇよな。あんたにとって病院は行けば治る場所なんだもんな。羨ましいよ。睡眠薬を飲まないと眠れない気持ちも分からんだろう。出口が見えず永遠に光が訪れない気が狂う毎日を送ってないんだな。
水泳の某選手は努力して治したから頑張れ?そりゃあの人は金も期待もあって病院だって医師だって看護師だって手厚く看病しただろう。運もある。俺みたいな金もなく孤独な存在とそんな恵まれた人間を当て嵌めるな。金とコネが無いと良い病院に行けねぇの。お前だってなんでそんなくそ狭い家住んでるの?ビル・ゲイツみたいな家買えないの?って聞かれたら嫌だろ。
理解なんて無理。話し合いなんて無理。
俺が穏やかに死ねるために、お前らには同じような目にあって欲しい。今の生活がどんどん出来なくなって金もなくなって身体も自由にならなくて視力も聴力もほぼ消えて芋虫のようになれば死にたい気持ちが分かるだろう。そうなることを願う。
今日は、また夢と現実が混ざり合った一日だった。私は統合失調症と診断されている。怠け者と呼ばれることもある。しかし、私の世界は他の人とは違う。現実と夢が交錯する。
午後、公園のベンチで目を閉じていた。夢の中で、私は芋虫の大群に囲まれていた。彼らは色とりどりで、美しい模様を持っていた。そして、なぜか私は彼らを食べることになった。その感触、味、匂いは現実のものと変わらなかった。
目を開けたとき、私の手には芋虫がいた。それは夢だったのか、現実だったのか。私には分からない。しかし、その瞬間、私は芋虫を口に入れた。夢の中で感じた感触、味、匂いが蘇った。
私は怠け者かもしれない。統合失調症かもしれない。しかし、私の世界は確かに存在する。夢と現実が混ざり合う、その世界が私の現実だ。
だったらサブカル憧れの若者をじゃんじゃん食いつぶして「映画館バイトってヤバいんだって」みたいな噂が常識レベルになるくらいまで循環させるんだよ
そうして映画館ビジネスの悪評がサブカル趣味の市場規模を毀損するレベルになれば、やっとビジネス考えてる側もプカプカ煙草吸いながら「そろそろ変わらないとダメですなぁ」とか考え出す
逆に、そこまで行かないのならその過重労働はビジネスとして妥当な範囲だってことが市場原理によって証明されてしまう
グチグチ言ってるけど実は他業種と比べたら全然楽だから流入が絶えないんですよって可能性も市場原理によって取り込まれてるからね
食いつぶされないように耐えることが芋虫の悪あがきなんだよ
他の人のこととか考えず、自分にとってきついならやめる、それが一番市場原理のバランシング機能をきちんと働かせる、スマートなやり方なの
東京暮らし東京育ちの増田が田舎暮らしをdisるエントリがちょっと前にあったと思う。
自分は首都圏生まれ育ち23区20年ぐらい在住から東京脱出した組だ。
今は地方都市に居を構えているんだが、転勤族で田舎を転々としたので田舎暮らしを楽しめるタイプがわかってきた。
田舎暮らしを楽しめるタイプっていうのは、興味を持って自分の周りの物事の解像度を上げていけるタイプだ。
例えばその辺に草が生えている。草、というくくりで見てしまえば草、で終わる。
草には虫がいる。うわぁ虫だ、気持ち悪い!で済ませてしまえば虫、で終わる。それ以上何もない。
でも草にも虫にもいろんな種類があるんだ。
その名前を知り、興味を持った時、自分を取り巻く世界の解像度がちょっと上がる。
草の中にネジバナの存在を認識したとき、植物系のポケモンを見つけたような気持になる。
ツユクサ。青いきれいな花。雨の頃に見かけるとしっとりと濡れて青が映える。
スズメノエンドウ、カラスノエンドウ。見つけて、本当にスズメってこんなの食べるサイズだったっけ、など思うとき、世界がまたぐっと広がる。
何なら鳥、というカテゴリで見ていただけだったスズメとカラスにも一緒に興味を持ち、よく観察するようになるだろう。
虫。虫はもっと躍動的だ。毛虫・芋虫が苦手という人も多いだろうがきれいな蝶になったりする。
特にアゲハチョウ系は蝶になるまでは見た目がグロテスクだが、大きな蝶になって羽ばたいているのを見るとはっとさせられるぐらい生命力を感じる。
ハンミョウ。きれいな甲虫。益虫のテントウムシ、すぐに花を食べてしまうコガネ虫、きらきらした外殻を見せてくれるタマムシ。
虫を取って食べるクモ。大きな美しい巣をはる。人間にとって益虫なのだ。家の中や外にいるクモを自分はいつも大事にしている。
そんな自然の在り様を眺めているだけでも世界にはぐっと色がつき、何気ない日常を鮮やかにしてくれる。
あとは食べ物。農作物のとれたての青い香り。みずみずしさを五感で味わいながら調理する。
自分で畑をしているとどうしてもとれすぎるので、調理方法を工夫するようになる。どんな風にしたらおいしく飽きずに食べられるんだろう?と考えるようになる。
それによってまた、解像度がぐっと上がるんだ。これをこんな風にして食べることができるんだ、これとこれは意外だけど合うな、って。
海が近くで海産物があるとなおよい。とれたての海産物の新鮮さは近くに住んでいないと味わえないと思う。
ちょっと書いてみたが、田舎暮らしを楽しめるのは上に書いたようなことを楽しめるタイプだと思う。
それにまずよく言われることだが、田舎と一言にくくっても田舎レベルは大きく変わる。
増田が住んでるいたのは限界集落みたいなところで、都内からそれだけ住環境を変化させたら日本の中での差で比べてしまうだろうし、不便さしか感じないのも無理もないだろう。
都会の生活はお金を出してサービスを受けることがベースになっていると思う。
都会の生活で人は与えられること、用意されている何かにのることに慣れていく。
でも何もない所では楽しめなくなる。そういう生活をしていないから。
あるもので楽しむことをできるのだ。