Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

「放射線治療」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 放射線治療とは

2024-12-16

anond:20241216140847

放射線治療がどうのこうのとか細胞にはわからいから戦い続けるしかないんじゃね

anond:20241216140232

いやいやいや拡大解釈しすぎだわ

そしてそれをやるならもっと成長した白血球が闇堕ちするような演出にすべきだし

放射線治療が始まった段階で「目的を達成したから闘わない」みたいな演出がいるわ

あれはただただラスボス作って闘わせたかっただけのノリだし

放射線治療でどうせこいつも死ぬんだから闘う必要なくね?ていうか赤血球は死ななくね?」

っていう疑問を放置してバトルしてるからついて行けんかったわ

2024-11-29

anond:20241128232159

癌治療に関してはそれが無難なのは否定できない

通えて待てるならそうしろ

PET/CTあるし放射線治療機械もしっかりしてるし

今の癌治療なんて1年単位で変化してるし

ASCOとかESMOで発表してるのもその辺りの病院から最先端なのは間違いない

anond:20241128222205

元の文章の方にも追記しましたが、病院検査して癌が確定しても、緩和的な治療のみ受ける事も可能ですし、治療を受けないことも可能です。

 

ただ、様々な選択肢がありますので、病院でよく相談してください。

副作用が非常に少ない治療なら受けたい方もいらっしゃれば、猫の世話があるので外来で済む範囲での治療だけ受ける方とか、抗がん剤以外の治療は受けるとか、治る可能性のある治療は一切嫌とか、様々な方がいらっしゃいます

薬もホルモン治療なら受けるとか、抗がん剤副作用の弱いのだけ受けるとか、様々なオプションがあります

 

ただ最初治療や通院を一切拒否して、病気がかなり進行してから、考えが変わったのでしっかりと治療して欲しいと言われる方が想像より多いです。

進行してから方針を変更しても、完治が望めないので、しっかりと最初相談しておいてください。

 

治療すれば8割以上の可能性で完治するような方が治療を断られたりすると、選択の自由とはいえ、とてももったいないなあと残念に思います

ういうい経験も何回もあります

 

----

 

追記ですが、病院によっては積極的癌治療をする方のみ受け入れている病院も多々あります

癌治療専門の病院癌治療をする方でいっぱいですので、痛み止めだけ貰おうとした場合別の病院受診をお願いされる事も多いです。

専門病院は専門病院しか治療できない方が優先されます一般病院対応可能な事は一般病院おすすめされます

 

ちなみに症状緩和の方法として、痛み止め使うより放射線治療をした方がよっぽど痛みが改善する場合も多々あります

また強い痛み止めは色々と副作用もありますし、癌が進行すると痛み止めでは対処できない様々な困った症状も出現します。

積極的治療を受けない事と受診をしない事は別ですので、癌になった場合は、積極的治療を望まない場合でも困った時に相談したり入院できる病院は確保しておいた方が良いです。

anond:20241129004724

近藤誠理論はそれだけではないかと思います

がんもどき理論、がん放置療法、抗がん剤は効かないなどがメインだったように思います

 

といっても話を広げても仕方ないので、がん治療におけるQOLの低下に話を絞りましょう。

そもそも自体が正常な臓器を壊してしまう事が多々あります。この場合治療して癌が治っても壊れてしまった臓器は元には戻りません。

また治療内容によっては抗癌剤を使うことで完治の可能性が上がりますが、抗癌剤による後遺症一定の頻度で起こる事もあります

また手術で切った場合もそれに伴う障害可能性もありますし、放射線治療も晩期障害リスク一定の頻度で起こります

 

どのような後遺症が残るかについては、癌の種類、状態治療方針によってあまりにも異なります

 

ただ近藤先生大学病院診療されていた時代と違い、現在インフォームドコンセント形式だけでなく内容も充実しています

必要治療内容とそこから想定される後遺症合併症について、癌診療では必ず説明文章提示説明がありますので、ご自身価値観でその時々で判断されるのが良いと思います

別にすべての治療を受けないといけないわけではありませんので、許容できる範囲内で治療を受けられると良いと思います

 

副作用後遺症可能性を0の治療以外は受けないとなると、癌診療以外の通常の医療自体も受けられません。

どの程度まで許容されるかはご自身で決めていただくので良いと思います

2024-11-28

あなたが癌になった時に最初に知ってほしい事

癌治療を専門にしている医師ですが、夜寝付けなかったので、

癌になった時にまず最初に知っておいて欲しい事をかいてみました。

結論

いかに早く治療を開始できるかで癌の治りやすさが変わります

そして、あなた患者)の頑張りで、治療開始日は大きく変化します。

 

今回は、知っておいて欲しい癌の知識について書いた後、癌の疑いがあると言われた時の治療開始RTAのコツについて書きます

RTA:リアルタイムアタックいかに早くゲームクリアできるかの挑戦の事) 

 

---

 

知っておいて欲しい癌の知識

 

癌は、ひたすら増え続けるおかし細胞

人間の体は細胞で出来ていて、正常な細胞は決まった日数で細胞分裂して増えますし、決まった日数で死にます。例えば皮膚の細胞は1か月くらいで新しくなって、古い細胞は死んで垢になります。このバランスが保たれているのが通常です。

 

ただ、変な細胞一定割合で発生します。決まった日数で死なずに、ひたすら細胞分裂して増え続ける細胞が発生する事があり、これが癌です。

人間の体は変な細胞を殺す仕組みもありますが、殺せない場合は増え続けて、困った事になります

 

例えば、肺の細胞が1つ変になってどんどん増えると肺癌になります

  

時間が経つと癌が大きくなって症状が出ます

例えば、腸に癌が出来て大きくなると、食べ物の通過を邪魔します。

肺に癌ができて大きくなると、息が苦しくなってきます

痛みについては、人間の体は痛みを感じない場所が多いので、ある程度大きくなって初めて痛くなる事が多いです。

 

癌が遠くまで移動する方法リンパ節転移と遠隔転移

体には水の流れがあって、これに癌細胞が乗れると遠くまで移動できます

体にはリンパの流れと血の流れがあります

 

リンパの流れは、途中にリンパ節という関所がいくつもあってそこで癌細胞は堰止められます。これがリンパ節転移と呼ばれます最初は癌の近くで止められますが、徐々に遠くのリンパ節まで到達します。

 

血の流れに乗った場合は、遠くまで簡単に行きます。肺は血管が細いのでここで止まる事が多いです。そこで大きくなると肺転移と呼ばれます。その他、脳や骨や様々な場所へ行きます

 

治療開始の前に、検査(癌のパラメータの把握)が大事

まずは治療する癌がどのような特性を持っているか情報収集大事です。

癌の一部を取って癌の種類を調べるのが最も的確な方法です。そのため、多くの癌で細い針を刺して癌の一部を取る検査生検)が行われます

これが出来れば、どんな治療・薬が効くか、どれくらい強いか(大きくなる速さ、再発しやすいか)などの癌のパラメータ特性)が分かります

 

同時に、どれくらい癌のレベルが進んでいるか(広がっているか)を調べますCT検査MRI検査内視鏡PET検査血液検査などをします。癌の種類や進行度によって、どれが必要かは変わります。なので検査の種類が少ないからと言って不安になる必要はありません。

 

癌のステージ。1~4まであって、4が悪いです。

1期:小さくてその場所だけ。9割以上治ります

2期、3期:大きくなってきたり、近くのリンパ節に広がった状態

4期:遠くまで病気が飛んで行ってしまった状態。治るのは2割以下。

 

治療方法

小さい

手術・放射線治療で取り除く/殺します。薬を併用する事もあります

 

大きい

様々な方法でなんとか完治させることを考えます。まず薬で小さくしてから手術で取り除く戦略比較的多いです。薬と放射線治療を同時にして殺す方法もあります。また、手術や放射線治療の後にしばらく薬を使う事もあります(補助化学療法)。これは治療後でも目に見えない敵が周りに残っている可能性があるため、それを殺す目的です。

 

遠くまで飛んで行った

薬で治療をしながら戦略を考えていく事が多いですが、治らない事も多いです。ただし、この状態でも、多くの癌で5年後でも2割程度の方が生き残りますので、あきらめる必要はありません。

 

癌は時間が経つと大きくなって、完治しにくくなる。

時間が経つと癌は大きくなります。そして治療がやっかいになり、治りにくくなります。ですので癌の疑いがあると分かってから治療開始までの日数をいかに短くするのが大事になります

 

治療開始とは、手術、放射線治療、薬の治療のどれかを最初にした日の事です。

また薬の治療とは、抗癌剤、抗癌作用のあるホルモン剤分子標的薬、保険適応のある免疫療法など、癌を抑えたり、癌を殺したりする薬を指します。

痛み止めなどの症状を和らげる薬ではありません。

 

------

 

癌疑いと言われてから治療開始までの最短日数を目指すRTAの話

 

 

早く治療した方が治りやすい。

癌かもしれないと言われたその日から、最短で治療を受けるRTAリアルタイムアタック)が始まります

 

ただし的確で良い治療を受ける事も大事ですので、単純な日数短縮だけではないのがこのRTAの難しい所です。

そして、このRTAには患者家族の行動がかなり影響します。患者家族ができる短縮方法について書きます

 

患者家族にできる事1:ある程度勉強する

癌の疑いがあると言われたら、その癌の種類を聞いてある程度勉強しましょう。これで様々な判断が的確にできるようになります

様々な情報をあさる必要はありません。サイト1つ、本を1冊。これだけで十分なのでしっかり読んでください。

 

サイトは、がん情報サービス https://ganjoho.jp

ここの情報は非常によくまとまっています。癌の事だけでなく、その後の生活仕事への影響や細工などについても知る事ができます

 

本は「患者さんのための〇〇癌のガイドライン」という本を買って読みましょう。

(癌の種類によってちょっとタイトルは異なりますが、日本〇〇癌学会が出しています。一部の癌は〇〇研究会出版しています。)

 

治療はどんどん進化しているので古い本は役に立たないです。患者さん向けのガイドラインも最新版を買いましょう。

 

患者家族にできる事2:病院の予定は最速で入れる

仕事家族など様々な事で忙しいと思いますが、治療までの日数で治りやすさが変わる癌が多いですので、様々な予約は最速を希望しましょう。

家族患者が「(仕事などは全て何とかするので)最短日程を希望します。」と言えば、医療スタッフもより早い日程に出来ないか頑張ってくれる事が多いです。

みなさんは各自大事な予定があると思いますが、この期間だけは病院の予定を最優先にしてください。

 

患者家族にできる事3:治療するのに良い病院を早々に決めて紹介してもらう。

基本的治療はがん拠点病院(がん診療連携拠点病院)やそれに準じた病院安心です。

そこには、癌治療専門の医師が何人もいます。それ以外にも、専門の看護師、専門の薬剤師仕事しながら癌治療する方法相談できたり、様々な手当(傷病手当障害認定)などを相談できるスタッフもいたりと、様々な点で優れています

がん情報サービスサイトを使って、通うのに都合のいいがん拠点病院検索したり、がん拠点病院自分の癌の種類の専門家いるかどうかの確認などをしましょう。

 

治療する病院候補が決まったら、現在検査している病院担当医師相談し、紹介してもらいましょう。

癌の種類や住んでいる地域によっては、がん拠点病院でない病院の方が良い事もあります医師相談すると、患者希望とは違う提案がされる事もあると思います。まっとうな理由がある事も多いので、じっくり聞いて納得のできる決断しましょう。

 

患者家族にできる事4:キーパーソンを決めて、診察には同席する。

家族内で意見対立が起こると治療が遅れます

例えば患者の息子が、もう一度説明を聞いて治療方法を再検討したいとなると、再度診察の予約が必要になり、その後の日程は全て予約取り直しになって、治療開始が遅くなります。最速RTA失敗です。

 

家族内でメインの決断者(キーパーソン)を決めて、その人の決断にみんなが基本従いましょう。もしも決断に対して意見を言いたい家族や、口出ししたい家族がいる場合は、診察に必ず同席してもらいましょう。

 

患者家族にできる事5:目標の共有

家族内で、最初目標は最適な治療を最速で始める事である事を家族に伝えて合意を得ましょう。

 

結論

癌疑いと言われたら、最速で最適な治療を開始しましょう。

それが最初患者ができる完治する可能性を上げられる最も大事な事です。

今回書いた事を準備すれば自然と最速で行動できると思います

 

  • ―-ー----

 

多くの方に読んでいただいたようでありがとうございます

ブックマークコメントなどへのお返事です。

キーパーソンの話への反響の多さ

ありがとうございますキーパーソン重要性は絶対に伝えたい事だったので、反響が多くてうれしいです。

 

金がない。

病院のMSW(メディカルソーシャルワーカー)にまず相談してみてください。生活保護の申請を含めて色々相談にできるかと思います無料低額診療をしてる病院もありますので、住んでいる地域検索してみてください。

 

ちなみに一番良い治療でも保険診療でほぼすべてまかなえますので高額療養費に収まります。または高額療養費は治療4ヶ月目から半額になります

評価の定まっていない最新の治療を受ける時は臨床試験になりますが、その多くは研究費用予算確保されていますので、追加の患者自己負担原則生じません。

 

癌になったら緩和的な治療だけしたいけど可能

コメントの返信に詳細に書きましたが、緩和的な治療のみ受けることも可能です。

病院に行ったからと言って無理やり治療を受けさせられる事はありません。

ただし、早くに相談した方が様々な提案可能ですので、緩和的な治療だけ希望場合も早めに受診してください。

  

抗癌剤で助かるかどうかは運?

昔はそうでした。最近は癌のタイプ検査がかなり詳細になって来たので、個人ごとにどの薬が効果がありそうか事前にかなりわかるようになってきていますよ。

 

生命保険

癌かもしれないと分かってから生命保険がん保険に入る姑息な人も稀にいますしかしながら契約から90日間は保険金出ないので治療は遅れます

また怪しい契約は後ほど保険会社が調査をして保険給付却下されますので、さっさと治療しましょう。

回答内容がずれてそうだけど、知っておいて損はない話かな。

 

検診について

ごめんなさい。検診は専門外なのでふわっとした回答になります

広く行われている健康保険の定期検診は受診しましょう。

追加課金したいなら、日本人に多い肺癌・胃・大腸乳癌前立腺癌子宮頸癌などの検診頻度を上げても良いかもしれません。

家系によって、なりやす病気の傾向はあると感じています。癌に限らず自分自身の親・兄弟親族で多い病気については気をつけておくと良いと思います

 

より厳密で正しい専門用語をなぜ使ってないの?

目的相手によって表現は変わります。今回は、みなさんに理解してもらう事が最優先なので、より読みやすく分かりやす表現を使っています

例えば、がん→癌やIV期→4期などは、一旦書いた後に変更しています

2024-11-05

大人になる決意表明

※好き勝手につらつらと書いています

 

最近、父から連絡がきた。ラインへの着信が複数回携帯電話への着信が複数回

意図的にその連絡を無視していると翌日の朝にも同じような着信が、それも無視していると夕方にまた着信が。

これは鳴りやまないし連絡を返さないと後から面倒になるパターンのやつか…と渋々電話すると酒に酔ったやけに上機嫌な父の声が聞こえる。

元気にしているのか、仕事は順調か、今俺はこういうことをして過ごしているなど他愛のない会話をする、そんなんじゃ人生やっていけないぞバカ説教もされる。

暫くすると死にたいのに死ねない、どうしようもない、どうすればいい、と泣きながら話し出す。

私はそれに対してそう言われてもなあ…お父さんが元気な方がうれしいけど、と伝える。

 

覚えている限り、私が小学生くらいのときから父はこんな感じの人だった。

私が幼稚園生のときも父は定期的に酒に酔って癇癪を起していた記憶があるが、死にたいとかどうとかの話をしていたかまでは覚えていない。

私はその年の時分なんでか酔った父に襖を投げられ顔面クリーンヒットし、鼻血がとめどなく溢れて鼻の穴だけでは排出量が追いつかず口からも血が出てきたことにより、

人体では鼻と口が繋がっているという当時としては衝撃の事実を知ったので父がとりあえず酒気帯び暴力マンであったことだけはよく覚えている。

 

父は定期的に酒に酔い暴言暴力を奮い、死にたい死にたいと泣く人だった(酒さえ飲まなかったら昭和の頑固おやじとか関白亭主とかで表現できるような人ではある)。

そんな父と暮らす生活文字通りたまったものではなかった。

 

とはいえ父としてもこの状態を良いものとは全く考えておらず、父なりに改善のための努力をしていた。

断酒会に通って似たような境遇の人とコミュニケーションをとったり、

暴力を多少配慮のある暴力としていったり(投げる物が茶碗とか灰皿から箸に変わったり、暴力体勢に入ると羽交い絞めにして止めても止まってくれなかったが、それが多少話を聞いてくれるようになったりなど…)、

お酒を飲んでしまったら、暴力的になるより先に自分を潰すために酒をあおるように飲むようになったり、

まりうまくいっていないようだったがそもそもとしてお酒を飲まないように回数を減らそうとしたり。

傍目で見てまあ昔よりは多少マシになったのかなあと疑問に問いかけられるレベルには努力をしていた。

とはいえこんな家にいつまでも居ては人生潰されると思い大学から地元を出て、社会人になった今でも都会の方で私は暮らしている。

 

私が家を出た後、父は定年も数年後に控えた歳で仕事自主退職し、収入不安定になった。

そのときは今までの多少の努力を水泡に帰すような荒れっぷりになったが、祖父母遺産が懐に入ったことで家計が安定し、老後の不安が解消したのか次第とアルコールへの依存がかなり減っていった。

憑き物が落ちたかのように父の生活はより穏やかなものとなっていった。

母はこんな家庭をずっと精神的に支えてきてくれていたのだが(鬱っぽくなったときも多々あったが)、ようやくこのタイミングで父との夫婦らしい生活を取り戻すことができた。

定期的にくる母からラインでは今日はお父さんと一緒に散歩をしたなど、ほのぼのとした一日の出来事が綴られてあり、その連絡に安堵をして意気揚々と返信をしていた。

しかし、数年前に母が癌で他界した。

父と母の穏やかな生活が始まってちょっととき出来事だった。

それ以後父はまた定期的に酒を飲むようになり、冒頭の連絡をよこすようになった。

 

母が他界してから私は父に多少の恨みをもつようになった。というのも、私は父に父親に対してするような相談を全くできていないのである

父親に対して相談したい悩みならたくさんあったにもかかわらず。

父が私に対してそれなりの愛情と、うまく対応できるかどうかは別として何かあったときに尻ぬぐいしてやるくらいの器量を持ち合わせているのは知っている。

でも私がまず一番父に求めているのはどっしり構えた親の姿であって、ありがたいもの愛情や脆い器量がほしいのではなかったのだ。

からの連絡がくる度にそれがないことが毎回分かってしまって、泣いてしまう日が増えた。

 

今朝がた母の夢を見た。癌で治療中の母のもとに私がお見舞いに行っているのを第三者視点でみる夢だった。

○○ちゃん(私のこと)がね、今日どこに行ってたのか看護師さんとお話してたんだよ、

お母さんね○○ちゃんが何をしてたのか知ってるんだよ、

幼稚園生のようにたどたどしく話す母に対し、

ベッドの小脇にある丸椅子に座りながらどこか嬉しそうにそっか~そうだったんだね、すごいね、とひたすら相槌をうつ私の姿が病院の一室にあった。

音程歌詞も良くわからないような歌なんかも一緒に歌ったりもしてた。

とても緩やかに時間が流れているような夢だった。

 

実際は病院でこんなに緩やかな時間を過ごしたことはあまりなかったように感じる。

詳しくは伏せるが、母は放射線治療のために入院した後、一週間過ぎたくらいでコミュニケーションがほぼとれなくなり、その三週間後には他界した。

 

母が他界してから母の夢を見たのはこれで二回目だった。

一回目見た夢の中の母はもっと私の知っている母親しかった。

私は母の闘病中に籍を入れたのだが結婚式をしなかったことに対して本当はしているところを見たかったのよと言われたのを覚えている。

 

なんで今回はこんな夢を見たのだろうと思案してみたのだが、私は母が私に大人になりなさいと伝えているのだと解釈した。

夢なんてスピリチュアル領域を出ないものだし、確実にどうというものでもないのだが、逆に言えばどうとらえるもその人の好き勝手にすれば良いのだ。

 

はいつまでも親でいてくれるわけではない。

無いものを数えては何で私にはこれが無いんだろうと嘆いてもしょうがない。

自分がどんな状態でもその人のほしい言葉をかけてあげること。

幼児退行した母と親のようにふるまう娘の私との会話で、暗にそんなことを示し、教えてくれたのではないかと感じた。

 

そんな都合のいい解釈をした今、少し肩の荷が下りている。

冷たく聞こえるようだが、父に私の望む親としての役を担ってもらうことに期待をしないと決めた方が心持が幾分か楽になったのだ。

そして今度は私が、そんな大人である親側の役を担う番であると決意ができた。

 

色々父に対して恨みつらみを綴ったが、父も父で大変な環境で生きてきたのではと思う。

 

父のいとこのおじさんが、父は他のいとこがちょっとしたこと大人から褒められると、よく癇癪をおこしてその子喧嘩するような人だったと言っていた。

父方の祖母他人のことを小馬鹿にするきらいがある人だった、私の初任給の額が自分年金よりも低いと知ると嬉しそうにしている人だった。

父方の祖父仕事が忙しく、夜中まで帰ってこない日も多々あったらしかった。あまりから祖父の話を聞いたことがない。

父の職場では(そもそも昭和時代だとどこも似たようなものかもしれないが)年功序列が厳しく、飲み会もかなり激しいものだったと聞いた。

父は若い頃酒は一滴も飲めないほど弱かったにもかかわらず、無理してお酒を飲んで帰ってきてゲーゲー吐いていたと母から聞いた。

 

実際のところはどうかわからないが、もう少し色んなところで色んな大人相手のことを思いやって態度で示せれば、

私の父も何かに依存して心の安穏を保とうと必死にならなくても良かったのかもしれない。

でも無いものをねだってもやはりしょうがないのである

 

父がこれから穏やかに過ごせるかどうかは父の努力次第である、私は助けを求められればそれ相応に対応する心づもりもある。

だがその結果に関してどうこうと思いあぐねることはもうしない。それは父の人生の結果であって私が囚われるべき人生の一部ではない、もうそういう歳になれた。

今までと変わらない様子でいるのであれば、私はお父さんが元気でいてくれた方が嬉しいんだよと伝えるだけだし、

もし頼りになる父になってくれるのであれば、そのときどきの相談事をすればいい、

もっと歳をとって老人のようになったら、夢での母との会話のように穏やかに何度も相槌をうつ。それだけでいいんだと思う。

 

ただ私は相手のことを考えた相手のほしい言葉をかけてあげられる大人になることをひたすら目指そうと思う。

それは父にも、パートナーにも、友人、職場の人、親戚、将来できるかもしれない子供に対しても、誰に対しても平等姿勢で。

これまた勝手ではあるがこの目標最後の母との約束として忘れないよう、覚書として残す。

 

2024-10-26

anond:20241026114449

そういえば癌の放射線治療って人生で一回しか受けられない謎がある

2024-09-10

anond:20240909134455

セットで、がんの放射線治療は「ラジ」と呼ばれる。

2024-08-29

飼い猫の断脚をした話

タイトルを見た段階で「ゾッ」とした人は多いと思う。すみません

しかしながら、わたし文言を打ち込んで、改めて「ゾッ」とした。

この「ゾッ」という感覚にどうしようもなく支配され、打ちのめされていた時期を、わたしは忘れることができない。

「ゾッ」とした感覚を忘れることはできないが、今、わたし精神的に健康に、明るく過ごせている。

今、わたし精神的に健康で、明るく過ごすことができているのは九分九厘、飼い猫が元気に過ごしてくれているおかげである

そう、飼い猫は現在、とても健康的に過ごしているのだ。

「飼い猫の断脚」から約四か月が経過し、現在の猫の様子も加味して、ようやく「飼い猫の断脚」に対する重圧が軽くなってきた。

そこで、「飼い猫の断脚」についてのあれこれ(事の顛末、断脚前後の猫の様子、それに伴う人間情動の変化、現在の猫の様子など)を、ここに記しておく。

このような活動は、とてもじゃないが精神的な負荷が軽くなければできない。現在とても健康的に暮らしている飼い猫に感謝しながら、この日記を書きたいと思う。

今年十五歳になる飼い猫を、仮に「じじ」と呼ぶことにしよう。

じじは約三年前、様々な理由から実家で面倒を見る人間がいなくなった猫だった。そこで、引き取り手として名乗りを上げたのがわたしの家庭だった。

同居している家族や先住猫は、じじとは殆ど面識がなかった。だが、幸いにも我が家の住人とじじは打ち解けるのが早かった。

じじは我が家にやってきてすぐ、他の猫に交わってリビング中央に横たわり、堂々と眠るようになった。その眠っている横を通りすがるとき、じじの頭をひと撫ですると、尻尾をぱたん、と床に打ち付けて返事をする。

人間に対しての愛想は良い。人間とのコミュニケーションを恐れず、友好的に人間に接する紳士的な態度は客人から気に入られることも多かった。

じじは十歳を過ぎたおじいちゃん、且つニューフェイスにして、瞬く間に我が家アイドルとなった。

だが昨年、十年以上病気知らずのじじに変化が訪れた。

ある日、わたしがじじの歩く後姿を眺めているとき、気がついた。左後脚の関節が、コブができたように腫れ上がっていたのである

町の動物病院へ連れて行ったところ、「うちでは原因を究明できません」と断言され、腫瘍科のある医療センター紹介状を書いてもらった。

医療センター受診した結果、病名はすぐに明らかになった。

じじの体を蝕んでいる病は、悪性リンパ腫だった。所謂リンパ腺のガンである。この病気罹患して一年以上生存するケースは稀らしく、脚の関節に腫瘍ができるケースは更に稀だという。

獣医療の中でもケースが稀ということは、適切な対処がまだ正確に確立されていないということだ。

脚の関節にできている腫瘍は関節を取り囲むようにして癒着しているため、腫瘍のみを切除することは難しいという。

対処としては薬物療法か、放射線治療か、断脚か。前者二つの治療法を実行したとしても、副作用は重い。

いずれにせよ、肥大化した腫瘍を完全に消滅させる見込みはなく、そのままではいずれ歩けなくなることは明らかである。断脚を行うなら早めに。

というのが、主治医見解だった。

※かなり要約したが、主治医徹頭徹尾、いずれかの治療法を強く勧めるようなことは言わなかった。どの治療法にもメリットデメリットがあることをわたしたちにきちんと説明した上で、飼い主がどの治療法を選択するか、丁寧に寄り添い、真摯に向き合ってくれた。

つらい時期だった。

こういった、重い決断が目先に迫った場合に採りがちな「様子見」という選択が、このときばかりはできなかった。

猫の脚を切るか、重い副作用がある治療を猫に受けさせるか、病に蝕まれるままに猫の命が尽きるのを待つか。

いずれも、人間エゴイズムによる選択であることには変わりない。

結局、タイトルにも記した通りの選択をした。断脚を選んだのだ。

主治医から猫ちゃんは三本脚になっても元気な場合が多いです。じじちゃん場合年齢の割に元気ですし、手術を乗り越えれば生存する確率は高いと思います」と告げられたのも、救いの光のように感じられたからだ。

「残りの命を少しでも健康に、楽しく生きてくれるなら」という祈りのような、賭けのような思いで、断脚手術を決断した。

断脚手術を経て、変わり果てたじじが我が家へ戻ってきた。

以前からやせ細っていたじじが、脚が無くなって更に軽くなった3kgの体重を、三本脚で支えながらよぼよぼと歩いている。

便意尿意を催すと真っ直ぐ猫用トイレに行く。とても賢い。だが、ぎこちなく動かすしかない一本の後脚をトイレの中に入れられず、トイレの外で何度も粗相をした。

泣かずには、落ち込まずにはおれなかった。ああ、自分選択を誤ったのかもしれないと、粗相の後片付けをする度に思った。

もちろん、家族も泣いていた。一緒に泣いて、悲しんだ。じじの脚を、自分たちの意志ひとつ無くしてしまたことを、心の底から後悔した。

人間エゴイズムで、愛する猫を不幸にしてしまたかもしれないという現実に「ゾッ」として、それがどうしようもなく全身にこびりついたまま、しばらく剥がれなかった。

ところが、手術から一か月ほど経つと風向きが変わってきた。

じじが、二階にある寝室まで階段を駆け上がってきたのだ。しかも、ジャンプしてベッドの上に乗ってきた。

ニャン!と啼いてベッドに乗り、喉から轟音を鳴らして甘えてきたとき、感動でわたしの体は震えた。

更に、喜ばしいことは日に日に増えていった。

これまで使っていたトイレを、より広く、段差が小さいものに変えたところ、トイレが使いやすくなったらしく粗相の回数が激減した。

痩せたじじの体重を増やすために朝晩猫缶を与えるようになったのだが、味を占めたのか昼夜問わず催促し、三本脚でチョコチョコ人間の後ろを着いて回るようになった。

そして、まんまと体重も増えた。手術前よりもふくふくとしたボディラインになり、猫缶をモリモリ食べる姿が様になってきている。

また今現在、幸いなことに転移なども見つかっていない。

じじが個体として凄かったのか、そもそも猫が凄いのか分からないが、ともあれ、途轍もない適応能力に感心しきりだ。

三本脚にする選択を採り、今までよりも不便な生活にしてしまった後悔や、「断脚」という野蛮な言葉が齎す「ゾッ」という感覚はまだ存在する。

だが、じじは健康に生き延びてくれた。

猫缶をモリモリ食べ、うんちもおしっこ毎日ジャンジャンして、家中を駆け回り、ごはんを催促してニャンニャン大声を出し、寝る前は寝室まで甘えにきて喉をゴロゴロ鳴らす。

じじは十五年間生き延びて、現在でも毎日毎日、元気で健康的な姿を人間に見せてくれている。

その姿は美しく、勇敢で、立派だ。そんな猫の姿を見られていることに、わたしは心から感動している。

今はただ、こんなに嬉しいことはないと、切に思う。

2024-07-05

癌について誤解していた事

父が放射線治療をしたのだが、放射線をした後にもう一回同じ場所に再発した場合

もう一回放射線をする事が出来ないと言われた。

俺はこの意味理解できなくて医師説明を求めたのだが

放射線そもそも細胞自体ダメージを与えてしまう一度放射線を当てたところにやっても

ただダメージが蓄積されるだけということだった。

まり俺は癌を病原菌みたいなものだと思っていたのだが「元々は正常な細胞」だったもの変異したものなので

それを手術で取り除いたり放射線をやるということは細胞自体が無くなってしまうということだった。

もし同じ所に癌が出来上がってもそれはダメージが蓄積されている場所になるので

そこに更に放射線を当てたら正常な細胞ダメージを受けてしま逆効果ということだ。

から手術で切除もできない。放射線も駄目。

父が放射線をした理由抗がん剤がほぼ効かなくなってしまたからだ。

まりこの先癌が大きくなったらあとは手立てがない。

緩和ケア死ぬまで待つだけ。

何もできない。

現実が辛い。

2024-03-11

難関大学中退者には性犯罪者と同じ評価を下す

性犯罪者に対する社会の風当たりは厳しい。 最近四谷大塚講師Mが女子生徒をロリコン性犯罪者グループに売ったことで 中学受験業界全体が揺れている。 Mはおそらく大した罪には問われないだろう。 だからこそかも知れないが、「Mを死刑しろ」という声が絶えない。

なぜだろうか? それはきっと、以下2つの理由によるものだろう。

1.性犯罪社会にとって危険である

2.性犯罪者はどうせまた再犯する

1は自明だが、2の理由はなんだろうか?

そもそも犯罪者とは何だろうか? それは、犯罪を冒した人間のことである。 ではなぜ人は犯罪を冒すのだろうか? それは、犯罪を冒すことがその人にとって有益だと判断されたからだ。

ふつうの人は犯罪を冒さない。 なぜならば、犯罪を冒さなければ平穏生活が手に入るからだ。 言い換えると、ふつうの人の中では平穏生活が手に入ること > 犯罪を冒すこと という不等式が成り立っている。 しかし、犯罪者にとってはこの不等式が逆になっているのだ。 特に性犯罪のように意思を持って行わなければ成立しないもの場合はそうであるといえる。

この不等式は、ふつうの人にとっては絶対に逆にならないものだ。 でも犯罪者にとっては逆になっている。 これが何を意味するかというと、犯罪者は明らかにふつうでない感覚、あるいは人生観を持っている ということだ。

なぜだろうか? それはきっと、脳の気質レベルでなにかがふつうではないからだろう。 だから犯罪者のこの気質修正不能であり、 犯罪者はどうせまた再犯するということになる。 事実性犯罪者再犯率は極めて高い。

対象者のうち,調査対象となった性犯罪事件裁判確定から5年が経過した時点において服役中等の者を除いた1,484人について,罪名は問わずいずれかの再犯を行った者の比率である再犯率は20.7%であった。性犯罪再犯率は13.9%であり,全再犯を行った者のうちの約7割を占めていた。

昨今、東大京大といった難関大学中退する人間が目立つようになった。 SNSの影響うんぬんの前に、はっきりいって、頭が悪いんだろうと思っている。 ガイジと言っていい。

大学を22歳で卒業し、大学院を24歳で卒業するストレートに失敗する要因としては、 浪人留年中退の3つがあるが、 このうち就職における影響は、大きい順から 中退留年浪人となる。

中退は、そもそも高卒と同じ扱いになっているからというのもあるが、 特に難関大学においては別の理由もある。

難関大学卒業して、例えば京大卒になることと、 中退して高卒になることには大きな開きがある。 人生は全く違ったものになるだろう。 しかし、彼らはそれを放棄して中退という道を選んだことになる。 つまり彼らは、難関大学卒業して輝かしい学歴を手に入れることより、 中退して勉学の苦しみから解放されることを優先したのだ。 これは明らかにふつう感覚ではない。 これらの高みにたどり着くために、多くの人は子供の頃から塾に通い、 時には泣きながら勉強して、 それでもなお届かずに諦めたのだ。

日本大学卒業することはそう難しいことではない。 だから、あと少しだけ努力すればその高みに届いたはずなのに、 それすら辛いという理由放棄して中退してしまったということになる。

これは、平穏生活を手に入れることを難関大学卒の学歴を手に入れることに対応させて、 犯罪を冒すことを中退して楽になることに対応させれば、 性犯罪者論理と全く同じことに気づくだろう。

難関大学中退する人間は、大抵の場合仕事が出来ない。

これは以下のような理由による。

まず、仕事をするためにはそのプロダクトなりビジネスを ある程度はジブンゴト化する必要がある。 難関大学中退者というのは、自分人生という最重要プロダクトすら まともにジブンゴト化出来ずに放棄した人間であり、 このような人間が しょせんは他人定義したプロダクトなどをジブンゴト化することが出来るはずがあるだろうか(いやない)。

次に、なぜ彼らが大学中退することを選んだかというと、 これは大抵の場合勉強が嫌だったからだ。 彼らは多く場合アスペルガー気質があり、 好きなことはとにかく熱中するが、嫌いなことは絶対にやらないという 傾向がある。 このような傾向は、仕事をする上では致命的となる。

一方でふつう人間というのは そのような近視的なもの見方はせず、 より高い視点物事を見ることが出来る。 つまり自分人生にとって卒業ないし学歴がどういう価値があるかという包括的視点ものごとを見ることが出来るから、 興味のない科目や授業があったとしても、ある程度は受け入れることに成功し、 単位を落とすまでには至らない。

最後に、彼らは努力出来ない。 これは、嫌いなことに対して努力することが出来ないということでもあるが、 彼らは内心、中退したことを悔いている。 この後悔は、履歴書門前払いされるごとに深くなっていき、 次第に、こんなはずじゃなかったという思いに支配されることになる。 世の中のほとんどの大人は、もっと勉強して少しでも上位の大学に行けばよかったと後悔しているのである。 であれば、大卒になる権利すら自分放棄してしまった人間の後悔というのはこの比ではなく、 場合によっては自分を認めない社会に対する恨みすら抱くようになる。

このような人間は、中退せずに難関大学卒業した人生と、今の人生比較してしまい、 今の人生をこれ以上改善しようとは思わない。 なぜならば、その努力は、前者の場合に比べて報われる可能性が低いと考えるからである池江璃花子白血病から立ち直り、世界水泳に出場するまでに復活をしたが、 大抵の人間白血病になったら、仮にそれが治ったとしても、またトップレベル選手を目指そうとはならない。 なぜならば、白血病治療において抗がん剤放射線治療をした影響によって 自分身体は確実に弱化しており、努力しても虚しいだけだと考えるからである。 こうした状況において最大の努力をしてトップレベルまでカムバック出来るのは、 池江璃花子池江璃花子からに他ならない。 ふつう人間は、今日ほんの少し疲れているだけでも、今日はお休み明日から本気出すと言って それを繰り返すものである

では、低学歴はどうだろうか。 低学歴も、高学歴になることを諦めているのだから、 同様の論理適用出来るのではないかと思うかも知れない。

その考えは、大体は合っているが、性犯罪者というほどにはならない。

東進林修は、最後の授業においてこのようなことを言うらしい。

「これから一ヶ月間、必死勉強しろ必死勉強すれば、結果がどうであれ、人生の糧になる。 必死勉強しなければ、結果がどうであれば、 自分は一ヶ月間すら必死努力出来ない人間なのだと 生涯苛まれることになる。」

この論理学歴の高低に適用すると、 仮に必死勉強した結果が低学歴なのだとしたら、それは別に構わない。 しかし、必死勉強せずに低学歴なのだとしたら、その人は確実にだめだということになる。 ただ残酷なことに、最大に努力した結果低学歴なのだとしたら、 それはやっぱりだめということになるから結論として低学歴はやっぱりだめということになる。

実際、使えるか使えないかは概ね出身大学偏差値と相関がある。 特に論理思考力など仕事をする上で重要能力は、 低学歴の人には備わっていないことが多い。 生まれつき知能指数が低い場合受精しかやり直すしかないが、 そうでない場合でも、思考力というのは思考しなければ養われることはない。 難関大学問題思考力を要求するため、受験生の中には その訓練のために難問を何時間も考え続けたという経験をしたものが少なくない。 中学受験出身者の論理思考力が高いのは、膨大な量の論理パズルを幼少期に訓練しているからだ。 だから低学歴基本的には使えない。

しかし、その使えない度は、難関中退者よりはマシだとは言える。 大学受験は時の運もあるし、環境によって十分な準備を出来なかった人もいるだろう。 それに、大卒高卒の差に比べれば、大学偏差値の高低はそこまで大きな問題ではないから、 誰しもが最大限の努力をするという前提には無理がある。 実際、マーチ関関同立レベルで十分に高学歴という価値観を持っている人の方が大多数であることは間違いない。

から偏差値が低い大学出身人間でも、 大学に入ってから努力をして、そこから伸びてくるというケースはある。 しかしそれは決して一般的ではない。

2024-02-14

もちろんです!モラー直線(またはモラー散乱)は、電子物質中を移動する際に受ける散乱の現象を表すものです。以下にモラー直線について簡単解説します。

ラー直線とは:

ラー直線は、電子物質中で散乱する際の角度分布を表すものです。

電子物質中を通過する際、原子核電子との相互作用により、散乱が起こります。モラー直線は、この散乱角度の分布記述します。

ラー直線の特徴:

ラー直線は、小角度(通常は数度以下)での散乱に適用されます

電子物質中を直線的に移動する場合、モラー直線はその散乱角度を予測します。

ラー直線の計算方法:

ラー直線は、電子エネルギー物質原子番号物質密度などに依存します。

一般的には、モラー散乱理論を用いて、電子の散乱角度の確率分布計算します。

応用:

ラー直線は、放射線治療や粒子加速器設計など、物質中での電子挙動理解するために重要です。

ラー直線は、電子エネルギー損失や散乱角度の予測に役立つ理論であり、物質中での電子挙動を詳しく調査する際に活用されています12

2024-01-10

生きててくれてありがとうと言えなかった

子供の頃、母ががんになった

 

酷い泣き虫でとても一人にはしておけない娘を前に、母は何がなんでも生き残らねばと決意した、と聞いた

無事手術は成功したが、その後も長く放射線治療検査を受けていた

他にも腫瘍ができ、これが悪性だったら余命はもう数えるほどだと宣告されたこともある

 

それでも母は苦しい治療を受け続けていた

主治医に完全寛解と経過観察の終了を告げられた時、私はもういい大人になっていた

つい数年前のことだ

 

今日で長い病院通いもおしまいになったよ、と聞いた時、私は最初に「生きていてくれてありがとう」と言おうとした

母がそばで生きて育ててくれたから、泣き虫弱虫な私は一応の大人になれたのだ、それは当然じゃない、母の決意に支えられた私の幸運だったのだ

 

でも、まるでそれは「あなた人生は私のためにあった」と言っているみたいで

母の生は母だけのもののはずで、生きようとしたのもそれは彼女個人の決意とその結果であって、そこに他者である私が感謝を表明するのは筋違いでは、と思ってしまったのだ

ただでさえ、まだ女性自由にはライフプランを選べなかった時代の人に、「母として生きてくれてありがとう」というのは失礼なのではないか、と

 

そして「生きててくれてありがとう」ということで、私はこの先の彼女人生自由もやんわりと縛ってしまうのではないか、と

 

結局私は、「私は、お母さんがこれまで生きていてくれて本当に助けられた」という、謎に突き放したような感想を表明したのみだった、母はリアクションに困った顔をしていた

なにか贈り物なんかもしなかった

 

某SNSで似た言葉を見かけ、自分のそのことを思い出して、もっとちゃんとお祝いすれば良かったと後悔しているような、でもやっぱり私にとってはあれで正しかったと思うような、割り切れない気持ちでいる

正解はなんだったんだろうか

だって母にはこれからも元気に長生きしてほしいが、それを彼女が望んでいるかはわからないし

人をおもうというのは難しいことだ

 

2023-06-20

選択肢が1つ消えた。

一昨年悪性腫瘍が見つかって、人生初めての手術を受けた。

手術は寝たまま運ばれて手術室へ行くと思ったら、普通に歩いて手術室に行った。

手術室は設備も新しく、手術台は温かくてふわふわしていた。

手術は3時間と聞いていたけど、6時間半掛かった。

胸を縦に切って腫瘍を取ると聞いていたけど、L字の様に縦にも横にもメスが入っていた。

から聞いたら、思って以上に大きくて浸食悪性腫瘍が見つかって、人生初めての手術を受けた。

手術は寝たまま運ばれて手術室へ行くと思ったら、普通に歩いて手術室に行った。

手術室は設備も新しく、手術台は温かくてふわふわしていた。

手術は3時間と聞いていたけど、6時間半掛かった。

胸を縦に切って腫瘍を取ると聞いていたけど、L字の様に縦にも横にもメスが入っていた。

から聞いたら、思って以上に大きくて、心膜横隔膜の一部も切除したらしい。

術後は独特の痛みで夜も寝れない日が続いた。

咳やクシャミをすると傷口が開いて中身が出るのではと思った。

費用は限度額適用認定証を取得していたので満額の185万より少なく、2週間分の個室と食事、病衣台で40万弱だった。

公的保険もありがたかったし、自分で掛けていた保険給付金も一時金、手術、入院給付金で支払った以上に入って来た。

住宅ローンも払って半年ほどで支払い免除になった。

今年経過観察の検査で再発。

自分は再手術だろうと思ったら、癒着や再発の場所が大動脈等の近くで手術が出来ないと言われた。

抗がん剤か、放射線治療と手術という選択肢が1つ消えた。

これからどっちを選択するかそれぞれの治療についてネットや本で調べてみる。

子どものまだ幼稚園子どもが好きな妻は最低2人は欲しかったと結婚前に話してた。

こんな状態で妻は2人目は諦めたみたいだ。

選択肢が1つ消えただけで、絶望するにはまだ早いけど、悪い事ばかり考えてしまう日もある。

現実世界で妻にも親にも言えないから、ここを使わせて欲しい。

書いて少しスッキリした。

2023-03-13

母さんがガンで死んだ(追記

から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟からなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。

ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。

医者から一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。

「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」

とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。

「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。

翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子

溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。

その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療検討しようということに。

母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。

程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。

実家家族帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。

副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。

「癌の専門医先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。

その道の専門医先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。

それでも、「やっぱり経験値が高い専門医先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。

細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」

とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。

あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。

ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。

改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。

これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してから状態改善しなかった。

母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。

この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。

妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャタイミングだった。

死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー東京結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。

12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。

ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。

足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。

そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。

母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。

急遽、仕事休み実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。

少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。

妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。

「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。

その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。

泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。

訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。

そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。

最後看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。

看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取り役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。

一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。

翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。

覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。

おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分祖父自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。

納棺ときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子ども写真を納めた。

短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで

葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。

夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。

翌日も葬儀火葬バタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。

母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。

それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。

その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。

母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。

当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。

そういえば、ウィッグ友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。

ウィッグ販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。

思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。

癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。

母さん、ありがとう。母さんの子どもで良かったよ。

追記

たくさんの方に、暖かな言葉いただき、恐縮しておりますありがとうございました。

私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。

野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。

母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転ドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています

経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族介護+訪問看護体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかたこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。

なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード年金手帳マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係ほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います

長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。

2023-02-28

anond:20230228174840

あんの子やで・・・

閉塞性無精子症 

精巣(睾丸)の中で精子は作られますが、途中の通り道が何らかの原因で閉塞を来していることから無精子症となったものを、閉塞性無精子症と呼びます。
広義には射精できないことによる無精液症も含めることがあります

非閉塞性無精子症
 

先天性(染色体異常、遺伝子異常、原因不明など)あるいは後天的抗癌剤治療放射線治療、ムンプス精巣炎など)原因により、精巣(睾丸)で精子を作る能力が低下してしまったために無精子症になったものを、非閉塞性無精子症と呼びます。広義には時々ごく少数精子が精液中にあらわれる症例を含めることがあります

2022-12-07

anond:20221207162404

がんにかかって100万円もらえてもしょうがない。それなら保険に入らず100万円を貯金した方が良い。

合理的に考えるとそうなんだけど、実際に体験すると「病気にかかって大変な上に貯金が減る」という体験結構メンタルに来る。「貯めといて良かった」と思える人はすごく心が強いと思う。

身内が保険受給してて思ったけど、実質的にかかる費用補填というよりは、あれは、すごく辛い時にもらえるあぶく銭だね。

退院したら良い寿司でも食べようとか、入院中使うから高いノイズキャンセリングイヤホン買おうとか、そういう気分転換するにはよさそうだった。

病気にともなって発生するちょっとした出費、ちょっとした贅沢、たとえば放射線治療の時に使うウイッグをおしゃれで可愛いのにしたいとか、そういうところで貯金を取り崩すのではなく、あぶく銭が使える良さってある。

2022-10-16

anond:20221014090723

スピとはちょっと違うけど、私の母の話をしたい。

私の母は発見時にStage4の癌で、医者は今のままだと半年治療を行えば予後がよくなる(直らないけど寿命は延びるよ、いつまでかは知らんけど)と言った。

セカンドオピニオンにもかかったが、言われたことは同じ。良ければ2年ぐらいは生きられるけど直ることはまずないと言われた。

最初医者の言う通り、母は放射線治療抗がん剤治療を始めた。

抗がん剤治療を始めてすぐ、母は何を食べても苦く感じるようになったようだ。砂を食べているようだとも言った。何度も吐き気に襲われてしょっちゅうトイレで吐いていた。

ふっくらとした体型だった母がみるみる痩せていった。

しばらく堪えて頑張っていた母だが、あまりに辛いので止めたいと言った。そして代わりに縋ったのが、いわゆる近藤某かの言うような放置治療だったり、マッサージとか食事療法とかそういったものだった。

当然、そんなもの効果があると私を含め家族は信じていたわけではないけど、ニセじゃない方医療は母に辛い治療を強いるけど助からないと言う。ニセ医療は辛い治療も強いないし助かる可能性があると言う。

もっと生きたい、病気を治したいと思っている母が、希望を持って生きるにはどちらが良いか。母の選択を間違っているとは言えなかった。

母も多分わかって騙されていた気がするし、それでよかったんだと思う。

まだ助かる見込みがある人がニセ医療に騙されたり、全然治療効果がない高額な治療をさせたり、そういうことをしている連中は許せないけれど、ただ批判されてるのを見るのも今となっては複雑な思いがする。

2022-05-06

anond:20220506123841

微量なら、放射線治療にも使われる。

大規模な外科手術をせずともガンをやっつけてくれる。


小学校で読んだ「怪盗紳士ルパン」にも書いてあったから間違いない。

2022-04-28

犬の体調が悪い2

今日はずっと泣いている。

病院検査したところ髄膜腫とのこと。

脳の動脈というか太い血管にもくっついていて、外科手術ではリスクがありかなり難易度は高いとのこと。取りきれなければ数ヶ月で再発。

放射線治療を勧められたが

当てられる位置なのか

受け入れてもらえるのか

犬は耐えられるのか

色々ハードルがある。

それでもやってほしい。1日でも一緒にいさせて欲しい。願わくば完治して欲しい。私の寿命半分あげるからもっと一緒に生きて欲しい。

明日また病院紹介状もらいに行く。

お願いします。置いていかないで。

2022-03-04

ねこがガンになった

ねこかわいいねこ

世界一美人ねこ

生後5ヶ月で私が拾ったねこ

実家の子になったねこ

猫嫌いの母と弟を猫バカにしたねこ

実家とは疎遠になろうとしていた私を繋ぎ止め、家族のかすがいになってくれたねこ

頭良くて人の顔うかがいながらイタズラするねこ

18歳(人間なら88歳)なのにとても元気で、よく遊んで欲しがっていたねこ

病気という病気をしなかった。

甘えん坊なので皆が忙しくてかまってもらえない時にストレスでちょいハゲができるくらいだった。

毎日よく食べ、よく水を飲み、よく運動し、よく甘え、よく毛繕いし、よくンコもする健康優良猫だった。

もう、歳だからそろそろ覚悟をしなきゃと思ってはいた。

いや、正直10歳過ぎた頃から覚悟をしなきゃと思ってはいた。

でも、とても健康で元気だから覚悟なんてしていなかった。できてなかった。

ねこが8歳のころに私は生まれ故郷を離れ、帰郷するのは年に2回となった。

それでもねこは私のことをちゃんと覚えていてドアを開ければ鳴きながら走って出迎えてくれていた。

とても賢い。

親と電話すればその背後で鳴いてアピールをしていた。

とても可愛い

離郷して9年目、新型コロナウィルス世界蔓延し、突如パンデミックの災禍に巻き込まれた。実家に帰れなくなった。

その頃からねこは少し夜泣きをしたり、たまに乱暴になる事があった。

親は「痴呆では?」と心配していたが、名前を呼べば反応するしご飯もわかるし過剰に要求しないし、私は違うと思ったし主治医問題ないと言っていた。

今思えば身体異和感不安だったのだろうか。

一年半後コロナが少しおさまりかけ、実家に帰ったがやはりちゃんと私の事を覚えてくれていた。18歳だけど毛艶も良く、夜は昔からの習慣で布団に入ってきたので一緒に寝た。

元気な姿はそれが最後だった。

数ヶ月後、母からLINE

ねこの口腔内に腫瘍ができた。手術でとって病理検査してもらう」

即調べた。

手元の小さな箱で調べた。

猫 口の中 腫瘍

「猫の口腔内腫瘍は8割が悪性といわれています

「癌になったら余命は1〜3ヶ月ほど」

信じないでおいた。信じたらしまいだ。

残り2割の可能性がある。

結果は8割の方だった。

残酷

診断が出たのは昨年、2021年11月中頃。

それから3ヶ月半。

ネットで調べた寿命は乗り越えた。

主治医も言う「強い子だね。奇跡的だよ」

知り合いの獣医も言う「19歳で全身麻酔の手術なんて、それだけでも凄いよ」

手術も抗がん剤放射線治療も無しでの事だ。

何故なら手術で腫瘍を採るには目をとり顔を半分削ぎ落とすから。それでも完治は保証できない。

抗がん剤腫瘍の由来が不明のため効果的に投与できる薬を特定できず、放射線治療負担が大きい。

結果的に見守るしか無くなってしまった。

それからねこ可愛いお顔は左半分が少しづつ膨れ上がり、鼻は曲がり、左目はほぼ見えなくなった。

口の中も再び肉腫が大きくなり、鼻を圧迫して髭も抜けて無くなってしまったのでご飯が食べづらい。

口の下の腫れが気になるのか顔洗いながら爪を立ててしまうので毎日顔と両手が血まみれになる。血の海に浸したみたいに赤黒い。

あんなに沢山食べたご飯は1日にウェットタイプパウチ半袋。

ウンチも週一。

お水もうまく飲めないのか傷にしみるのか苦戦して量が減る。

癌診断の後、私は一週間の自主隔離PCRを駆使して月一で帰郷した。帰ったらリモートワークしながら一週間滞在してはねこと密に過ごした。

帰ると嬉しいのかご飯の量が増えたりしてくれた。

毎晩一緒に寝て、泣きながら沢山話しかけた。

沢山撫でた。

昼間も寝床近くで仕事してると寝床から「にゃーん」と呼ぶ。

元気な時はそんな事一切なかったのに、体力ないからか、寂しいからか、辛いのか、痛いのか。

どうしたの?と撫でてあげると安心してまた寝た。

それが2週間前。

昨日からまた食事量が減ったとの報告。

匂いを感じないからか、食べづらいからか、実家近辺にて買えるウェットフードで食べてくれるものが尽きた。

ネットでなんでもいいからウェットの食べやすそうなものを手配した。

体重は全盛期の2/3の2.6kg。

もう、近いかもしれない。

毎晩泣いてきたけど、いまだに涙が止まらない。夜になると考えてしまう。

何かできたことは無かったのか、事前にわからなかったのか、いや分かるわけない、人間でも予防は無理だ、でもあの子は左目に昔からアレルギーがあったからアレが遠因じゃないのか、その時の獣医アレルギーと言っていたから分かるわけない、内臓のガンの方がマシだったのか?、いやそれはお前のエゴしかない。

そもそも彼女は私に拾われてしあわせだったのだろうか?

よい猫生だっただろうか。

昔はねこ虹の橋を渡ったら遺灰を小さくて可愛い骨壷にいれて手元に置いておこうと思っていた。

今はそれすら良いのか分からない。

そんなものを今から手配するのもましてや探すのなんて体が動かない。

あなたが今、ただただ苦しんでいない事を。

痛くないことを。穏やかでいられる事を。

世界中の猫とこれを読んでくれた貴方貴方の猫が少しでも永く一緒に幸せでいられる事を。

祈るしかない。

2022-01-11

今朝、祖母が死んだ

医師によって白い布を取り去られたその顔は、ありきたりだけどまるで眠っているようだった。

閉じきれずほんの少しだけ見える瞳は黒く、力なく開いた下顎から察せる口内はほとんどの歯が抜け落ちてくぼんでいる。

祖母は一昨年、口底癌で放射線治療を受けていた。

80を超えて、ステージⅣの口底癌を患ったものの、なんと再発の恐れはないとまで言えるほどに癌と戦った。認知症の症状こそ出始めていたが、元より辛抱強い人だった。それでも当時「いやだなぁ」とぽつりと呟いた声を私は覚えている。

癌も辛いし、放射線治療も辛いよね。それでも受けてくれてありがとう

2分前に自分が何を言ったか覚えていてくれてなくても、私が孫だってあんまりわかってなくても、骨と皮しかないようなその手で握ってくれた手は暖かかったよ。

あの時よりももっとやせ細ってる気がする。

コロナ禍の所為で面会もできないし、一度だけしてもらったオンライン面会ではこちらの声に全く無反応で、タブレットを持ってくれていた看護師さんに促されて奇跡的に「んー」と返事をするだけ。

さな私を叱るときに三階の窓から雨の中ランドセルを投げ捨てたあの力強い生命力はどこにも感じなかった。でもなんていうか、今でもあれはやりすぎだったと思うよ。

それでも何の苦悩も見えないその安らかな表情は、悲しみと同時に安堵も招き、ただはらはらと頬を熱く濡らした。

横たわる身体にかかった布の柄が細かいせいで、若干錯視じみている。ぼーっと見てれば不意に布が上下したようにも見えた。

まるで眠っているのではないかとまた錯覚を覚える。

薄く開いた瞼から除く目を見るのが怖くて、頭上寄りにパイプ椅子を置いて座り直し、角度的に物理で見えなくさせた。

顔をしげしげと見下ろすと、眉毛が一本だけ白く伸びている。どうせなら整えてあげられればよかったのに。

こんな時に限って出てくるのは涙で、あとはそのためのハンカチだけ。

ガーゼ生地に涙と同じだけの鼻水を吸わせつつ、そっと髪の毛に触れた。

柔らかい

80後半、パーマヘアカラーもしてないその髪は猫っ毛のように柔らかくて、結構黒髪も残っている。すごいねぇなんて撫で付けると頭皮からひんやりとしていて、冬の外から帰ってきたみたいだなぁとぼんやり思った。

おばあちゃん、死んじゃったんだね。

旅支度だと手伝った際に触れた肌は皮がたるんで柔らかいのに、芯まで冷えていて涙が止まらなくなった。

あと死装束って言いたいのに何度も死覇装って言ってごめんね。貴女勝手死神にさせてしまたことを恥じています。こんな孫ですが、まだ可愛がってもらえますか?

喧嘩もしたし嫌いなとこもあるけど、大好きだよおばあちゃん

また明日、会おうね。

2021-10-05

父親が癌になった

今日、母から連絡があった。

父親が癌になったこと。

ステージ3なので手術は行わず放射線治療薬物療法を行うこと。

早ければ明日にも入院開始になること。

親も決して若くはないので、むしろ自然なことだと思うけれど、いざ自分の親のこととなると受け止めるのに時間がかかりそう。

自分故郷を離れて大学に通い、就職して、結婚して、子供も生まれ転職して地元から離れた他地方に根を張って生活している。

父の癌宣告を聞き、近くに居てあげれない悔しさと、今の生活を切り上げて父を看取るために地元に帰るほどの優しさがない自分にも気付かされた。

誰も見ていないこちらで文章にして、自分気持ちを整理したい。

から連絡があったのは、5時半を少し過ぎた時間。いつも電話してこない時間帯の電話だったので嫌な予感はしていた。

母:今、大丈夫

私:仕事の合間だけど、どうしたの?何かあった?

母:仕事終わってからでいいよ、ちょっと話したいことがあって

私:どうしたの?何かあったなら聞かせて?

母:いいよ、また後で大丈夫

上記のような問答が続き、ついに父の癌のこと(進行がんがみつかり、ベッドが空き次第入院治療になること)を話してくれた。

頭の中に色々なことが浮かんだ。

本当に?診断は間違ってないの?ステージは?父の仕事大丈夫?母に心労はない?いつまで生きられるの?

ぐるぐる色々なことを考えながら冷静を装った。

根掘り葉掘り聞くのも憚られたし、あまり深刻な質問はしないよう心がけていた。冷静に話を聞く自分に対して、冷たいなとも思った。

その一方で、冷静ぶることで自分を保っているような、不思議気持ちになった。

母曰く、病気については父からでなく母から私に伝えてほしいらしく、もうすぐ父が病院から帰ってくるらしい。

ひとまず、母に心配しすぎて体調崩さないでね、と伝えた。

電話を切って思ったことは、父の心配、そして母の心配

その後自席に戻ったが、さきほどの冷静さはいつの間にか消え、色々なことをぐるぐる考えていた。

それでも冷静ぶる自分もいた。

やはり仕事が手につかず、帰路へ。

帰り道、父に電話

思ったよりも深刻な様子はなく、病気を受け入れている様子。

自分も大病を患ったことがある(何なら今も。付き合っていく系の持病)から病気と向き合うのがスタートだよね、と話。

普段寡黙な父が少し饒舌だったかもしれない。

それに頼んでもいないのに母に電話を代わった。

しかしたら、息子にこの話をするのが辛いのかもしれない。

地元に残った兄にも電話した。

もともと仲が良くないこともあり、そっけない態度。

おまえは帰ってこれないんだから心配だけしてもしょうがないとのこと。

くそのとおりで、入院の世話とかができないけど、なんとか母を手伝ってほしいこと、その他にできることがあったら何でも言ってほしいことを伝え、兄も体に気をつけて、と話しした。

家に帰って色々調べたが、わからないことだらけ。

もともと医療業界に近い仕事過去していたが、自分の親のこととなるとさっぱり。

せめて、入院中にたくさんテレビ電話をして孫の顔を見せてあげたいと思う。

本が好きな人だから、病室に本を送ってあげたい。

自分が読んで面白かった本を贈りたい。

同じ本を読んで、感想を言いあいたい。

一歳を過ぎた次男の顔をテレビ電話しかたことのない父に次男を抱っこしてほしい。

恥ずかしくて一緒に飲んでいない酒も飲みたい。

父の作った野菜を孫に食べさせてあげたい。

父の癌種は5年生存率3割以下だそう。

父がいなくなる日はきっとそう遠くない。

いまだ、信じたくない。

こうなって思い出すのは小さい時の優しかった父ばかり。

大人になってからも、思い出になるようなことをしてあげればよかった。

他人事のようなことが自分ごとになり、気持ちの整理がついていない。

親孝行したいときには親はなしと言うが、まだ生きてくれているうちに色々なことをしよう。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん