はてなキーワード: 犠牲とは
インターネットでよく見かける
「フィジーでは時の流れがゆったりしていてみんなのんびり幸せですよ」とか
「パタヤではあくせく働いている人はいないよ。日本人も見習おう。」とか
それは貧乏で物の乏しい生活という犠牲があってのことだと思うんだけど
でもまあ日本人も『金のためにあくせく働くよりのんびり過ごしたい』らしいので
ワークライフバランス(笑)大切にしてそういう生活目指せばいいんじゃないかね
この本は、婚活アプリで出会った男女2人の視点で物語が描かれているんだけど。前半の男性目線パートは「ほんとそれな」っていう気持ちで読めて、後半の女性目線パートは「なるほどそういうことなのね」っていう答え合わせみたいな気持ちで読めた。なんで読んだかといえば、私自身、婚活アプリで今の妻と出会い結婚したっていう境遇の近さもあったし、結婚してまだ1年も経たないがうまくいっているとは言えず、私自身苦しく、今後どうしようか悩んでいたからだった(朝井リョウさんの帯書きがそんな私の状況に刺さる言葉だった)。
で、今読了したところなんだけど、圧倒的なリアルさに震えつつ、自分がぼんやり思っていたことを言語化するのに役立たせてもらった感謝、圧倒的感謝の気持ち。多分 "結婚" というワードに違和感をもったり漠然と不安を感じるひとは読むといいと思う。
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私は、私の妻はBPD(境界性パーソナリティ障害)ではないかと疑っていて、妻と私は共依存の関係なのではと思っている。一般的にそれぞれがどんな症状なのかはネットやAIに聞いてみてくれ。までも簡単にいうと、メンヘラとその親代わりなることに自身の価値を見出す人の不健全な関係といえるかも。
で当然ながら、私は自分の境遇をこの本の主人公2人に重ねて読んでいた。
すると、女性主人公である真実と毒親・過干渉な母とは共依存関係で、お互いに自他の感情・問題の境界が曖昧になってしまっているように読めるし、意を決して自立しようと親元を離れて自分自身で結婚相手を探してみても、結局は母の代わりとしての新しい依存先を探しているだけのようにも読める。それに、男性主人公である架くんの友達や第三者には「いい子」を演じてしまうあたりも、BPDにおける見捨てられ不安からくるものだし、そしてその背景には小さい時に母に植え付けられてしまった「いい子でいないと自分には価値がない」っていう生存戦略を大人になっても維持し続けてしまっていることが大きな要因としてあるんだろうなとも推測できる。
それに、ストーカーされているなんていう大嘘をついて男性主人公である架を結婚に踏み切らせる手法は(架の女友達からひどいことを聞いていたとしても)、明らかにBPDのいわゆる試し行為じゃないだろうか。「この子は私がいなくてはだめになってしまう、自分が守らないと」というある種善良な男性の依存心をくすぐるもの。それで結婚しても当然ながら前途多難で健全ではない関係なんじゃないか?と思う。
でも、それにひっかかる架くんも架くんなんだよね。本当に鈍感で女性の心理がまるでわかっていない、傲慢で脳内お花畑なんだろうなと(その言葉はそのまま自分に返ってくるんですけどね...)。本書ではあまり描かれていなかったけど、架の家庭環境ももしかしたら影響していたかもしれない。だって普通自分が70点をつけた相手が、プロポーズした後に失踪して半年以上も連絡がとれない状況になったら諦めない??自分の責任だって感じるのはわかるけど、仕事もないがしろにして探し回る様子は執着しているようにもみえるし、真実の無事と嘘が発覚したあとも式場をキャンセルせずに待ち続けるってどうなの?半年以上会ってないのに、再会してすぐ再プロポーズって実際どうなの?
それに、父親が亡くなってしまったときも、中堅の広告代理店で順調にキャリア積んでいたのをやめてまで父親の会社を継ぐのは、不自然に思える。おそらく母親のことを考えたのかもしれない。母親では父の仕事の代役はできないし、母を悲しませたくないから自分が犠牲になれば...みたいな。そういうところを見ても、人生の大事な選択を他人に任せてしまう、それはそれで真実とは違う角度で、自他の感情・問題の境界が曖昧になっているようにみえた。もちろん、その最たるものは、真実との結婚だけど。
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最後にエピローグとして、主人公たちが結婚する様子が描かれているんだけど。その慧眼に震えた。
エピローグを読まなければ、それは女性主人公である真実が自身の過去を克服して自立する物語になるし、エピローグまで読むと、一見いい話で終わるようにもみえるけど、BPD(の疑いのある)当事者とそのパートナーとの関係と考えると、実は救いのない残酷な物語になるんだよね。
「あぁ、この夫婦はいつまでもこんなことを繰り返すんだろうな。お互いに依存しあって振り回されて、そのたびにそれを乗り越えなきゃいけないんだな...二人とも心と身体持つかな...」
っていう。そういう意味で、エピローグではきれいな情景描写で終わっているけど、こっからがスタートであって、こっからが大変だっていうっていう結婚の大事なところは描かれていない。各自の親との関係性を不安視するところとか、「何考えてるの」のやりとりで、これからの大変さを表現しようとしていたのかな。でも全然足りない。私が感じている結婚の大変さからしたら。本の主題とか区切りとしては、そこまで描かないのはそりゃそうだけど。
なんにしても、自分の物語のように読めて、自分自身を客観視するのにとても役立ったし、妻に対する解像度や想像力が少し養われた気持ち。残酷ではあるけど、現実を突きつける良本だった。
なんかさぁ、あるだろ、こう、日本製の電話機もプリンターも複雑過ぎて使いにくい、みてぇな国外からのクレームがよ。
ITに疎いとかそういう次元じゃねぇの、もっとこう、センスの話なのよ。
日本の技術者たちがどれだけ優れた製品を作ろうとしても、使う側のことを全然考えていないんじゃねぇかって思うわけ。
例えばさ、最近買ったプリンターなんて、初期設定するだけで一苦労だよ。
説明書は分厚くて、まるで小説を読んでいるみたいだし、肝心なことが書いてない。
結局、ネットで調べてみたら、「このボタンを押すとこうなる」なんて情報が出てくる始末。だったら最初から簡潔に書けよ!って叫びたくなるよな。
シンプルなデザインと直感的な操作性。ボタン一つで何でもできる。あれこそが「使いやすさ」ってもんだろ。
日本製品は機能が多すぎて、逆に使う気が失せるんだよ。ユーザーのニーズを無視して、高度な機能ばかり追求しているように見える。
さらに言えば、日本の企業文化自体が問題なんじゃねぇかと思うわけ。
開発チームが「これが最新技術だ!」って自慢する一方で、ユーザーの声には耳を傾けない。
現場の意見を無視して、エリートたちだけで決めた製品が市場に出回る。
その結果、使い手は困惑し、結局「日本製は難しい」とレッテルを貼られる。
それでも、日本人は「品質」が大事だって言うけど、その品質が使いやすさを犠牲にしているなら、本末転倒じゃねぇか?
確かに壊れにくいし、耐久性は抜群だけど、それだけじゃダメなんだよ。使う人間がストレスなく使えることこそが、本当の品質なんじゃねぇか?
だからさ、これからはもっとユーザー目線で考えた製品作りをしてほしいわけよ。
「使いやすさ」を追求することで、日本製品の評価も上がるし、海外市場でも勝負できるようになるんじゃねぇかな。
そうすれば、「日本製は難しい」なんて言われなくなる日も来るかもしれねぇぞ。
まぁ、俺みたいなオヤジが言ったところでどうなるもんでもねぇけどさ。
ジェンダーの話だけど、言いたいことは分かるんだけど、男性を男性というジェンダーに閉じ込めてるのは何も男性ばかりではないんだよ。女性が現在の女性というジェンダーに則って行動するとどうしても『感情を見せる弱い男』(ここは個人的には異論があるが)より『暴力的な強い男』に靡くことになる。
個人的な経験だけど、品行方正人畜無害でいたって『モテ』的には何にもプラスにならない。「いい人だけど好きになる取っ掛かりがない」だけの男になっちゃうんだよ。下方婚増田の言ってることはあながち間違ってなくて、「それでも女は下方婚しない」から男は中々降りられない。降りたら一方的に負けるだけだから。
そこを変えたいっていうのは理解する。理解はするが、「じゃあ具体的に何から始めるの?」となってしまう。男性にしろ女性にしろ、今現在のジェンダー概念を変える必要があるわけだけど、正直一朝一夕で行けるとは思えない。はっきり言って、今生きてる人類がそれによって救われることはないだろうな、と思ってしまう。
でもまあそれで良いんじゃないかな?とも思う。昔は人権などなくて、人の命がいとも容易く無惨に奪われる時代があった。
今はそんなことはなく、誰にでも人権が認められる時代になった。少なくとも日本に限れば、簡単には飢えず理不尽に命を奪われることも時々はあるがすごく少なくなった。
時代が進めば物事は概ね良い方向に向かってきている。それを思えば、ジェンダーロールだって(人々がそれを指向しているなら)解体の方向に進むだろう。問題は今を生きる人たちが自らを犠牲とすることを受け入れられるかだな。
埼玉県八潮市にて道路陥没が起き、トラックの運転手(74)が巻き込まれて恐らく死亡したと思われる。御冥福をお祈りします。しかし陥没の範囲が加速度的に広がり、もう現時点では収集がつかない状態になっている。恐らく、ご遺体の回収までだいぶ掛かるだろう。雨が降ったら更にまた難易度があがる。もし遺体がなかったらどうだろうか。博多の崩落事故は縦横約30メートル、深さ約15メートルの大穴が開いたが僅か1週間もたたないうちに埋め戻すことができた。
🎭✨芸能🌋💨 界は👑💀 プロデュース魔†・ 怪しき事務所長老🦠・ ビッグ大物タレ太郎🎤💥 などが、 「すべてを掴むァ!!!」と叫びし 新人豆粒💨 や 立場弱弱😵💫 な者を🕸️ 絡め捕り縛れり🕷️ しやすき構造🌪️
- 人間(?)、権力を 「掴ミシ者🦵」 となりし時……🌀「声なき者、無に等し」🌀 の法則発動⁉️
- 「ルール? ワシを縛るモノなし🗿🔥」という 特権意識(👁️🗨️暴走ver) が暴れ回る。
- スキャン🌪️💥 ダルが爆発しても、 「無問題(モウマンタイ)」 …⁉️ 「揉み消せし者、神なり」 🤷♂️💦 「相手?? 反撃? 出来ぬ(笑)」 💀💀💀💀
「悪行なれど無敵」 👿💸 「長年のタブー化」 🧷🤐
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- 被害者🐑💨を 「ひれ伏せし」 せること。
- 「NO? 知らぬ❗️ 拒絶? それが快楽」
「権力×人格変容」✖️ 幼少期のトラウマ 🌫️🌀 =「破滅的欲求の増幅💥」
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ヒト🐒💨 も含む動物界🌍🔥、
「優れし遺伝子求む本能」 あり‼️ …だが、それ即「暴力否定」ナシ⁉️ 👀💢
「むしろ逆!!」🌀👊
- 「支配こそ最適解🧠💀」
- 「敗者は踏み潰される、それが世の理」 😵💫
→ 支配者🐲 「すべては手中にあり」 ✋🔥
🧠ヒトは理性を持つ??🤣💀
- 「結果…暴力が牙を剥く💢」 🩸
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「大手事務所🕸️」「劇団💀」…🌀 すべての権限は👑頂点に集中💥
- 「下積みの沼🌊」 で もがく者、沈む者、消える者 😵💫
- 「見えざる掟」=「外部など無意味❗️」 👁️🗨️💢
- 「すべては、闇のベール🕶️🕳️の中」
- 「🦷粉砕💥長時間労働🛠️」
- 「華やかさ✨🤩」 ⇄ 「血と涙の犠牲🩸💀」
「Takarazuka問題も、その一端に過ぎぬ…」 😵💫🌪️
「己を魅せよ‼️👁️✨」
- 「一部の狂気が、全体を呑み込む…」 🌪️🌪️🌪️
- 「大多数?…無力な群れ🐑💨」
「止める者など、いない……」
💀「長く権力を握る👑💀」 → 「批判されぬ👂💢」 → 「麻痺🌀」
- 「俺様ルール📜👊」発動‼️
- 「裁かれる⁉️ そんなこと、あるワケない」 🧠💥
- 「捕まる?😆 フッ、馬鹿な」
- 「合意?要らぬ💀💢」
- 「服従、それが美💋」
- 「黙る者、多し💀📉」
- 「そして本人は……"大丈夫、俺は無敵👑"」 💀🔥
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→ 〈権力ピラミッド👑🗿〉×〈監視のカーテン🎭🕸️〉×〈自己愛モンスター🦠💥増殖地帯〉= 加害の楽園🌪️🔥
→ 「スター👑に非ずは、沈め👁️🗨️💀」
→ 「闇のベール、解けぬままに……」
→ 「ビジネス?利益?関係なし‼️ ワレ、神に在り👁️🗨️🔥」
→ 魅力=守る?💋いや、違う💀
→ 「だが、力を持てば…リミッター解除🛠️💥」
🌀個人の心理バグ💀✖️閉鎖された競争地獄🔥✖️社会の黙殺📢= 「永劫回帰💀🚀」
「スターとは?💀💋」「光の裏にある影👁️🗨️🌑」
「透明化⁉️🩸💀それは可能なのか…?」
ま、わからんところもないではないが。。。
事前に万全の情報を与えられても、列挙されているような希望する職業にはそうそうつけないから、安心していいと思う。
大抵トレーニング(勉強とか、練習)が必要で、かったるいしパフォーマンスが上がらなくて脱落する。
それで、似たような系統の、より難度が低い職業を狙おうとなるのが多い。
たとえば、医師にはなれそうもない!と気づいたら、じゃあ医師と同様に人の健康に関連する職業として、理学療法士になろう、というような。
でも結局これは満足しないことが多い。なぜなら、職場では医師にあごで使われてリスペクトを全然感じられないし、実は親も医師だから家庭でも医師になれずに雑巾絞りみたいなことやってる落伍者みたいに言われるから。
それで、職業という縛りから離れて、どういう暮らしぶりなら満足できそうかという軸で考え始めるというのが典型的。
自分は人のためとかよりは、自己実現や自分の納得感を求める性格だったんだなあと、そうするとビルディングの設計とかする仕事だったら、もっと満足できたのかもしれないなと気がつく。
しかしこの時点で26歳とかになっていて、路線変更するには遅いというか、なにかを犠牲に(例えば、結婚とか子供を持つこととか)しなければ達成できそうもない…というので、どうしようかしら、もしかしてどうしようもないのかしらとなる。
いまの増田と同じ状況だ。
情報を事前に得られていればおれだってという気持ちは、特に経済的に貧しい家庭出身の者に頻繁に出現するが、実際には情報を得ていてもその通りにはならない、かくも世の中は厳しいということであった。
早い時点で、人生に一発逆転はない、コツコツやるぜというメンタリティに到達した者が、主観的に満足度の高い人生を送る傾向にはある。
目の前の契約書を見つめると、手が震えていた。何度も書類を見返すが、結局、どこを見ても同じ内容が続いている。
15年間、毎年同じように契約を更新してきたが、今はその意味が薄れてきている。数字が増え、肩書きが重みを増すたびに、心がどこかで置いてきぼりにされている気がした。
最初にサインした契約書が目の前にあった時、まだ若かった自分はただの「契約」だと思っていた。それが、自分にとってどれほど重要で、やがて重荷となるとは想像もしていなかった。
あの頃、自分はただ「成功」を追い求めていた。どんな犠牲を払ってでも、それを手に入れることが目標だった。
エージェントが「君はこれからのスターだ」と言ってくれた言葉が、今では重すぎて息ができなくなるような感覚に変わっている。
年俸が20倍に膨れ上がり、名声も手にした。しかし、それに比例して自分の自由は失われていった。
毎日が忙しさに追われ、周囲の期待に応え続けることだけが生きがいになったように感じる。
周りの人たちにとって自分は、数字に過ぎない。成功を追い求めることが自分の存在証明だと信じてきたが、ふと気づくと、その「成功」に一度も心から喜んだことがないことに気づいた。
初めて契約を更新したときの、嬉しさと誇らしさを覚えている。その頃は、何もかもが新鮮で、未知の世界に足を踏み入れるのが楽しみだった。
だが、何年も同じことを繰り返し、満たされない自分を感じるようになった。目標を達成しても、次の目標が待っている。
数字が増えれば増えるほど、達成感は薄れていき、物理的に大きな契約書が重く感じるようになった。
「君はこれだけの実績を持っている。今が一番良い時期だろう?」
どれだけ成功を収めても、次はそれ以上を求められる。まるで、どこまで行っても終わりが見えない迷路に迷い込んだ気分だった。
内心で決意が固まる。これ以上、この生活を続けていいのだろうか。自分の人生を他人に決められているような、そんな気がしてならない。
エージェントの期待を裏切ることが怖かった。でも、これ以上、自分を犠牲にすることに耐えられなかった。
電話を切り、契約書を手に取った。その紙を見つめながら、心の中で一つの決断を下す。
ペンを取らず、代わりにその書類を机の上に投げた。もう、あの数字の羅列に縛られる必要はない。これからは、他人の期待に縛られることなく、自分の人生を歩んでいく。
契約を断ることは、社会の枠を壊すことだと分かっていた。しかし、何かを壊さなければ、何も生まれないことも理解していた。
その瞬間、ふと過去の自分が浮かぶ。あの頃は、確かに自信に満ち、目標に向かって突き進んでいた。
だが、今振り返ると、それがどれほど自分を見失わせるものであったのか。過去の自分を否定するつもりはないが、今はその成長の先に見えているものが違うと感じている。
契約書が机の上に放り投げられ、部屋の空気が一瞬軽くなるのを感じた。心が少しだけ軽くなり、無駄なものをすべて放り出したような気分になった。
目の前に広がるのは、これからの自由だ。それは、過去の枠にとらわれない、新たな一歩だった。
つーか弟は手がかかる子だったから両親は弟にかかりきりのところあったのに
それでもなお「馬鹿にされた」と思ってるなら
「もっとよこさないのは俺を馬鹿にしてる」と真顔で怒りだすところあったわ
大日本帝国憲法をよめば自明でありこれを否定するものは無教養である。
大日本帝国憲法では天皇は大元帥、つまり日本軍の総司令官である。
当然開戦する権限ある。
「違います。41年9月6日に開かれた御前会議の時点までは、確かに天皇は開戦を躊躇(ちゅうちょ)していました。しかし側近の日記や軍の記録などから見えてきたのは、そのあと天皇が戦争への覚悟を決めていく姿でした」
「10月には宣戦布告の詔書の作り方を側近に相談しており、11月には軍の説く主戦論に説得されています。最終的には天皇は開戦を決断したのです」
https://digital.asahi.com/articles/ASS863DKVS86UPQJ00WM.html
ネトウヨやゴミクズのような保守が「天皇は戦争を回避しようとしていたんだあああああああああああ」という戯言を述べるが主戦論に説得されて開戦したのは天皇である。
故に開戦する権限があったのは天皇であり開戦したのも天皇でありその責任も天皇である。
「日本は15日、ポツダム宣言受諾による70回目の終戦記念日を迎える。北京郊外、盧溝橋での中国軍との衝突に始まった戦火は最終的に東南アジア・太平洋を席巻し、同地域全体では2000万人を超える軍民が犠牲となった。大日本帝国は欧米植民地主義からの解放戦争と喧伝(けんでん)したが、「大東亜共栄圏」のためにアジアの同胞からあらゆる点で収奪した。」
https://mainichi.jp/articles/20150814/mog/00m/040/006000c
昭和天皇を崇拝するネトウヨやゴミクズ保守はまさしくネオナチでありクズである。
というクソみたいな理屈を並べ立てる。
他の国がしていたから虐殺をしていいと言う理屈などどこにもないのである。
要するに主権(=憲法制定権力)を握るのは自然状態では国民なのである。
それが他のものに渡っているということは「簒奪」以外の何者でもないのである。
故に民主主義は人類普遍の原理であり、専制主義は主権の簒奪である。
専制主義体制そのものが不当な暴力体であり、「たとえ防衛戦争であっても」それを守ることは許されないのである。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。 これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。 われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」
https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/a002.htm
と書かれてるように、民主主義を人類普遍の原理とし、それに反する専制主義を排除することが書かれている。
日本国憲法は国民の合意により成立してる内容であるため、上記の内容は私だけでなく日本人のほとんどが賛成する内容である。