はてなキーワード: 政治とは
無限の猿定理の研究は、かなり示唆的な含みを持ってはいないだろうか?
チンパンジーが一生タイピングし続けても"Bananas"という単語すら打てないなら、
カンガルーに袋があったり、キングコブラが毒を持ったり、デンキウナギが電撃を発したりするために
必要な時間を待っていたら宇宙の歴史が終わってしまうかもしれない。
つまり、チンパンジーが一生ランダムにタイピングし続けることはなく、
神の見えざる手によって「結果的に」知性を獲得する必要があるのではないか。
結果から遡って考えると確かにそこに存在していなければ成立しない何か。
まだ、わからないことは多いということだ。
もし人間が現時点でそんなに知的なら、政治家はもっと良い政治をするし、医者はもっと簡単に病気を治すし、学者の意見はそんなに対立しなくてもいい。
そうは思わないか?
最近、やたらと「日本車はガソリン車やハイブリッド車(HEV)で儲け続けることが正しい」とかいう風潮に持っていこうとする人をみかける。
それなのに、シュリンクする内燃機関技術に固執し、いまだに「ウチらが正義」みたいな態度を取るのは、日本を礼賛しているように見えて、実は衰退に追いやる悪魔だと思う。
そんな情報が流れれば、慌ててスタンドに並んで、結局無駄な時間を費やす人たちがどっと増えるわけだよ。ガソリンスタンドに長蛇の列を作って余計な渋滞を生み出しながらね。
EVユーザーからすると、自宅の基礎充電環境でまったく問題ないので、泣きながら給油している姿を見ると正直虚しいと感じるわ。
この無意味な時間を浪費する構図が、いまのガソリン依存の滑稽さを象徴していないか?「EVはまだ高い!」とか「充電環境が~」って言い訳をし続けて、結局はたっかいランニングコストを支払い続け、自己防衛的な悪循環に陥ってるわけだ。
海外はもうEVや再生可能エネルギーに真剣にコミットし、技術の進歩と市場拡大を同時進行で進めている。中国なんか、一時期は粗削りなEVだらけで「質が微妙」と笑われてた時期もあったが、今や急速に進化して世界を席巻する勢い。テスラと肩を並べ、EVインフラを整えながら、次世代バッテリー技術の覇権争いをしている。
一方日本はどうか?「EVシフトは減速してる」とか「EVは終わりだ」みたいな印象操作をし、「だからこそ新型エンジン開発が正義なんだ!」と豪語する。
最近は水素エンジンやら新型エンジンで市場を牽引しようみたいな話ばかり。
電気自動車も進んでるって?
でも実のところ、彼らの手元には基礎研究段階の特許ばかりが積み上がっていて、量産化の目途は立たないという現実。
何年経っても量産段階に進めず、実際の市場投入が遅れる。その間に世界はどんどん先に行ってしまう。
プリウスが登場した時代には、確かにトヨタは新技術の先駆者だったかもしれない。
世界がEVに傾く中、トヨタは「EVはまだ未成熟」と言わんばかりの態度を取り、内燃機関にこだわった。
結果的にEVシフトから取り残され、アメリカや中国勢に後塵を拝している。
これってまさに「ガソリン・HEVで稼ぐことが正義」と思い込んで、変化への適応を拒んだツケなんじゃないのか?
さらに、この「ガソリン・HEVこそ正義」的な精神構造は、日本の産業界、政治、そして一般的なメディア・国民性にまで根強く染みついているように思える。
「日本車が世界を席巻している」という昔の栄光に固執し、未来を見据えた大胆な技術投資や市場戦略ができないまま、ズルズルと衰退の道を下っているのが今の姿。
はっきしいって国内市場はめちゃくちゃ小さいし、頼みの海外市場での存在感も低下する中で、ガソリンやHEVでしがみつくことは本当に合理的なのか?
いま日本で売られているテレビって、純国産ブランドはどれほど残っている?
シャープは鴻海(ホンハイ)、東芝はハイセンス、パナソニックはTCL。
携帯電話だって、かつてP(パナソニック)、N(NEC)、F(富士通)、D(三菱)、T(東芝)、S(ソニー)、H(日立)がひしめいていたが、いまはほとんど姿を消してしまった。
結局、昔は世界をリードしていたはずの日本企業が軒並み海外勢に買収され、ブランド名こそ残っていても実質的には外国資本下で動く状況が増えている。
しかも、今の自動車業界の戦場は、もはや内燃機関vsEVではなく、自動運転ができるかどうかだ。
「EVはバッテリーが~」とか「材質が~」とハード面だけで戦うと思い込んでる奴は、完全に時代錯誤。いまはソフトが主戦場だよ。
中国のシャオミやファーウェイがEV参入しているし、あのアップルは結局自動車参入で敗北したと言われている。
日本にGoogle傘下のWaymoが入るというニュースまで出ている。
さらに、アンチEVのアメリカ次期大統領トランプにうまく取り入ったイーロン・マスクが、FSDを自動運転レベル4として認めさせようとする動きさえある。
こんな世界の流れに全くキャッチアップできず、ハードの旧技術に固執して「ウチらが正義」なんて言ってる風潮を作った奴らは、本当に悪魔だろ。
このままじゃ、日本は世界から「いつまで古いクルマ文化にしがみついてるの?」「結局ブランドだけで中身は空っぽじゃん」と笑われるだけ。
ガソリン・HEV依存を「正義」と称えることで、日本が得るものはもう何もない。
未来への投資を渋り、EVシフト、さらには自動運転やソフトウェア戦略への適応を遅らせることは、結局のところ日本自身を蝕む悪魔的な選択だと言わざるを得ない。そろそろ目を覚ますべきだろう。
「ガソリン・HEVこそ正義」という呪縛、そしてハード志向の化石思考から抜け出さないと、この国は家電、携帯電話、そして自動車の分野でも完全に世界の周回遅れになる。
最近、政治の話題になると、何かと「民主主義を守る」と書かれる。
さいとう知事が当選したことは「民主主義が守られてない」のようで
演説に対してヤジやプラカードを掲げるのは「民主主義」らしい。
・増税
これは反民主主義っぽいが今国民民主が減税言ってるので、対抗したいからたぶん増税は民主主義。
少し前の牛角の女性半額キャンペーンには、いかなる深い意図もなかったのだろう。
ただただ合理的な、市場経済の力学にしたがった結果に過ぎない。
『かわいそうランキング』という概念が世界を支配する事態は深刻ではないですか? 簡単に言うと、苦しんでいる若い美人や愛らしい子供と苦しんでいる醜い中年男性がいた場合、世間の関心や救済の政治的なリソースが前者のような皆が同情したくなるような属性に集中してしまうような内容です。 黒人やLGBTの問題は社会問題として取り上げられやすいが、自殺率の最も高いブルーカラーな白人労働者階級の苦しみは社会問題となりにくい。 『世間の関心や救済の格差』 これはリベラルが生み出した新たな被差別階級ではないでしょうか?
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ご指摘の「かわいそうランキング」の問題は、社会が共有する同情や関心、さらに政治的救済資源が、ある種の「属性」や「物語性」を備えた被害者・弱者へと偏りがちである点を示唆しています。若くて美しく、守ってあげたくなる存在はメディア的にも取り上げやすく、世間の共感を得やすい反面、同じように深刻な苦しみを抱えながらも「共感を引き出しにくい」属性を持つ人々、たとえば外見的魅力に欠ける中年男性や、社会的ステレオタイプと結びついている集団は、その苦境が十分な関心や支援の対象となりにくい、という不均衡が指摘されています。これは、社会が苦難を「見る眼」を持つ際に、必ずしも純然たる被害の深刻度や頻度、影響度に基づくのではなく、むしろ象徴性・ステレオタイプ・メディア価値など、感情的・文化的要因に依拠しがちであることを示しています。
このような「共感資源の偏在」は、特定の集団(たとえば人種的マイノリティや性的マイノリティ)の問題が公共言説で取り上げられる一方、同様に深刻な課題を抱えるグループ(自殺率が高い白人労働者階級など)が「社会問題化」されにくい現象に繋がります。ここで言えるのは、リベラルが「意図的に」新たな被差別階級を生み出したというよりも、リベラル的な社会運動やメディアが強く注目する問題群が、ある種の「注目の政治学」を形成し、その結果として相対的に取り残される集団が生じている、という構造的な偏りの問題です。
リベラル運動は歴史的に、社会的弱者・マイノリティ集団の権利拡張と差別解消を目指してきましたが、その運動が大きな関心を得た結果、ある種の認知的バイアスが生まれ、「同情されやすさ」を基準としたヒエラルキーが形成されてしまう可能性があります。つまり、「苦しんでいる集団」であっても、既存のナラティブに当てはまらず、メディア上での「物語化」が難しい人々は、リベラル・左派を含む公共空間から相対的に無視されてしまうリスクがあります。
このような状況は「新たな被差別階級」と呼べるかは議論の余地があり、必ずしも従来の差別構造と同一視できるものではありません。しかし、少なくとも構造的な無関心や支援資源の偏在が存在し、結果的に苦境にある人々が政治的・社会的影響力や救済手段を得にくくなる点は深刻です。この問題は決して一面的なものではなく、「魅力的な被害者」を産出するメディアの論理、社会運動の戦略的焦点化、アイデンティティ政治の動態、さらには資本主義的なメディア報道環境が複雑に絡み合っています。
要するに、「かわいそうランキング」が社会を支配する現象は、リベラルが意図的に新たな被差別階級を作り出したと断じるより、リベラルを含む社会全体がもつ共感分配のメカニズムが偏在していることの表れであり、これが新たな格差、つまり「関心・救済資源分配における不平等」を生み、結果的にある集団を見落としてしまう構造があるという指摘は傾聴に値します。このような状況は、政治的・社会的な課題として、従来のアイデンティティ政治を超えた「苦しみそのもの」に対する包括的な理解と救済の再検討を促す契機ともなり得ます。
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まあまあな回答だな
別にそこまでしなくてもいいよ
ただ選挙権とか諸々の社会的権利は全部剥奪してキッチンに閉じ込めておくべきだとは思う
こういう差別主義者のバカ女をキッチンから出してしまったことは誤り。政治のことなんか話さず家で掃除して料理でも作ってるべき
ポピュリズムが先行し、「対決より解決」ではなく「解決より対決」になっているように見える。
分かりやすい敵とそれに抗う自党の構図を作り出し、支持を集めようとしているように見える。
なにを話しているかじゃなくて、誰が話しているかで物事を判断する。
トランプだって、シンゾーの言うことだから聞く、イーロンの言うことだから信じる、そういうスタンス。
結局なにが儲かるの?でしかないし、その判断材料だって、信頼できる相手が言う言葉なら信じる、自分の敵の言うことは信じない、そんなところ。
みんなそんなもん。
親戚の誰がこういってた、部活の先輩がああいってた、世界的な権威がこう言ってた、そんなのばっか。
相手の話の中身より、相手が信用できるかどうかを酒を酌み交わしながら話すわけ。
中身なんかまったく理解してないよ。
いいんだよそんなんで。
いまさら素人が、一から勉強したところで、真実に目覚めて陰謀論にハマったり、ネットワークビジネスに騙されたりするだけ。
しかし、すげーよな。
カネは命より重いってのに、経済をどうするかが会食とかで決まってるんだぜ。
国家間の戦争だって、そんなんで、のるかそるか決めてるんだぜ。
責任なんか取らないしな。
あれだ、株式会社ってのは、合法的な無責任でさ、後先考えずにリスク取れるから、個人ではうまくいかないのに法人だと上手くいってるんだぜ。
上手くいかなかったら、潰せばいいだけ。
個人は全てを失ってからしか無敵の人にはなれないが、法人は設立した瞬間に無敵の人だ。
雇われ人であるサラリーマンは当然無敵じゃないから、組織に従順。
で、意思決定はと言えば、結局のところなんも理解なんかしちゃいない。
この世は、糞だよな。
便乗して5冊挙げようとしたけど絞りきれなかったので倍プッシュした。2024年は1/1から今日までのあいだに315冊読みました。ちなみに、いま読んでる途中なのは上橋菜穂子『香君』(2022年)と飛浩隆『鹽津城』(2024年)、それに教養系の新書数冊。
今年はアプリリリース3周年を迎えたウマ娘に突如シーザリオが実装されるというサプライズが起きて、仮にウマ娘化されるとしたら絶対男装の麗人キャラだろうなと思っていたら本当に男装の麗人だったので全俺が歓喜したし、オフザリオの声が可愛すぎませんか……? 俺はああいう透き通ったというか透明感があるというか鈴を転がすようなというか、とにかくそんな感じの声に弱いのだ。身体つきもいいしなグヘヘ。シナリオではずっとイチャイチャしてて最高すぎる。俺の嫁Tier最上位です。引けてよかった……! ちゃんと「シーザリオ英雄譚」の称号もゲットしました。チャンミは優勝できなかったけどな! ところで俺は『ハムレット』しかシェイクスピア作品を読んだことがなかったので、良い機会だということでシーザリオの名前の元ネタになった『十二夜』を読んでみることにした。男装の麗人、すれちがう恋心、よく似た兄妹の人違い、と来てお前女だったのかからのハッピーエンドで終わる、まあテンプレ通りのラブコメだったんだけどひょっとしてこれがラブコメのテンプレになったやつだったりします? 偉大すぎでは。っていうか「十二夜」って、古代ローマのサートゥルナーリア祭をもとにした公現祭(エピファネイア)のことだったんだ……。ほかにも『リア王』『マクベス』『リチャード三世』『お気に召すまま』『ジュリアス・シーザー』『夏の夜の夢』を読んだんだけど、いちばん好きなのは『十二夜』です、はい。「僕は僕が演じているものではありません」っていう台詞すき(小並感)。
ところでシェイクスピアといえば、古河絶水『かくて謀反の冬は去り』(2023年)というラノベがシェイクスピアのパロディなのね。『リチャード三世』をパロった1巻を読んだときにはまったく気づいてなくて、あとがきを読んで「これシェイクスピアだったんだ」となり、元ネタを読んだらめっちゃあからさまだったし、今年出た2巻はもう露骨に『マクベス』オマージュで、さらに二・二六事件や三島由紀夫の割腹自殺などのネタも盛り込まれていて非常に楽しく読めた。古代日本風のファンタジィ(e.g. 沢村凜『黄金の王 白銀の王』)とか、近代日本モチーフのミリタリもの(e.g. 佐藤大輔『皇国の守護者』)とかはよく見かけるけど、人名とか文化とかが古代日本風なのにテクノロジが近代風な政治劇というのはなかなかなかったように思うので新鮮というか、「その手があったか!」という感じだ。笑いとシリアスのバランスが良く、裏の裏をかくサスペンスが繰り広げられて、続きが非常に楽しみな作品なのですごくすごいオススメです(語彙力トプロ)。そういえば春先にはちょうど前年に文庫落ちしたホルヘ・ルイス・ボルヘスの『シェイクスピアの記憶』(1980年)も読んだんだった。俺の中で今年はシェイクスピア元年ということで。
自分ではリベラル派のつもりなんだけど、実はちゃんと原典を読んだことがなかったので読んでみた。日本でいうと幕末に書かれた本なのに「そうだよ~~~それだよ~~~!!!1!」と同意するところが非常に多かったので、自分は根っからの自由主義者なんだと再確認。みんなも(本来の意味での)リベラリストになろうぜ。リベラリズム関連だと、ほかにも井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(2015年)を読んだ。ラディカルだが筋が通っている。ところで著者がアメリカに留学してたときに「なんで日本人がリベラリズムの研究を?」って言われたというエピソードがちっともリベラルではなくてドン引きしたというか、あいつらひょっとして自由主義を人類普遍の原理ではなく西洋の文化かなにかだとでも思ってんの? 人類普遍の原理じゃないならなんでヨソの文化圏に押し付けてもいいと思えるんだ。非西洋の自由主義者としては不愉快。
もんのすごい面白い。話には聞いていたマーサズ・ヴィンヤード島の手話についての本。この島ではかつては高確率で聾の子供が生まれたため、島のほぼ全員が手話を身に着けていて、ときには聴者どうしが手話で話すこともあった。したがって耳の聞こえない人たちも完全に社会に統合されていて、社会的な不利益を受けることはなかった。この島では聾であることはただの様々な個人の特徴のうちのひとつであって、それが重大な意味を持っているとはみなされていなかった。たとえば以下の会話のように。
「アイゼイアとデイヴィッドについて、何か共通することを覚えていますか」
「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」
「ひょっとして、お二人とも聾だったのではありませんか」
島の出身者にとって、彼らはまずもって漁師であり、聾であることは、そういえば耳が聞こえなかったね、という程度のものでしかなかったということだ。この本を読むと、なるほど障害の社会モデルは正しいのだなぁと納得してしまう。手話が共通語として存在した共同体のあり方をインタヴューと文献調査によって復元していく社会史的な面白さに加えて、途中では島民の聾の起源を近世イングランドにまで遡って明らかにしていくという謎解きの面白さも味わえる。まさか手話の本読んでてジョージ・ダウニング(ダウニング街の由来)とかサミュエル・ピープス(日記を遺したことで有名)とかの名前が出てくるとは思わないじゃん。そしてこの「手話の楽園」が徐々に崩壊し、終焉へと向かう過程は寂寥感にあふれている。今年読んだノンフィクションでは一番ですわ。超オススメ。
まだ読んでませんでしたテヘペロ。最初読んだときは「衝撃の一文」の意味がわからず、ああ、あれって襲名制でこいつは先代なんだ、って一瞬勘違いしちゃったんだけど、独白が始まるにつれて鳥肌立った。お、お前~~~~~~!!!1!! 小説としての出来は正直言って荒削りで、お世辞にも上手いとは言いがたいのだけれど、謎解きとしての衝撃は絶大ですわ。なるほどこれが新本格の先駆けか……。そういうことでちょぼちょぼと館シリーズを読み始めてます。いま人形館の途中。
そうそう、本作がきっかけで○○○○○○の『○○殺人事件』(1929年)も読みました。タイトルだけ読んで中世ヨーロッパを舞台にした歴史ミステリなのかと思ってたら全然違ったわ。あなたの「○○」はどこから? 僕は、『電脳山荘殺人事件』から! っていうか本作を読んで学生時代に読んだ米澤穂信『インシテミル』(2007年)のなかで意味がよくわからなかった一節の意味をようやく理解した(岩井が読書マウント取るシーン)。『○○殺人事件』のあとがきとか「読者への挑戦」とかそういうコーナーで作者が自己紹介する文があるものだとばかり思ってたけど、本作を指してたのかよ!
英語への解像度が上がった1冊。英語のスペリングに悩まされ、「俺は日本から出ないから英語は要らない!」と高校時代に放言しておきながらいまは英語をそれなりに使う仕事をしている者からすると、かつて味わった理不尽の謎解きという意味ですごく面白かったし、何というか、あの理不尽の背後にはこんな歴史があったのか……と知ることで、英語への愛情のようなものが増した気がする。「世界共通語」とか呼ばれて出羽守から持て囃される帝国主義的な覇権言語としての英語は相変わらず好きになれそうもないが、しかし、ヨーロッパの片隅にある島で数奇な歴史を辿ってきた言語としての英語のことは割と好きになれる、そんな本だった。
アニメを見た直後に読んでおけばよかったシリーズ。名作ジュヴナイルSFアニメ『放課後のプレアデス』のノベライズなんだけど、キャラクタの掘り下げが完璧すぎる。みなとという謎めいた存在に丁寧に肉付けして、彼がプレアデス星人と出会って闇堕ちしすばるに救われるまでの過程を説得力をもって再構成していてすごくすごい(語彙力)。主題歌の引用のタイミングが完璧すぎるだろ(「Stella-rium」は名曲だからみんな聴こうな)。そして、あおい、ひかる、いつき、ななこといったキャラクタの名前に漢字が当てられていくところは本当にゾクゾクした。これオリジナル設定ってマ? 佐伯昭志のリリカルなアニメを『永遠の森』『そばかすのフィギュア』の菅浩江がノベライズするなら、そんなのもう心が洗われるような名作にしかならんわけで。読み終えたあとにまたアニメを見たくなる、そんな素敵なノベライズだった。大好き。
数値の測定は大事なことだが、それが濫用された結果どうなるのかという事例が色々と挙げられていて、この本末転倒感は日本でよくあるやつだ……! と思ったらだいたいアメリカの事例なので人類を滅ぼすしかない。この問題で難しいのは適度な測定には意味や意義があることで(たとえば、論文の本数が重視されるようになった結果薄っぺらい論文が量産されるようになるのはよくないが、ちっとも論文を書いていないひとに多額の研究費が配分されるのはおかしい、というお気持ち)、測定なんて意味がないとは言い切れないことだが、本書の著者は最後に「測定のまっとうな使い方」のための指針を提示していて、この増田で挙げた本のなかでは一番実用性が高い。「測定は判断の代わりにはならない。測定は、判断を要するものだ」という金言を政策決定にあたるひとたちには噛み締めてほしいなと。
こっちはJ. S. ミルじゃなくてJS見る。5巻くらいで読むのやめてたシリーズなんだけど読むの再開したらすごく面白くてハマってしまった。人工知能によって将棋が終わってしまったという夜叉神天衣と九頭竜八一の抱く絶望と諦念を、雛鶴あいと神鍋歩夢というそれぞれのライバルがねじ伏せていく、めっちゃ骨太の将棋小説じゃん……。ただのロリ小説と思わせておいて、いや実際にロリ小説でもあるんだけど(ロリホームって何だよ)、AIという最新のテーマに向き合って「解」を提示してみせる胸熱な将棋小説でもあるというギャップが俺を狂わせる。すげー面白いっすわ。
ところで、さんざ褒めておきながら将棋の定跡とか全然わからんのは秘密だ。ひ、『ヒカルの碁』も盤面わかんなくても読めてたし……(震え声)
〈小市民〉シリーズの完結編。ずっと追いかけてきたシリーズの終わりが見れて感無量すぎる。読み始めたの高校の頃とかだからマジで20年越しなんだよな。『春期限定いちごタルト事件』の序盤で示唆された、小鳩くんが出しゃばって不興を買ってしまった過去の事件が描かれていて、20年越しの伏線回収が嬉しすぎる。
「なあ。おまえ、鬱陶しいよ」
これってこういう文脈でのことだったのか~~~~~とか、互恵関係! 互恵関係きた! これで勝つる! とか、〈小市民〉シリーズの過去が明かされていく展開を味わって読んでいたらそれが小鳩くんの遭った事故と徐々に繋がっていく過程は流石のよねぽだった。本作で〈小市民〉シリーズは綺麗に完結したわけだけど、これ短編集もう1冊くらいいけるんじゃないですか? という気持ちになってしまう。読みたいよ~~~~小鳩くんと小佐内さんの物語をもっと読みたいよ~~~~~~~~!!!1!!
オモコロで話題になってたみくのしんの読書録。一文一文を噛みしめるように丁寧に読んでいてすごい。国語の授業が苦手だったみたいなこと言ってるけど、マジで正統的な国語の授業みたいな読み方してるのすごすぎるでしょ。そしてこの本を読んで「一文一文を噛みしめることなくただ数だけを積み上げてきた俺の読書とは空虚なものではないのか……」という敗北感に囚われていたところに次の文がすっと差し込まれてくるのです。
本が読めないと尻込みしていた男を「正しい読み方なんてないから」と、訳知り顔で励ましておいて、いざ自分のこととなると、ちっぽけ呼ばわりなんて本末転倒じゃないか。
本書はみくのしんの読書の追体験であると同時に、本好きへのエールでもあると感じた。本には色んな読み方の可能性があって、すごく自由なものなんだということ。それを思い出させてくれる、とても良い本だった。ありがとう。
Xで、目に入って不快に感じた広告を片っ端からブロックしていった結果、興味のない広告ばかりになって快適になった。
よくソシャゲやアニメ等の二次創作を楽しんでるが、前までは、ピッコマやコミックシーモア等の漫画系、Netflix等のサブスクサービス系(人気ランキング)、流行りのソシャゲ…みたいな感じで、不快極まりなかった(流行りものが嫌い)。
そんな時、少し前に、ここで広告に使われるアカウントをブロックすれば広告を消せると知って、頑張って消すようにした。
今は、美容と賭け事(競馬や競艇に投資、仮想通貨、ネットカジノ?バカラ?)、生成AIの広告で埋め尽くされてる。
どれも何言ってるか分からない世界の話で、目に入ってもなんのこっちゃか分からない。でも、そのおかげで興味もわかず、邪魔とも思わない。すごく快適だ…
と思っていた矢先、mixi2発表。広告出ないし、めっちゃええやんこれ…
Xは政治やニュース等の時事ネタ閲覧用として、mixi2は娯楽用として移住する予定。クリエイターの人が来てくれたら嬉しいな!
例えば、理科の授業で植物の構造を学ぶ。花の花弁がどうこう、葉緑体の構造がどうこう、毛細の仕組みがどうこう。
そこに、「ある花は綺麗で、ある花は醜い!」とか「日本古来愛されてきた桜の構造だけ学べばよくて他の木は適当でいい!」みたいな価値判断は普通入らない。
社会の授業で、世界の国々の様子を学ぶ。アメリカの選挙制度はどうこう、ロシアの大きさはどうこう、世界の人口はどうこう。
そこで、社会の授業という枠組みで「アメリカの政治制度は正しく、中国は間違ってる!(逆も)」とか「北方領土!竹島!日本の国土!」という授業を何時間も続けるということは異常である。少なくとも社会科の枠組みではない。
性教育はどうか。
性器の構造。精通や生理。妊娠と出産。これらは理科的・生物学的側面といえる。
一方で、「成人するまでセックスを我慢しよう(逆にどんどんセックスをしよう)」とか「セックスの前に合意をしよう。その合意は空気ではなく口頭で行うべきで~」とか「堕胎の是非」とかは思想的な問題である。
だが、性教育は前者と後者が混然と一体になり、しかも数多くの自称専門家が、その政治思想の左右を問わず好き勝手言い合うことが平然と行われている分野である。
これらにカリキュラム的な問題が合わさり、「外部の『専門家』を学校に呼んで特別授業を行う」という他の分野ではほとんど見られない現象が生じ、ますます事実とそれ以外の混入に拍車がかかっている。
それも、たとえば修学旅行前の平和授業なら、目の前にいるのが被爆者の語り部であり個人的な経験を語っているということは、子供ながらでもわかる形となっている(そしてこれは社会科の枠組みではないはずである)。
だが性教育の出張授業になると、途端に目の前にいるのは実際の業績が不明で、科学的なことを語るはずが事実と思想の分別がつかない言動をする教授や医者のいうことを、子供たちは鵜呑みにさせられることになる。
実際、私の時は、女医が学校に来て、そういう教育を受けた。しかもその女医は「そんなんじゃ女の子にモテないよ」式の言動をテコに性教育を行うタイプの人間であった。
もちろん、学校という現場だけの問題であるとは言わない。文科省。公立・私立。地域や家庭。色々な問題が絡んでいる。
個人差が大きく、急激に変貌する個々人の身体。「初めての生理が来たら赤飯を焚いて…」という風習に代表されるような、事実・思想以前の地域的な性のあり方。
だが、それにしても、である。
仮の話、私が「全世界フリーセックス!」「0歳児でも100歳の老人でもみんなセックスセックスセックス!」と子供たちに教えることも、究極的には、性教育になる、ということである。それで私は学位も実績も無しに専門家を名乗れるということである。
何をバカなことを、とみんな思うだろうが、この逆の立場の「純潔教育」は堂々と行われてきたし、今も行っているところがある。
以前、母親たちが自発的に性教育の授業を行う取り組みが「ニッポンの性教育 セックスをどこまで教えるか」というタイトルでドキュメンタリー番組として放映されていた。
その番組では、2000年代のいわゆる性教育に対するバックラッシュにも触れられており、自民の山谷えり子議員に直撃取材も行っていた。
番組としては、明記などはされないが、母親たちが先進的かつ真摯であり、バックラッシュに加担した山谷は後進的かつ不誠実であると描写したいようだった。
だが、性教育の「教育」を考えるとき、無論山谷の行為には旧来の「寝た子を起こすな」式の問題があったとしても、前述の母親たちの行っている授業が果たしてどこまで「教育」なのか、その側面には触れられているようには見えなかった。
賞与の評価を上げるためだったり、昇進昇格を狙ったり、あるいは方への異動を回避するのに社内政治が行われる
いわゆる根回しとかゴマ擦りとかそういうやつだ。
まあ利用悪用しないまでも、社内政治は自分が快適に仕事を進めるうえで大事なのは言わずもがなである
で、日本には政治家がいる。私はずっと政治家というのが国民を代表して世界のルールを決めたり調整したりする人たちだと思っていた。
総理大臣もいる、天皇もいる。あとは三権分立もある(詳しくはアホだから知らん)
でもまあ、政治家たちがやいのやいの言い合って日本をいい方向に向かって進めてくれているんだろうと、そんな封に考えていた。
だが「社内政治」というのはカンタンに言えば役員や上司や決裁者に向けて自分をよく見せることだ。