はてなキーワード: 言の葉の庭とは
大学在学中はSFに飢えていて、「AKIRA」とか「エヴァンゲリオン」とかを観ていたのだけれど、「ラーゼフォン」にはハマることができなかった。問題は長さなのではないかと思い、26話も見る必要のない映画を手に取った。
この作品が好きだったのは、クラークやイーガンが好きだった自分が求めている、別の惑星の風景描写があったことだ。僕が映像作品を評価するのは、どれくらい思いがけない風景を見せてくれるかだ。火星の大地や、木星とイオのあいだにかかる雷の橋が美しかった。ヒロインからの携帯メールにも確かクラークへの言及があった。
また、日常の美しさを切り取った言葉を、詩のようにつなげていくアニメを見たのは初めてで、そこも新鮮だった。
敵方の宇宙人が、鏡像となって話しかけてくるところなど、露骨にエヴァの影響を受けているし、詩的な文章も村上春樹のフォロワーに過ぎないと感じはしたものの、この監督の作品をもっと見てみたいと感じた。
「僕と彼女の猫」は忘れてしまった。珍しく自分が好意を寄せている女性視点の失恋の話だった気がする。
僕が好きな要素がとにかく詰まっていた。架空の歴史、知的に早熟だけれども情緒的には年相応の少年少女、そして天にそびえる真っ直ぐな塔。東京からも見える北海道のメガストラクチャーという、自分の想像力をはるかに超えた世界を見ることができた。
もちろん、欠点もあった。ヒロイン・佐由理を救うか世界を救うか決断を迫られる主人公・浩紀は、セカイ系の典型例に感じられて冷めてしまったし、あと、これは前にも書いたのだけれど、主人公のやっていることはテロリズムの肯定だ。
テロ組織の名前も、北海道を手に入れるためなのにアイヌ解放戦線じゃなくて、サハリン・樺太の先住民族ウィルタ解放戦線だ。ヒロインの祖父の名前ツキノエはアイヌ系の名前だが、そこには一切触れられないし、朝鮮半島のように南北に別れた家族の悲劇は、ごくわずかしか触れられず、プロットには絡んでこない。つまるところ、政治は装飾でしかない。いいのか。
にもかかわらず、この作品を好きになってしまった。アニメで精密に描かれた東京の景色は、当時の僕の生活圏とかぶっていた。自分の暮らす世界の彩度を高めた景色は、ぐずぐずとした感傷に僕を引き込んだ。何にもでもなれると、まだかろうじて思い込めていた頃だった。
そして、テーマ曲があまりにも切なく、これがずっと頭の中で流れ続けていた。過剰なまでに作中で繰り返され、露骨でさえある。しかし、悔しいけれども切ない気持ちになるのをやめられなかった。ラストで虚無に飲まれる北海道の美しさで息をのんだ。
自分の青春に満足できていなかった僕は、この甘ったるいテーマ曲の映画に呪縛されていた。批判しつつも、フィルムブックとノベライズを買ってしまうほどだった。これが感傷マゾなのか。
退屈さを感じる場面や、冗長な個所もあった。でも、日常の風景を美しい色合いで描くアニメを他に知らなかった。第2話冒頭の、貴樹が空想する巨大ガス惑星が空にかかった惑星の風景は、僕が創作していたSF小説の舞台として何度も用いた。
そして、第3話で流れた「One more time, One more chance」ですべてを持っていかれた。ヒロイン・明里と結ばれないラストを見て「そうなんだよ! これこそが人生なんだよ! はっはっは!」と快哉を叫んだ。「鬱エンドだ」「悲しい」と言っている連中を笑っていた。なんてこじらせた大学生だったんだ。これもノベライズを買った。
振り返ってみれば、主人公はいつまでも明里の幻影に惑わされており、サーフィン少女・花苗の気持ちにちゃんと向き合っていない。独り身の期間が長かった自分は「応えてやれよ!」とあとになって思ったものだった。そりゃあ、思春期だから初めての感情ばかりで、あまりにも未熟で、だから人間関係で目も当てられないような失敗を繰り返すんだけれど、「結局お前モテてんじゃん!」と怒りが湧いた。
後に、貴樹をはじめとした新海アニメの主人公たちはどうやって童貞を卒業したのかな、夜のお店かな、などと根拠のまったくない最低な空想をするようになってしまった。自分がそうだったからって投影するなよ。
統一感のない固有名詞(※僕はファンタジーで名前を付ける際には一貫性が必要だと信じている。だからアルカンジェリ、ケツァルトル、シャクナ・ヴィマーナと複数の言語圏から安易に引っ張ってくるのを良しとしないし、文法的に怪しいヴィータクアやフィニステラという語も納得できない)、ジブリの表層だけをなぞったような描写、主人公・明日菜が地上世界と地下世界の両方の血を引いているという重大な設定が劇中ではほとんど描写されないなど、自分が気に食わなかった点は多数あるが、最大の問題点は悪役の森崎(ムスカと揶揄される)のサブプロットのほうが面白く、新海誠が思い入れを持っているように感じてしまったところだ。
愛するものの喪失を受容せず(子の喪失ってキーワードも村上春樹フォロワーっぽい)、代理品や依り代を求め、神々なり悪魔なりと契約する姿は碇ゲンドウともかぶり、なんにせよ強烈なキャラで、明日菜を食ってしまっている。いっそ明日菜いらなくないか?
冥界をめぐり、禁断の知識の代償として盲目になるのは神話的でちょっと良かったけどね。
しかし、作者の意図や性癖が透けて見えるというのは一方的に親しみを感じる契機でもある。不完全にゆえに見透かせるものがあり、理解者になれたと錯覚できてしまい、結果的に作品を愛してしまうことがある(※これは新人賞を取った作品を読むときもそうなんだけど、「作者はこういうことをやりたいんだろうな。なら、ここをこうすればもっとよくなるだろうな」と考えつつ読むことが多い。創作をしていた人にありがちなことなのかな?)。
言いたいことはたくさんある。
けれども、最大の欠点は「何でもかんでも台詞で説明してしまうこと」だ。
最後のタカオとユキノが見つめあう場面で、高まった気持ちをぶちまけるのだけれど、音楽と映像がうるさいなので、台詞なんていらない。
新海監督は文章を書く能力はあるのは認めるけれども、「説明は小説でやれ」と感じる。「なんでも説明するのをやめてくれ、映画の受け手を見くびるな」とも感じた。
そして、鮮やかな色彩がわざとらしく感じられ、反発を覚え始めた。
ただ、この頃から日本の古典を扱いだしたのは嬉しい。ささやかな愛国心が満たされる。
僕は海外文学が好きなので、逆に外国の人に日本の詩を知ってほしい。
観ていない。
「言の葉の庭」の一件もあったが、ハッピーエンドになったということを聞いて、寝取られ性癖(というかBSS、「僕が先に好きだったのに」?)を抑える優秀なプロデューサーがついたんだな、とシニカルに考えていた。売れるようになった、大ヒットを飛ばすようになったとも耳にして、新海誠が自分からどんどん離れて行ったように感じた。そして、もう二度と新海アニメを見ることはないだろうと思った。友人や尊敬するSF作家が見ていると聞いても、耳を塞いでいた。
「君の名は」の予告の「スカート注意、男子の目線!」といったセリフにも、新海誠の性癖が透けてみるのだけれど、徐々に作者のあけすけな欲望に対して嫌悪を感じるようになっていた。
これは男子高出身の僕がそうだからかもしれないけれども、僕には、男性監督が女子高生をじろじろ見て偏愛していると気づくと、鬼の首を取ったかのように指摘してやりたくなる悪癖がある。岩井俊二の映画を観たときもそうだし、「ラストレター」を観たときは「俺を振った女は不幸になればいい」という怨念を感じた。庵野秀明が俳優やってたのはめっちゃ面白かったけどね。
ある女性が新海アニメが好きで、じゃあ一緒に見に行こうということになった。ただし、彼女が好きだったのは「君の名は」以降だった。
「お手並み拝見」と思いながら(なんだかんだで楽しみにしていた一方、不安でもあった)観てみると、極めてまっとうな少女の成長映画になっていて驚いた。
被災者のすずめが「死ぬのなんて怖くない」と言っていたのが、逆に震災の記憶と向き合い、心底死を恐怖し、逆に生きる実感を取り戻す構成が素晴らしかった。自分を助けに来た謎の女性が自分自身だったってのも良かった。周囲の支援が必要なのはもちろんだけれども、傷付いた自分を癒すためには、どこかで自分の力を信じて自分の足で立ち上がらないといけないのだ。
ロードムービーとしても優秀だし、周囲の人々が善意にあふれてすずめに手を差し伸べてくれたのも、叔母の環が思わず激高して負の感情をぶちまけるシーンのための溜めだと感じ、よく計算された素晴らしい脚本だと感じた。
今まで肯定的だった(あるいはマスコットでしかなかった)猫が、ダイジンという善悪の不明な存在になったのも面白い。
今まで別の災害という形で間接的に東日本大震災を扱ったと聞いていたが、正面から向き合ったのはとても立派だ。このタイミングでなければできなかっただろう。
恋愛要素を薄めたのも大正解。「シン・エヴァ」を観たときみたいに、「監督は大人になったんだな」と感じた。
それでも無念な個所はある。人口が希薄になった土地を神々に返すというモチーフと、地震を封じる要石というモチーフが、完全に噛み合っているわけではない(人口が減少している時代だから出てきた発想では? なぜそこから厄災が漏れ出る?)。少しぶれている。また、震災は人力で防げる、つまり東日本大震災は防げた、という誤った読解を誘発しかねない面もある。
あとは、震災の描写がリアルだし、緊急地震速報が頻繁に鳴るので、観ていてずきずきと頭が痛み、かなり気分が悪くなった(御茶ノ水近辺も学生時代生活圏内だったし)。昔は「アルマゲドン」みたいなパニック映画で大都市がぶっ飛ばされるのを見たり、「地球大進化」の大隕石で地殻津波が起きて日本列島が引き裂かれるのを見て気分爽快になっていたのだが、ある時点で感受性が「まっとう」になってしまったらしい。
ところで、この作品は村上春樹「かえるくん、東京を救う」のオマージュだとよく言われるけれども、「海辺のカフカ」のパロディも仕組まれている。東北まで中古車でドライブする芹澤青年が車内で流すのが「夢の中へ」だが、「海辺のカフカ」でも星野青年が何を探しているのかもわからない中田老人を連れて車で高松をドライブしながら、「探し物は何ですか~」と口ずさむのだ。誰か気づいてないかな。
そのくせ、村上春樹はオマージュにとどめ、影響下からは完全に脱しているように感じた。
疑問点。すずめの三本足の椅子、過去の自分に手渡されたことで、時間の輪っかをめぐっていないか?
どの作品かは伏せるが、主人公が僕の名前と同じで、ヒロインから名前を呼ばれるたびに恥ずかしいくらいに動揺してしまった。
当時流行っていたラブプラスをやっていたら、おそらく引き返せないことになっていただろう。
あと、「すずめの戸締まり」に関するウェブ記事で、新海監督が#MeTooのこともあるしパンチラを封じたと聞いて、機を見るに敏だなと感じ、何となく気に食わなかった。正しい判断だと思ったけど、商業性に屈したようにも感じたのだ。正確には、「雲のむこう~」みたいに政治的を雰囲気に使うのをやめたのが、なんとなくタイミングが上手すぎて、逃げ足の早さを感じるのだ。
でも、とっくに青春コンプレックスこじらせオタク向けのクリエイターから、国民的監督に変わってしまったのだ。寂しい。あんなこじらせた作品を書くのに既婚者なのも納得できない時期があった。
こういったことを、友人に対してつらつら語っていたら、「それはお前、もう立派なアンチだよ」と指摘された。「アンチじゃない、愛情と憎しみの両方を持っているだけだ。複雑な感情をも抱えているんだよ」と反論すると、「お前が複雑な感情を抱えていない対象なんてあるのか」と笑われた。ひどくない?
これだけ複雑な感情を抱えているので、「君の名は」「天気の子」を見るのがずっと延期になっている。諸般の事情でラブコメ苦手だし。
1 プラネテス
NHKでやっているから皆見ているだろうと思ったら意外と見てない。ナニソレってなる。とても辛い
2 ガンダム
ガンプラを作ってるかという話になったときにガンプラ作ってませんと答えると時が見える。
3 ぼっち・ざ・ろっく
尋常じゃない弄られが発生してしまった人を見たことがあるので辞めるべき
4 まどマギ
世間的にはプリキュアと同じ枠。ちょっとエッチなアニメだとも思われているらしい。
5 オッドタクシー
6 マクロス
ロボットアニメというよりアイドルアニメのイメージ。アイドルオタクであることを密かにアピールという判定に
7 ラブライブ
ガチでアイドルオタクならこれで安定。本当はアイマスやアイナナの方が好きとか一般人には関係ないからこれ言っとくべき。
8 ジブリ
「そういうのじゃなくて~~~」と帰ってくるだけ。オススメしない
9 コードギアス
10 アクエリオン・シンフォギア・エウレカセブンその他パチンコ化作品
本音を言ってない判定になる。本命のヤバイアニメはエッチなアニメだと思われている。
そんな古いの皆覚えてないので言わない方がいい。オタクしか覚えてない。
14 メイドインアビス
映画化してるからって別に世間は知らない。マジで知られてない。
ドラマの方しか世間は知らない。アニメの話ししてるのにドラマの話始めるアスペ扱い。
16 ディズニー
マジのディズニーオタクだと思われる。求められるレベルがマジで高くて危険。勝手に期待されてガッカリされる。
本命は言の葉の庭の脚フェチというレッテルを食らう。実際に食らってる人を見た。
18 化物語
ロリコンだと思われる。エッチなアニメだという情報だけが独り歩きしてる。
19 おそ松さん
BL好きだと思われる。腐女子からの人気が高いアニメというだけで大体そうなる
20 けいおん
比較的安定。女子高生が好きなロリコン扱いされるリスクがあるのでそこだけ気をつける。
21 Fate
エッチなゲームだという情報がだけが独り歩きしてる。ソシャゲ廃人扱いされることもある。
22 SAO
エッチなアニメだと思われている。ゲームオタクとして変に扱われるリスクもある。
覚えているのはオタクだけ。ニコニコ青春世代だけの場ならアリ。
24 攻殻機動隊
知名度が高いと思っているのはオタクだけ。映画も難しそうなので見ない人ばかり。映画を一作だけ見たという人が複数いると話が混線してカオスに。
大人になってドラえもんやしんちゃんの話を熱弁するのはヤバイ人。
正解が少なすぎる。
先週はじめてすずめの戸締りを見て、やはり新海誠の作風はファンタジー要素を入れない方がうまくいくんじゃないかと感じた。
秒速5センチメートルからファンで作品を追っているけど、新海誠作品の真骨頂は説明不足だけどそれを補完できる(または想像を膨らませることのできる)表現力だと思う。
それが最大限に出来ていたのが言の葉の庭だと思っていて、あの作品は雪野先生がどういう状況に立っていて、何故公園に来るようになったのかを描かず受け手に想像させることによって
主人公側から見た雪野先生の謎めいた美しさが際立って見えていると思う。
尚且つ終盤に主人公自ら雪野先生の過去を、表面的かつ客観的に人づての情報だけで自分の中で処理して行動している。
ここでポイントなのは映像作品だけを見ると、そもそも何故雪野先生がいじめのターゲットになったのかが
全くわからないということ。
このいじめに至る経緯は小説版を読めばわかるのだが、それをせずとも
主人公の行動原理を理解して感情移入が出来るのは国語のテストで言う
「この場面での~の考えを答えなさい」が分かりやすく、説明がなくとも大多数の人間が正解を導けられるということ。
君の名は。以降の作品は特にこの行動原理について説明なくとも分かるでしょ?が行き過ぎていて、置いてけぼりになる(若しくは疑問に思ったことが頭から離れずモヤモヤしながら見てしまう)
ということに繋がっていると感じる。
勿論映画は何も考えず直感的に楽しみ、その後に考察や小説を読んでみるなどで作品の輪郭を把握していく楽しみ方もあると思うので
新海誠の作風が童貞臭いとか、童貞力が持ち味みたいな意見を度々目にしてきたが、
実際に新海監督のプロフィールを見てみると、小学校時代はスピードスケートをやっており、
中学時代はバレーボール部で部長を務め、高校では弓道部に所属していたそうだ。
大学時代に童話サークルに入ったのが謎だが、その後は美人で高学歴な女優と結婚している。
こんなの童貞どころか、むしろリア充そのものの人生を歩んでいるように見えるのだが。
『君の名は』を新海らしくない一般受けの作品だという人がいるが、それはむしろ逆で、
新海監督は『君の名は』で、ようやく自分らしいキャラクターや世界を描くことができたのではないか。
『言の葉の庭』以前は、いかにも村上春樹や岩井俊二の影響を受けている感じの、
恋愛やセックスに普通にありつけるようなリア充が憂鬱ごっこ、孤独ごっこにふける軽薄な作品ばかりだった。
こういうのを書くのは蛇足なのであまりよろしくないかもしれないけれど、「なんでこれが入ってないんだ!」という異論が出てきそうなので、ベスト10選出にあたって考慮した作品とベスト10から除外した理由を挙げて供養しておく。
足の作画にこだわった実にフェチい映像化であり、映像化不可能と言われていた歯磨きプレイを完璧に原作再現してみせたのはただただスタンディングオベーションするしかない感じだったのだが、自分の中で『化物語』(2009年)のファーストインパクトを超えるものではなかったので除外。シャフト時空と「君の知らない物語」の衝撃は10年経った今でも色褪せていないんだ……
2012年に1期が放映され、2019年に完結編となる5期が放映された、まさにテン年代を駆け抜けたアニメシリーズの第1作。「急に歌うよ~♪」に代表される外連味あふれる演出はほんと好きだし悠木碧も水樹奈々も良い仕事してるなって思うしひびみくは尊いし「Synchrogazer」ほんと名曲で大好きなのだけれど、他の作品が良すぎてベスト10入りは厳しかったみたいな感じ。
アニメとしてのクオリティは確かに良いし、熱血シーンも多かったし(「改変完了…!」が好きすぎて何度も聞いてしまう)、穏乃が最高に可愛かったのでそこだけ切り取ればベスト10でもよかったのかもしれないけれど、原作改変してレジェンドを無能キャラにしてるのは許されざる感じ。原作だとレジェンドは色々裏で手を打ってたわけだけどアニメ版では控室で解説聞いて「知らなかった」みたいに驚いてるシーン付け足されちゃったところが何箇所かあって、まあアニメだけ見てるとレジェンドが無能に見えてしまうよな……なんもかんも原作改変が悪い。あと千里山の関西弁もうちょいどうにかならんかったんか……
え? 実写化? やだなあ『咲-Saki-』は実写化なんてしてないですよ何言ってるんですか冗談が下手だなあHAHAHAHAHA。
なんとも評価に困る作品である(氷菓だけに)。確かにアニメとしてのクオリティは高かったし、原作を尊重もしていたと思う。でもやっぱりあちらこちらで「ええ~……」という感じになる改変箇所があった。キャラデザの段階で原作ファンをざわざわさせていたのだが、それはまあ解釈の問題なので別にいいとして、「わたし、気になります」の謎エフェクトはいったい何なの? 『クドリャフカの順番』回で奉太郎が真相を解き明かす場に里志がいたのは個人的には微妙。その場にすら居合わせられなかった辺りが福部里志なんじゃない? ただまあその辺は宥恕できる範囲だとして、ファーストシーズンのEDは本当に許せない。なんなのあれ? 〈古典部〉シリーズにああいうEDとか人を馬鹿にしてるのかと思う。セカンドシーズンのEDはまあ良かったけど反省したのかね。OPは完成度高かったのになあ……。そして数年後に『氷菓』が実写化したときに「京アニのイメージが台無し」とか「またアニメの実写化かよ」とか言い出す連中(末代まで祟ってやる)が出てきたのでやっぱりアニメ化しなかった方がよかったんじゃない? と思ってしまった。いや、アニメ化きっかけによねぽ作品全部揃えたとかいう友達もいるから安易に否定するのはよくないのだが、高校の図書室の片隅で読んでいた僕たちの〈古典部〉シリーズを横取りされた感はなんか強い。この辺のモヤモヤがあって手放しには褒められないので除外(ところで実写どんな感じでした? よねぽ作品初の映画化なのにまだ見てないというのは忸怩たる思いがあるのだけど、ちょっと見るのが怖い)。
最後に。細かい話になっちゃうけど、時代背景は原作発行当時にしてほしかった。作中でみんながスマホ使ってるのにチャットとかサイトとかあのへんの描写がすごいスマホ以前の時代の匂いを漂わせていて、なんというか違和感があったんだよね。だったら時代を2001年とかそのへんにしてキャラには一昔前のガラケー持たせればよかったんじゃない? と思う。スマホ以前の時代に中高生活を送った者として、同時代に読んでいた小説の空気感はそのままに一部の小道具だけ現代になってるのはやっぱりなんか変な感じがするんだよな。時代考証がちぐはぐというか。この点、出来はともかくちゃんと舞台を1990年代のままにしていた『この世の果てで恋を歌う少女YU-NO』(2019年)は賢明な判断だった。
文明崩壊後世界を原作通りに丁寧に、しかも我々の予想を超える形でアニメ化してくれてチョベリグだったのだが、競争相手が多すぎてベスト10に入れなかった格好。いやーほんとね、原作で描写された未来の異形の生物たちをあそこまで丁寧にアニメ化してくださったのは素晴らしいですよ。そして浪川大輔さんの演技が最高だった。『新世界より』で一番輝いてた声優は誰って言われたら浪川さんを挙げる。ほんとすき。
ただアニメオリジナルの大歓喜帝の即位シーンはどうかと思った。「大歓喜帝となられる!」っていう台詞があったけどあれは諡号なんだから生前そう呼ばれることはありえないと思う。もちろんそれは伝統的な王号の話であって未来に適用できないのでは、という議論もありうるけれど、慈光帝にしても大歓喜帝にしても生前のおこないを皮肉る形でつけられてるんだからやっぱり諡号なんじゃないかなぁ。まぁこれは些細な点で、これ以外はケチのつけようもなかった。良アニメ化の見本みたいな感じ。
単体で見れば良い出来なのかもしれないけど割と大胆に原作の時系列を改変していて微妙な気分になるので除外。龍之介とリタの関係とかさぁ……。
アニメを使ったCMの最高峰だと個人的に思うので最後までベスト10に入れるかどうか迷った。
映像としてのクオリティ、百合作品としての密度、キャラのかわいさ、どれを取っても高品質で良い作品なのだが、原作と描写違いすぎませんかね……? という理由で除外。だって原作で完璧超人なキャラがアニメ版で脳筋おバカキャラになってるのはちょっと擁護不能じゃないです? ゆうかのかえでへの思いが全然違うものになっちゃうじゃん……
良い作品なんだけどちょくちょく原作の描写変えてるんだよね。最大の問題はなぜ標準語にしたのかという点。原作では方言で喋っててかわいいし漫画版もそれを再現してるのに! あと『2』であすか先輩の実家がなんで豪邸になってたのかがわからん。あんな豪邸じゃああすか先輩が育ててくれた母親に恩を感じる理由が微塵もなくない? どう考えてもアニメ版であすか先輩がこれまで生きてこられた理由は実家パワーであって暴力をふるう親に感謝しなければいけない理由が見えてこないよあれじゃ。あすか先輩もひとりの高校生であり、特別な人間なんかじゃない、という意味が原作のつつましやかなお宅には込められていたと思うんだけど、そこ変えちゃうかー、という残念さはあるよね。夏紀先輩が大天使だっただけにこれをベスト10に入れないのは割と断腸の思いではあるが(でも夏紀先輩の描写も原作と違う……ぐぬぬ)。
ガルパンはいいぞ。……とだけ言って終わらせるのはあまりにアレだけど、実際にそうとしか言いようのない感じはあり。とにかく戦車アクションのキレが良く、それを映画の尺で濃密にやってくれたもんで大満足の出来だった。ベスト10に入れるつもりでいたけど気づいたら11作品くらい挙がってたので泣く泣く削った感じ。
俺たちの新海が一気に一般人にも知られるアニメ監督にのし上がるなんて予想もできなかったが、流行るだけのことはある作品だった。新海誠が『天気の子』(2019年)とかぶるからバランスを気にして外した、以上の意味はなく、もちろんテン年代アニメ映画ベスト10に余裕で入る傑作である。これぞ新海誠という感じの映像美にこれぞ新海誠という感じのガバガバSF要素が加わりやっぱり新海誠じゃねーかとなる感じの恋愛模様を前面に出しつつも東宝とかいう拘束具を得た結果オタクだけでなく一般人からも支持される作品に仕上がったのは本当にアニメ史に残るサクセスストーリーではあるまいか。いやだって『言の葉の庭』の興収とは文字通り桁が違うというか……あのセカイ系がどうたらこうたらみたいな論を立てるめんどくさいオタクに大人気だった新海誠が国民的アニメ監督になる日が来るだなんて2010年の自分に言ったら失笑されるだろうと思う。
映像表現としては素晴らしいの一語に尽きるのだが、重要なところで謎の原作改変を複数していて微妙な気分になってしまうので除外。リンさん関係の省略で妊娠を疑うシーンが意味不明になってたのもそうだし(これはこないだ公開されたバージョンではちゃんとリンさんの出番あったらしいのでそっちに期待)、なんですずさんの慟哭シーンの台詞を改変したか未だに納得がいかない。そもそも原作では、「米軍の空襲という暴力には屈しない→自分たちも暴力で他人を従えていたのか→だから暴力に屈するのか」という一連の流れになっていたのに、映画では「米軍の空襲という暴力には屈しない→植民地の食べ物を食べて生きてきた→だから暴力に屈しなければならないのか」と改変されていて流れが途切れている感。もちろん真ん中の部分も自分たちが植民地支配という暴力を振るってきたんだと気づかせる意図ゆえの改変でだというのは理解するけれど(そしてそういう気づき方の方が一主婦であるすずさんの立場からは自然だという論にも一理ある)、やっぱり「暴力に屈するものかね」という台詞を踏まえると原作の台詞を維持すべきだったと思っちゃうんだよね。というか、原作そのままの台詞にも改変後の台詞にも一定の合理性がある以上、原作を変えるべきじゃないでしょう常識的に考えて……アニメ化は原作の婢ですよ……
すごーい! 君は下馬評の低さ、1話切りの嵐からソーシャルネットワークの勢いで覇権に上り詰めた2010年代を象徴するような流行り方のアニメなんだね! 最初はなんだこれって思ったけど、普通に面白くてびっくりしちゃった! 最終話を待ってた1週間はとーっても長かったんだ! ……ということでベスト10に入れても良かったのだが、多くの人を満足させて終わった放送終了後にとんでもない騒動が(コンテンツホルダー側の責任で)巻き起こったのを思うとベスト10に入れるのを躊躇われ、最終的に外してしまった。アニメ外の要因で評価するのは邪道だろうけれど許してほしい。
で、こういう話をするなら『けものフレンズ2』(2019年)についても語る必要があるだろうけれど、途中で切っちゃったんだよな。解釈違いというかちょっとそれはどうなのって思うところが多々あったので。ただその私がどうなのって思ったところも他の人の考察とかを読む限りでは最終的に「なるほどそういう問題意識に基づいていたのか~(私と立場は違うけどそういう立場に立脚するのは理解できる)」みたいな感じに落ち着いて終わったっぽいので、完走すりゃよかったかなとちょっと後悔している(某所の感想を読んで「つまり『けものフレンズ2』は『ソラリス』だった……?」というある種の納得を得た)。でも是非以前にクオリティの問題で見ててあんまり面白くなかったんだよ『けものフレンズ2』……
あと私もたつき監督の作風は好きだけど、吉崎観音がコンセプトデザイン(≒原作)であってたつきはあくまでアニメ版の監督に過ぎないっていう前提を忘れてまるで1期が原作であるかのように振る舞う2期批判派の人は生理的に無理。実際のところはどうだか知らないが、仮に吉崎観音とたつきが対立して前者が後者を追い出したというゴシップの内容がすべて正しかったのだとしても、原作者とアニメ版の監督が対立しているのなら普通は原作者の肩を持っておくのが良識だろうと思っていたのだが……?
単体で見ればとても良い出来なのだが希美とみぞれの関係性あるいは夏紀とみぞれの関係性に関し解釈違いというか原作と違う箇所があって微妙な気分になるので除外。原作の久美子が夏紀や優子に置き換わった結果関係性が変わっちゃってるんだよなぁ……。原作で希美が久美子に弱さをさらけ出すシーンを夏紀&優子相手に変えたら原作の夏紀先輩が見せた気遣いはどこに行ってしまったの? ってなるし、クライマックスの台詞にしても原作とはニュアンスが違ってきちゃうわけで……。そもそも希美先輩はなかよし川相手にあんな弱音を吐くキャラではなかろうし(あれは相手が久美子であったことに意味があるのであり)。あと夏紀先輩が謎にみぞれ先輩に優しいのはなんでだ。原作では割と冷ややかに見てたよね……? というか原作と明らかにクライマックス後のnzmzの距離感が違うじゃないですかァーーーーーッ!!!(いや短編集まで含めての話です。希美の誘いをきっぱり断ったみぞれ先輩はどこいっちゃったの?)公開直後に「のぞみぞ添い遂げて」とか言ってる人たちを見て、はぁお前らどこに目ン玉つけてんだいったい原作のどこに添い遂げる可能性を感じられるんだ、と思ってたけど、映画見てみたらそう言いたくなる気持ちもわかってしまった……ともかく関係性が原作と違う……
キャラデザも意見が分かれるところだろうと思う。個人的に傘木希美のキャラデザはTVアニメ版の方が好き。地に足が着いてる感じがする。リズ版は軽薄さが強調された感じに見えて傘木希美のモンペとしてはこう微妙な気分になってしまうのです(二次創作その他での傘木の扱いがあんまりにもあんまりすぎてモンペ化した。リズ青の傘木が! 無神経に! 見えるのは! 原作の気遣い描写を削ってたり! 余計な改変をしてたりするからです!)。逆に鎧塚みぞれはリズ版の方が良い味出してたと思う。みぞれの儚さを引き立たせるためのキャラデザなんだなと思えば納得(いや、原作とはそもそも髪型違うんだけどさ)。みぞれ先輩の視界むっちゃ狭いな! っていうあの演出は本当に傑出した映像表現であって素晴らしいなと思うところ。これで原作に忠実ならベスト10に入れてた。
今作、耳が孕みそうになるイケボのシェーンコップや立体機動装置を使ってそうなオーベルシュタインやヤンチャしてそうなキャゼルヌといった新しいキャラデザが輝いていたし、ショタハルトさまの破壊力すごすぎてキルヒアイスが人生狂わされたのも納得してしまったし、フレデリカが一部オタクの性癖を鋭角でえぐる見た目になっていてたいへん素敵だったのだが、MVPはなんといってもアンドリュー・フォーク准将だと思う。顔立ちは整っているが陰気、という原作の描写を完璧に再現してくださっている……! しかもCV神谷浩史の流れるような詭弁も聞けて本当に耳が幸せ。3,000万将兵の命を無謀な作戦に費やす勇気。俺たちの求めていたフォークはこれだよ感が素晴らしい。
ただキルヒアイスがことごとく解釈違いで……いや、流石にカストロプ動乱はあんまりにもあんまりというかキルヒアイスがああいう策を弄せるならオーベルシュタイン要らないじゃん感がすごくないです? 戦闘は得意だけど策とか謀略とかそういうのは不得手、というのがキルヒアイスの美点であり弱点でもあったと思うのだけれど。というかなんであんな鋭い目つきなの? もっと温和な感じじゃない? ただでさえラインハルトの目つきが鋭いんだから相方であるキルヒアイスはもっと穏やかな感じにしてくれた方がバランス取れない? 道原かつみ絵で産湯を使った人間なのでキルヒアイス描写は不満が多かったけど、キャラデザの部分に関しては単に解釈が違うという話で原作と違うという話ではないのでまあ許容範囲内ではある。でもやっぱりカストロプ動乱はおかしいと思うんですよ(しつこい)。
空戦シーンは文句なしに最高の出来なのだが、やっぱりキャラもそれで動かすのは微妙というか……いや本当に空戦シーンは素晴らしいんだよ……でもキャラの顔とかが……空戦シーンは2010年代で最高なんだが……
本当は普通にやってるブログで書きたいところなのだが、微妙に実名を調べられる名前でやってるうえに、嫁の安全のため「嫁の存在は絶対に実名の分かるオンラインには書かない」と約束しているので増田に書く。その分嫁成分も含めつつ。
これまでの10年ちょっと、新海誠と嫁と自分とはつかず離れずの位置にいた。べつに3Pしてたわけではないが、デートのあとに部屋に入って「笑顔」のDVDを見たりもした。嫁にアニメ成分はなかったし俺にもそれほどアニメ好きはなかったが、ゲームをやり込むよりもアニメを一緒に見るほうがいろいろを説明するには楽だったので嫁はアニメ好きに変わっていった。いつの間にか俺が見たこともやったこともない「ひぐらし」のアニメを全話走破したりしていた。なんだかんだで飛行機が止まって1泊多めに泊まらざるを得なくなったときに狸小路のアーケードをトボトボ歩いて見に行ったのが「雲の向こう、約束の場所」だった。夜の上映で女性は嫁一人、同類扱いされたくなかったがおそらく他の観客と自分はそれほど違うようには見えなかったと思う。パンフレットを事前に読んで設定を把握しないと意味のわからないストーリーに感想は「三ツ矢雄二が監修してたんだね」「主題歌の♥って川嶋あいに似てるよね」という微妙にストーリーとは関係ない話に終始した。その後地元でも上映した「秒速5センチメートル」には嫁は誘わず一人で見て、そのあとでDVDを買って自宅で一緒に見た。「星を追う子ども」はまともには観ず、大成建設のCMを見かけるたびに「新海パイセンらしいね」と話し、いつの間にか動画配信が始まっていた「言の葉の庭」を一緒に見て、その流れだったかは忘れたが「君の名は。」を先に見に行ってから「たぶん大丈夫だ」と改めて誘って劇場で鑑賞し「パイセン頑張ったね」とお互いに喜びつつ今に至る。
長くなったが今回の「天気の子」はいずれ見に行く予定だった映画だった。アニメをよく見るようになった嫁とは言え、二言目には「犯人誰?」と聞く性だからこちらも最低限調べて「セカイ系らしいよ」とは応えた。「おおまかに言って、『彼女を救えば世界が滅びるし、世界を救うためには彼女を見殺しにする必要があるジレンマの映画』」と答えたのが正しい反応だったかはわからないが鑑賞の2時間前だ。劇場は8割の入りで、スクリーンを正対して見られる席の中央を予約してしっかりと終わりまで鑑賞した。
終わったあと、適当に入った喫茶店での感想は、「いや、『君の名は。』と同じかどうかはわからないけどそれなりに名作だとは思うけれど、微妙だよね」だった。ここのところ「入れ替わってる!?」と同じくらいにハモったと思っていい。何かが微妙だったのだ。同じ場所で「微妙」だと思ったかどうかはわからない。ただ微妙だ、と思ったことだけは一緒だったのだ。
なんだかんだで瀧くんは似た風貌だったけど嫁は「瀧くん居たね」と声で特定していた。三葉かどうかはわからないがMIYAMIZUの文字は自分にも読めた。スタッフロールだけで確認した四葉は嫁もどこにいるか特定できなかった。犬の2度めがわからないのも一緒だった。未成年に酒を飲ませないのと何があってもシートベルトは締めるのは今どきらしいなとも思った。幻の魚はいまいち意味がわからなかったうえにそのうちいなくなっていた。
「それにしても言ってた『セカイ系』とあそこまで同じストーリーだったとはね」と嫁には言った。ものの流れで序破Qみていて「翼をください」のあのシーンも見ているから構図が全く一緒なのもわかるし、予告編では:||の新画像も出ているしそれは思ったことだ。水に沈んだとは言え、二人とも「ポニョ」に思いをはせなかったのは今考えてみれば不思議かもしれない。
まあでもさ、北海道滅ぼしたこともあるパイセンだからさ、東京くらい滅ぼすよな、と自分は思った。実際に滅んだのは「ガメラ2」での仙台のほうが、もしくは糸守町のほうが大きいのかも知れないけれども。
それにしても新宿の再現具合は驚いた。大ガード越しに東口方面のネオンをなめる画面、どれも架空の名称には見えなかったから。もしかしたら意識外で架空の名前に変えられていたものがあるかもしれないけれどね。あとK&Aプランニングが新宿から(区はいっしょだけど)微妙に離れて、主な地域が田端になるの、新海誠が引っ越したのが理由だったりしたら笑うね、たぶん違うとは思うけど。
そういえば全国を巡回していた新海誠展にも別件での用事を作って嫁とは見に行ってたんだった。高校卒業してから大学入る前に1年の空白ができるの、あの頃の大学進学希望の高校生にはありがちだったけどなんとなく親近感を持ったな。まとまらない話だけど、こんなところで。
おいすー見てきたぞい(^ω^)ネタバレあるよ
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なんだこれは(#,゚Д゚)
あえて言おう、コレジャナイと!!!きつく言うと期待外れだったと言っていい。
求めてたのはサマーウォーズとか千と千尋の神隠しとかそれこそ君の名はとかに感じた、さぁこれから夏が来るぜ~~~みんな!!('(゚∀゚∩ って清涼感と開放感な。それが今作からは全ーーく感じられない。もっと言おうか、求めてたのは大団円のハッピーエンドだったんだよ!!!それがなんであんなジメジメした終わり方になるんだよー、おぃおぃ。そう、忘れたいたんよ。こんな感じの監督だって。
途中までは良かったんだよ。晴れ女がいて晴れを神に願いすぎて人柱になっちゃう、それを青年が救いに行く、ああこれは神から彼女を取り戻すんやな、ここから抗うんやな頑張れやー!!と思いきや、無理やり連れ返してあとは知らんぷり、結果神の怒りは収まらず東京はアボーン。( ゚Д゚)ハァ? 神も嫌ならならゲート転送すんなや 。セキュリティホールはちゃんと塞げよ
いやわかるよ、ここで晴れ(大団円)を取るような大人は汚いってそう言いたいんでしょ、それよりも彼女(雨)を取るのが愛なんでしょ。
ウルセー!!(((((;`Д´)≡⊃)`Д)、;'.・
そんな屁理屈どうでもいいんだよ、みんなをハッピーにしろよ!!!大団円で終われよ。東京を壊滅させてんじゃねぇよ。
はーもう良いわ、一つ忠告な。これから見ようと思ってるやつはな、言の葉の庭をレンタルしてきてだ、これを映画館で見ても良いや思ったやつだけにしろ。最低限それに金を払ってもいいと思わないと、上映後、落差で気分がキツくなる。
おわり( ˘ω˘)
ネタバレあるので、まだ観ていない人は右上の×を押してください。
新海誠監督の最新作『天気の子』を観てきました。「ヤフー映画」の感想とかを見ていると、新海監督が公開前に言ってたように「賛否両論」の様子。……しかし、否定的評価をしている人たちの感想を見てみると、「賛否両論以前の問題」で、人物描写が薄っぺらさを指摘している意見の多いのが印象的だった。
だが、待って欲しい。「人物造形が甘い」とか「人物描写が薄っぺらい」という批判を新海誠にするのはいかがなものか。そもそも、新海作品にこれまで重厚な人物描写などあっただろうか? 薄っぺらくない人物なんて一人としていただろうか?
まず、大ヒット作『君の名は。』で考えてみよう。瀧君も三葉も奥寺先輩も、ラノベ並みの、いや、そういう言い方はラノベに失礼なくらい、ペラペラの薄さだったと思いますよ。三葉の悪口を言ってた同級生たちなんか、当社調べでは0.01mmの薄さで、わが日本が誇るコンドーム会社オカモトが対抗意識を覚えるくらいの薄さじゃないですか。
『秒速5センチメートル』も同じ。主人公(遠野君)は半年前に転校したメンヘラ気味の女の子に会うために、東京から栃木に電車で向かう。しかし、大雪のために途中で電車は大幅に遅延する。その時の主人公(遠野君)のモノローグを皆さん覚えていますか?
「たった一分がものすごく長く感じられ、時間ははっきりとした悪意を持って、僕の上をゆっくりと流れていった。」
ごめん。最初『秒速5メンチメートル』を見た時、私はここで腹痛くなるほど笑い転げて、逆に何度もここを再生しましたよ。もうね、ほんとリアル中学二年生でもこんなポエムを呟かないですよ。時間は君に悪意を持つほど暇じゃないと思うんだよね。たんに大雪のために電車が遅延してるだけやん……
未見の方いたら、すみません。この電車の遅延、単なる一つのエピソードじゃなくて、『秒速』のなかでは、物語の要となるようなエピソードなんです。
意味不明自己満SF『雲の向こう、約束の場所』、ジブリを真似た結果盛大にコケた『星を追うこども』。これらも、人物描写は書道半紙なみの薄さです。
『言の葉の庭』も、ストーリーや人物描写の甘さについては微笑せずにはいられません。ユキノ先生がいじめられてる理由とか、いじめてる生徒の描写とか、これ薄っぺらくないと思う人いるの……?
まあ、いるんだと思う。それはそれでいい。私が言いたかったのは、『天気の子』が「薄っぺらい」という理由で批判されるのは不合理だということである。初めっから薄っぺらいし、中二病だし、セカイ系だし、自意識過剰のウィスパーヴォイスがうざいし。そんなこと、分かり切ったことじゃない。それを今更批判したってどうしようもなくない?
というわけで、『天気の子』もただひたすらに薄っぺらいわけです。ストーリーや人物描写の説得力とかには期待したらダメ。リアル中学生でも、もう少し人間に対する洞察力をもった人は五万といる。そのレベルです。主人公はどうやら「神津島」から家出をして「東京」にフェリーでくるわけですが、家出の理由、とくになし。至って普通の家庭で、酷いイジメにあっていたとかでもない。なんとなく嫌だったから、くらいのノリ。いわゆる反抗期? なんとなく盗んだバイクで走りだしたい気分? サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』を持っていたけど、まさかサリンジャーに感化されて?(笑) いや、笑いごとじゃなくて、マジで新海はそのレベルでなんとなく家出をさせてOKだと思っている人なんですよ。
じゃあ、なんでそんな薄っぺら新海作品はこれまで評価されてきたのか? とくに『君の名は。』の歴史的ヒットはなんだったのか? 問題はそこにいたる。
第一に挙げなくてはならないのは、美しい背景描写だろう。カメラレンズを強く意識して、超広角レンズや逆光、望遠などが多用される。しかし、実際のカメラではあんなに綺麗に映ることはない。細かいファンタジックな「嘘」がそこかしこに散りばめられている。ありえそうだけどありえない風景。新海が描き続け、そして観客を魅了しているのは、そうした風景にあるんじゃないのか。もっとも、この美しい風景も、セカイ系の、センチメンタルな自意識過剰の、中二病ポエムではないのか、と反問されるだろうが、それについて私は次のように答えるしかない。「いかにも、その通り」
で、そこから「新海誠=童貞」のような公式がでてくるわけだ。「たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか」(石田衣良)という言葉が出て来る所以であろうが、これについては一言。たしかに新海誠は自意識過剰の中二病ポエマーであるかもしれないが、全ての童貞が自意識過剰の中二病ポエマーであるわけではないし、またその逆もしかりである。童貞に対して失礼である。石田衣良には猛省を促したい。
さて、『君の名は。』ヒットの理由について語るのは当然のことながら難しい。だが、これを見た人の多くが「東日本大震災」を想起したことは無視できるものではないだろう。『君の名は。』は、良くも悪くも「震災芸術」であり、『君の名は。』の賛否両論の根底にあるのも、「震災をなかったことにしてもいいのか」というこの作品についての疑問から生じているだろう。
『君の名は。』には、カタルシス(浄化作用)がある。瀧君と三葉の恋物語以上に、この映画で「主役」となっているのは「彗星」であり「隕石」である。突拍子もないことのように思われるかもしれないが、これは演出上も疑いを得ないことである。このことについては伊藤弘了という人が「恋する彗星──映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」という卓抜な評論を書いているので一読を勧めたい(http://ecrito.fever.jp/20170123213636)。
少しだけ説明する。「糸守湖」が出来たのは劇中でも語られるように、1200年前にここに隕石が墜落したことにするものだ。瀧君と三葉は三年の時間差を越えて出会いを果たすわけだが、その奥には1200年という長大な時間を経て、同じ彗星が墜落するわけで、あの惨劇を生み出した隕石は、それ自体、隕石の恋物語でもあったというわけだ。瀧君と三葉の悲恋は、その運命を受けいれて、むしろその「運命そのもの」に同化するような形で、自己を超越した恍惚体験へと昇華する。これが、『君の名は。』のインパクトである。伊藤は言う。
観客は人智をはるかに超えたティアマト彗星の壮大な恋物語のうちに自らの似姿を見出し、同時に自己自身を超越する感覚を疑似体験する。これが本作の記録的大ヒットを支えた一因である。
この伊藤の読みは、それ自身、私も正しいと思う。ちょうど隕石が地球を目がけて猛烈ないきおいで突進してくる際に流れるRADWIMPSの「スパークル」の歌詞をここで引用しておこう。
伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする
いわゆる「サビ」の部分がはじめて出て来るのは、隕石墜落のシーンなのである。彗星は隕石と化して「いまだかつてないスピードで君のもとへダイブを」するわけである。観客はかくして、瀧君でも三葉でもなく「隕石」に感情移入をすることになる。それによって、運命を超越した運命とでもいうべきものに同一化し、「自己自身を超越した感覚を疑似感覚」させるのが『君の名は。』である。ちなみに言っておくと、これは何も新しい話ではなく、ギリシア悲劇の古典的なパターンであり、「悲劇」の快楽そのものである。この点についてはニーチェの『悲劇の誕生』を参照して欲しい。
要点のみを記す。1200年前に糸守町に落ちた彗星は偶然の産物である。劇中で墜落する彗星の《片割れ》もまた偶然の産物である。その偶然をしかしながら運命的なものにするのが『君の名は。』のドラマである。隕石は、人間の視点からはどうしようもない《偶然的=運命的》なものであり、それが世界に災厄をもたらす。それは《悲劇》である。ニーチェが述べるように、悲劇とは一方では自身が運命に翻弄され自身の非力さを痛切に認識した上で、他方ではそうした小さな自己を超越し運命そのものに一体化する感覚のあるところに《悲劇》の快楽があるのだとすれば、『君の名は。』における悲劇とは、次のようなものである。(A)それは自己の意志の無力と運命の強調という形で行われるのではなく、(B)確かに一方では自己の意志の無力さを痛感させられるが、星の動きはたんに災厄をもたらす運命だけではなく、同時に強烈な人間的な意志でもあるのであって、運命から逃れていく偶然の力として描かれるのである。ここにおいて、まことに《運命=偶然》という奇跡的な場所での物語が描かれるのであって、その強烈さに私たちは感動をするのである。
震災を《運命=偶然=意志=恋》と化すことにより、現実の震災を美的に昇華してしまうのが『君の名は。』である。『君の名は。』は過去にタイムトラベルすることで「震災をなかったこと」にするだけではなく、上に書いたように、情動レベルで震災というトラウマを「昇華」させて、フロイト流にいうならば「喪の作業」を遂行することを促進するのである。「昇華」とは、「忘却」の別名である。
こうしたところが、『君の名は。』の慧眼な人々に批判される所以であるだろう。
だが、どうだろう。《忘れない》ことが一つの倫理であることは疑わないが、《忘れる》ことも一つの生き方として否定されるものではないのではないか。また、《忘れさせる》ことを描いたものが《覚えられる》ということ自体が、完全な忘却からは救うはずだと私は考えるが、いかがだろうか。
──ライトな語り口で始めたのに、全然そうではなくなった。そして、肝心の『天気の子』にまだまだ辿りつけていない。次回、『天気の子』の内容に踏み込んでいきます。
公開直前のインタビューで新海は「賛否が分かれるものを作った」と語った。
それを見て、「あ、いつもの新海に戻るのかな?」と思った。『君の名は。』で釣った客にポエムと自己完結の新海ワールドをぶつけて全面戦争を仕掛けるのか! と。しかしそんなこたー全然なかった。蓋を開けてみれば『天気の子』は単なる劣化『君の名は。』に過ぎなかった。がっかりだ。
ダメな点は色々あるがクリティカルだったのは物語の感情がまだらになってるところ。ようは暗いシーンのあとにやや明るいシーンが来るのだがまた暗いシーンになるためどういう感情でいればいいのかが凄くわかりにくかった。
『君の名は。』はややおセンチなモノローグから始まるが、すぐに入れ替わりのコメディシーンにつながり、テンポの良いそれは見ていてとても楽しい。
楽しい気分にひたっていてやや飽きを感じ始めた頃に瀧と先輩のデートが失敗し、「なぜか。もう二度と。俺と三葉との入れ替わりは起きなかった」という“謎”が提示される。
そして瀧は直に会おうと糸守を訪ねるが、そこで彗星の落下によって三葉がすでに死んでいることを知る(シリアス)、という感じだ。
『君の名は。』のストーリーはこれ以上追わないが、コメディ→謎→シリアス→目的の明確化(彗星が落ちる前に皆で避難する)→歓喜(かたわれ時の再会)→暗転→奮闘→大団円、と今どういう感情でいればいいのかということを物語が迷わせないつくりになっているし、『君の名は。』はそういった完成度を持った作品だった。
RADWIMPSの楽曲も、シーンの移り変わりや強調に使われて非常に効果的だった。
翻って今作である。
冒頭、ヒロインが天気の子になった経緯を説明されたかと思うと、家出してきた主人公が新宿歌舞伎町で世間の冷たさを味わうシーンに続いていく。いきなり説明→暗いシーンをカマされ気分は上がらない。
その後やや明るいシーンになるが、主人公やヒロインの生活環境がアレなので底部に流れるテンションは暗く、そしてそれがやがて表面化(その最たるはヒロインの消失)する。
その表面化も事前に予測がつくように設計されてるため、明るいシーンを見ていても「どうせ後で……」と落ち着かない。つまりずっと消耗させられっぱなしなのだ。これはキツい。
もうひとつキツいのは主人公が幼稚すぎて感情移入しづらいという点だ。
子どもが主人公がなんだからそらそうだろ、という話はあるのだが、“学校”がフィールドだった前作とは違って家出してきた少年のフィールドは“社会”になるためアテもなく家出してきたことやそれが故に困窮しても「帰りたくない」と言い張る姿はやはり幼く映る。
特にコイツやべーとなったのはヒロインが消えた理由を理解しない周りの大人にキレ散らかすところだ。普通こういう情報格差によって周囲が無理解な時、視聴者としては主人公側の心情に立つものだが今回は中々そうなれない。何故か。それは視聴者と主人公の側にも情報格差があったからである。
俺は基本的に主人公と視聴者の情報格差はない方がいいと考えている。視聴者が得ている情報によってこうすべきと思う行動を主人公が取らないと苛立つからだ。もし主人公と視聴者の情報格差を作るならフォローは必須だと思ってる。『天気の子』はそのいずれでもない。
ヒロインが消えると視聴者は早い段階で予測できる。そういう設計になっている。しかし主人公はそれを察しないし、決定的な情報が提示されたときも反応が鈍い。それなのに自分は周囲にキレ散らかすのだけは忘れない。ただのやべーやつである。
主人公がそんなだからヒロインと再会し、気持ちを確かめ合うように互いの名前を呼ぶシーンも冷めた目で見てしまった。『君の名は。』のかたわれ時やラストシーンのよっしゃ感とは雲泥である。
そろそろまとめに入ろう。最初に『天気の子』は劣化『君の名は。』と言ったが、『君の名は。』とは何でどう劣化しているというのか。
『君の名は。』とはひょんな出会いを果たした少年少女が超常現象によって引き裂かれ、残された側は相手ともう一度出会うために必死にもがいてそれを果たす“エンタメ作品”である(『言の葉の庭』と『秒速5センチメートル』以前は“エンタメ作品”ではない)。よく見かける構造といえばそれまでだがいずれにしても『天気の子』はその形を踏襲している。しかし肉付きが圧倒的に劣る。
これまで挙げてきた要素はその筆頭格だし、その他にもふたりが再会するシーンのアイデアや演出にも歴然とした差がある(「かたわれ時だ」は非常に美しい)。「忘れないように名前書いとこうぜ」からの「好きだ」のようなぐっとくる演出(コメディ部分で手に名前や苦情を書いて伝えていた、という点とつながるのが良い)もないし、ラストシーンの拙劣さは『君の名は。』に比べると目を覆わんばかりだ。「天気って不思議だ。ただの空模様にここまで心を動かされてしまう」という主張も正直「だから?」という感じで刺さらなかったというのもある(けっきょく大事なのは天気ではなく大事な誰か、という結論だし)。
『君の名は。』がヒットしたから次もそれで、というのは理解できるし、これ以外でどうやれというのかとすら思う。ただ肉付きでここまで劣ってしまうなら違う構造の話にチャンレジして死んだほうがまだマシだったのではないか。
というわけで『天気の子』はがっかりするほどの駄作だった。クソミソにけなしておいてなんだけど俺は新海誠のファンなので悲しい。
『ほしのこえ』で新海を知り、『秒速5センチメートル』で「これは新海の集大成だ!」と吹き上がった過去を持つ俺でも『君の名は。』のPVを見たとき「あ、これは売れる」と素直に思った。実際その通りになったし(もちろんあそこまでの大ヒットになるなんて思いもしなかったが)、そんなクソウザい古参でも『君の名は。』が新海作品の中で一番面白いと胸を張って言える。
新海誠はいつまでも過去やどうにもならない何かに拘泥する男を描くだけのクリエイターじゃなくなっていた。それはとても喜ばしいことであり、同時に階段をいくつも上ったんだと確信した。『天気の子』のPVを見て嫌な予感はしたが、押し殺して封切り初日に映画館へ向かった。嫌な予感を信じるべきだった。だって『君の名は。』はPVからして面白そうだったんだから。
前作の半分、悪ければ1/3ぐらいの興収だろう。口コミも広がらず、けっこうなコケ方をすると思う。
新海誠は新海的なものとの決着を『秒速5センチメートル』でつけ新境地を切り開こうとした。しかしそうして出来上がったのはジブリの劣化コピーだった。『言の葉の庭』という中編で再起を果たし、『クロスロード』という小品で手応えを得た新海は金字塔を打ち立てた。しかし次に作ったのは前作の劣化コピーだった。
新海はこの先、どこに向かうんだろう。今作が劣化コピーだったという認識なくして前には進めないと思うが本人も周囲もそれをひた隠して次なる場所を目指すんだろうか。
なんか最近富士葵さんの曲をyoutubeで流しっぱなしにしていると仕事が超はかどることがわかってずっと聞いている。
声が透き通っていて、夏色とか言の葉の庭のRainとか(最近雨ばっかりだからね)すごく曲の選択がいいなぁと思っていたら、
つい最近追加された鳥の詩(Air)=>you(ひぐらしのなく頃に)のコンボで、気づいてしまった。
リスナーも同世代のおっさんなのだ。。。そりゃそうだ。覚えのある曲ばかり流れてくるわけだ。アニソンもそれ以外も。
自分はジャスト三十路なのだが、カラオケで先輩がイエモンの曲を歌ったときの乗っかれない感じがない。
リアタイで知っているかそのあとで追う形で刷り込まれたかで違ってくるわけで、その違いは思ったより厳密なのだ。
それを外さない彼女が自分たちとは同世代ではないだろう...ということは。
あーーと何となく落ち込んで、これだけは親父に刷り込まれた中島みゆきさんの「ファイト」に戻ってる。
葵さんのyoutubeだと途中から=彼女には合わないだろうけど、あの曲をフルで歌った時の歌詞の最初の不条理感と暗い笑いが大好きです。