はてなキーワード: 1968年とは
自閉という訳語を誰が思いついたのかについて辿っている記事めちゃくちゃありがたい
本田秀夫(2018)「自閉という言葉の由来と概念の変遷」『信州医誌』66(5): 305-6.https://t.co/jQclAD3K0u— 篠宮紗和子/Sawako Shinomiya (@SawakoShinomiya) November 5, 2024
秋元先生より一代前の教授の内村祐之先生が書かれた「わが歩みし精神医学の道」(みすず書房,1968年)という本であった。その中に,「……精神医学―従来の精神病学に代えて―や自閉症などの訳語は,この時(註:上記の統一用語試案の作成時)に私が提唱したものであった」と書かれていたのである。
とあるが、これを補強する記述が、内村祐之が1933年『神経学雑誌』に寄稿した「精神病学用語ノ邦訳ニ就イテ」に書かれている。
神経学雑誌 = Neurologia 36(7) - 国立国会図書館デジタルコレクション
次に近時精神病学的用語として導入せられ、日常臨床的に甚だ便利且つ重要であるに係らず、或は種々に翻訳せられ、或は適当なる訳語を得ないために、一般に十分に理解されるに至らない二三の術語を取り上げて見よう。その代表的のものはAutismusである。最初に今村教授[註:今村新吉]は之を自家籠城と訳され(神経学雑誌二十七巻昭和二年)、吉益氏[註:吉益脩夫]は之に似て自己籠居症と訳された(中外医事新報一一八八号昭和七年)。高良博士[註:高良武久]は自生活主義を訳語とされ(同氏性格学昭和六年)、杉田教授[註:杉田直樹]は自己内生活と訳されて居る(同教授著小精神病学八版昭和八年)。その何れも、原語の内容を十分に表現して居る訳語であると敬服に堪えない。然し私の忌憚のない感想を述べることを許されるならば、その訳語が一症候の訳語としては稍や長く、或は用辞が物々し過ぎる嫌いがある。今少し簡潔な訳字が欲しい。又Autismusが元々一つの病的症状として記載されたものであるから、訳語の語尾も従来の慣例に従って症とする様な言葉が望ましい。私案としては今村教授と吉益氏の訳語を縮めてAutismusを自籠症、autistischを自籠的と訳するのは如何であろうか。或は語呂の連想が悪いとあらば自閉症及び自閉的でもよいと思う。
1968年創業。豚骨や豚肉、背脂を煮込んだ脂肪分と旨味が溢れるジャンクなスープ、一般的なラーメン店よりも多い麺量に野菜が盛られたボリューミーなラーメンが特徴。学生街(慶應義塾大学三田キャンパス近く)という立地も相まって、一躍人気店に。1990年代になってからは「直系」と呼ばれる暖簾分け店が増え、2000年以降はラーメンの特徴や注文システム等を模倣した「インスパイア店」が急増。全国規模の知名度を得るに至る。
1974年創業。白濁した豚骨スープに東京の醤油を合わせたラーメンを考案し、人気店となる。弟子の独立店も1990年代から神奈川を中心に増加し、2000年以降は、模倣したラーメンをセントラルキッチンでチェーン展開する企業も参入。ラーメンの一大ジャンル「家系」として認知される。
ちなみに創業者の吉村実氏は、開業前、東京は平和島にある「ラーメンショップ」での勤務経験があり、豚骨スープに醤油ダレという共通点があることから、同店は「家系のルーツ」とも言われる。
1985年創業。新横浜ラーメン博物館への出店を皮切りに、店舗を全国へ拡大。早くも2000年には先鞭をつけた海外展開や、清潔感のあるスタイリッシュな内外装の店舗など、以降のラーメン店に与えたとされる影響は多い。
1986年創業。創業者の佐野実は人気テレビ番組に出演し、当時のスター店主の中でも代表と言える存在。そればかりではなく、自家製麺への拘りやブランド食材の使用等で、多くのラーメン店に影響をもたらした。佐野実は2014年に他界したが、支那そばやは横浜市で現在も営業を続けている。
1988年創業。煮干しを主役に据えたスープと低加水の細麺、具はネギだけのシンプルなビジュアルが特徴。開業してしばらくは知る人ぞ知る地元の名店だったが、2004年の東京進出を皮切りに、煮干しラーメンブームの火付け役となる。
1996年創業。1996年は多くの有名ラーメン店が開業した年で、それらの店は「96年組」と呼ばれるが、その中の一店。期間限定メニューの提供、券売機の設置、店内の凝った空間演出等々、今や一般化したスタイルの元祖とされる。
1996年創業。「麺屋武蔵」と並ぶ「96年組」の一店。別々の寸胴で炊いた動物系素材と魚介系素材のスープを後から合わせ、両者の言わば良いとこ取りをした「ダブルスープ」のラーメンで一躍人気店となり、「豚骨魚介系」と括られるほど多くのインスパイア店を生み出した。
2002年創業。「中華そば 青葉」によって膾炙したダブルスープに対し、一つの寸胴で時間差を設けて動物系素材と魚介系素材を一緒に炊き上げることで、より濃厚なスープとなるようにした「濃厚豚骨魚介」の先駆けとされる。現在も営業中。
2005年創業。スープ素材として鶏だけを使用した、いわゆる「水鶏(鶏水)系」のラーメンや、麺をあらかじめ昆布水に浸した状態で提供し、細麺のつけ麺だと麺がくっつきやすい問題を解消した「昆布水つけ麺」の元祖として知られる。店舗は幾度かの移転を経て、現在は兵庫県尼崎市で「ロックンビリーS1」として営業中。
2012年創業。「セメント系」とも言われる、エグ味や苦みさえも絞り出したかのような、セメントを彷彿とさせる灰色がかった超濃厚の煮干しスープと、ラーメンの麺を食した後に別皿で提供される、油で和えた麺「和え玉」の発祥店とされる。現在も営業中だが、今は特濃な煮干しラーメンは、基本的に提供をしていない。
スタートレック(現在の正式名はスター・トレック)は50年の歴史があるうえに、1話完結のエピソードが多い。シリーズの入門ガイドの意味もこめてやってみた。
はてな界隈でスタートレック全話追っかけてる人は少ないだろうし、シリアスなファンははてななんて見てないだろうから、自分の価値基準で好き勝手書かせてもらう。
すごく偏ってると思う人もいるだろう。私もそう思う。海外のこの手のランキングでは常連のエピソードも入ってない。思うところがあれば、ぜひ書いてほしい。
なお、全938話は2024年9月末時点での話で、10月から『ローワー・デッキ』の新シーズンが始まったので話数はまた増えている。
スタートレックがSFドラマとして最も輝きを放つのは、銀河に存在する人間以外の存在を通じて、人間とは何かを描くときだ。それはあらゆるSF作品の共通の魅力でもあるが。
本作は人間に造られたアンドロイド、データが、自らの子孫を造ろうとする物語。AIの子供との「ファーストコンタクト」を通じて、子供を持つということが、個人にとって、種にとってどういうことなのかが描かれる。
本作には、派手なアクションシーンもSFXもない。しかし、その物語は喜びとユーモア、発見に満ち溢れ、重い悲劇として幕を閉じる。それは家族を描くキャラクター劇であり、SFであり、力強い人間ドラマだ。
スタートレック立ち上げ最初の年に、スタートレックらしさというものを決定づけた重要な一篇。怪生物の住む惑星に不時着したクルーが脱出するために取る行動を描く。
スタートレックの原型は西部劇(幌馬車劇)と言われるが、これはまさにインディアンに囲まれた幌馬車の設定を宇宙にしたもの。
しかしポイントは、主役がミスタースポックであるという点。感情がなく論理で動くヴァルカン人(と地球人のダブル)である彼は、助かるために論理に従うか、あるいは……。
本作は異星人の視点で人間の感情と理性の葛藤を描き、このモチーフは以降繰り返されることとなる。また作品にシャトルのセットを導入し、物語の舞台を増やした一作でもある。
宇宙大作戦の打ち切り後、少々品質を落としたアニメで継続となった本シリーズだが、名作はいくつかあった。しかし本エピソードはちょっと違う視点で選出している。
これ、実はラリィ・ニーヴンというSF小説家が書いた『ノウン・スペース』というSF小説群のにある短編の一つを、そのまんま映像化しているのだ。出てくる異星人も借りてきたもの。
ニーヴンを知る人も少なくなっただろうが、アシモフやハインラインの後の世代で、ハードな科学設定とエンタメとしての面白さを融合した作品を書き、SF界の潮流を作った人と言える。
本作は、スタートレックの世界観が他作品をまるごと呑み込んでも成立しうる、緩く、包容力のあるものだと示した。ローワーデッキのハチャメチャコメディスタイルが可能になったのも、ある意味この作品のおかげ。
宇宙大作戦にはTV史上初めて白人と黒人とのキスシーンを描いた『キロナイドの魔力』という記念碑的作品があるが、人種問題を深く描いた作品というと、こちらを推したい。
黒人の天才科学者が自らの知能と感情を転写し開発した自動航行AI。それに船を委ね、演習に参加したエンタープライズだが、AIは次第に狂いだす。
本作のAIは自らの判断に絶対の自信を持ち、誤りを認めようとしない。博士もAIを擁護し、次第に我を失っていく……と言うプロット。
AIの恐怖を描いた先進性はともかく、本作が人種問題の作品であることは、日本に生きる我々には少々理解が難しい。
この物語が暗喩するのは、飛び抜けた能力で社会から評価を受け、地位を得たマイノリティの苦しみだ。常に完璧を求められ、ひとつの失敗で社会から振り落とされてしまう、隠れた差別を描いている。
この複雑な問題を1968年のTVドラマに持ち込んだことこそ、評価されるべきだと思う。
「タイムループもの」といえば誰もが1作ぐらい頭に浮かぶだろう。映画『恋はデ・ジャ・ヴ』など様々な傑作がある。
しかし、それらの作品の多くは、「なぜ」タイムループが起きるのかを説明しない。なぜか寝て起きるとループしてたり、なぜか恋が成就するとループを抜けたり……。
スタトレ世界でタイムループを描いた本作が優れているのは、その「なぜ」が明確に定義されており、それを解決することが物語の目的になっている点だ。
突如として起こる反物質爆発で時空ループが生成されると、キャラ達は過去に戻される(都合よく前のループの記憶を保持したりしない)。
そこから毎回、艦のクルーたちは僅かな違和感から少しずつ状況を理解し、「なぜ」かを探り、回避するための答えに近づいていく。
ご都合主義的な「ふしぎな現象」はなく、戦うべき悪役もいない。ハードSF的な状況で、知力に頼ってロジカルに物語を進めていく。しかしこれが最高に面白いのだ!
舞台は艦のセットのみ、登場人物もレギュラーのみというミニマルな作品だが、スタートレックのSF性、センス・オブ・ワンダーを代表する1作だと思う。
スタートレックのフランチャイズ化は、TNGによるリバイバルを経て実質このDS9から始まった。いままでと違ったスタトレを作ろうという意欲に富んでおり、非常に作家性の強いシリーズだ。
未知の世界を訪れる宇宙船でなく、未知の存在が訪れる宇宙ステーションを舞台とし、全7シーズンの後半では巨大な宇宙戦争を連作として描いた。最近の『ディスカバリー』などのシリーズも、本シリーズがなければ成立しなかった。
その総決算と言うべきこのシリーズ最終話は、単体で観るとなると評価が難しいが、173話の積み重ねの末の1話としてみると、ずっしりとしたものが心に残る。
DS9はシリーズで初めて黒人俳優を主役とし、戦争犯罪や植民地主義のもたらす被害をストレートに描き、舞台となる異星の宗教と重ね合わせることで人間の信仰心をも題材にした。
更には、「これは一人の狂った黒人の観た夢なのではないか……」というメタレベルの視点すら取り入れ、多様な視点と重層的な葛藤、その先にある善とは何かを描こうとした。
シリーズに長く付き合うことでもたらさせる重い感動を体験してほしい。
ヴォイジャーはハードSF的な物語よりも、キャラクターの成長やモラルに焦点を当てた傑作が多いが、敢えてSF的なセンス・オブ・ワンダーに満ちた本作を推す。
ネタバレしてしまうが、これは「恐竜人類」の物語であり、「ガリレオ・ガリレイ」の物語だ。
遥か昔に宇宙に出て進化したある種の恐竜と、銀河の反対で出会ってしまった宇宙船ヴォイジャー。それを、なんと恐竜人類側の視点で描く。
故郷の星に、自分たちとは異なる知的種族がいたという事実を知った科学者の知的興奮と、その発見を社会から拒絶され、迫害される恐怖。
SFの根幹である科学そのものを主題にし、人間と科学の関係性に向き合った、ひとつの到達点。深い感動をもたらしてくれる傑作だと思う。
『スタートレック:エンタープライズ』以降停止したTVシリーズを、配信に適した連続劇フォーマットで復活させ、『ピカード』などのシリーズの端緒になった『ディスカバリー』の最終話。
連続劇で見せるスタトレにはまだ課題が多く、特にディスカバリーのシーズン4,5、ピカードのシーズン2などは間延びして物語の行先がわかりづらいという批判があった。
しかし、それらの連続劇も、最終話に来ると、そこまで迷走していたテーマが急にシャンと鮮明になり、ああ、なるほどこういうことだったのか、という感動をもたらす。
特に本エピソードはディスカバリーのグランドフィナーレとなるだけあって、描かれるものも壮大だ。銀河の知的生命の発祥の謎を求めて行われるトレック(旅)である。
しかしその結末、謎は解明されることはない。その代わりに提示されるのは、「真実を求めるトレック」とは何なのか、という命題だ。
スター・ウォーズやマーヴェル作品、ガンダムのような複数作品がひとつの歴史を形作るシリーズの楽しみは、クロスオーバー、そして「設定の穴が埋まる瞬間」だろう。
子供向けのCGIアニメシリーズとして作られた最新作であるプロディジーは、この設定の穴埋めを、他のどんな作品よりも見事にやって見せた。
新スタートレック、ヴォイジャー、ディスカバリー、ピカードなどの実写作品の設定を少しずつ掬い上げ、時に大胆にプロットに取り込んで、独立して楽しめる作品になっている。
その頂点がこのエピソードだ。シリーズを通じてのマクガフィンであったヴォイジャーのキャラクター、チャコテイの姿が見えた時は、その絵だけで感涙してしまった。
実にオタク的な楽しみだが、フランチャイズ作品に長く付き合ってきたものだけが味わえる、究極の悦楽がここにある。
プロディジーの日本語版は、2024年10月時点では製作されていない。英語版だけならNetflixで子アカウントを作り、基本言語を「English」」に設定することで観られる。
はっきり言ってシナリオの全体的な完成度は高いとは言えない。その質についても、表現手法についても注文の付く作品である。しかしどうしても外すことができない一篇がこれ。
1960年代、宇宙大作戦で人種や性別による差別のない理想世界を描いたスタートレックは、1990年代になりその理想のほころびを正直に描くように変化した。
本作で暗喩されるのは、性的マイノリティの直面する差別であり、同時に女性の権利でもある。
物語では、両性具有の種族の星に生まれた「女性」が、女性であると言うだけで罪とされ、矯正を施されようとする。
それは90年代に入るまで見過ごされてきた同性愛者への差別と、「治療」という名の暴力の告発である。
矯正の場へと連れていかれる彼女が最後に、法廷の場で叫ぶ。「私は女だ!」と。
自らの性を自らの物として誇れない、自由に語ることもできない、あらゆる属性の、抑圧された人々の叫びが、そこに込められている。
新スタートレックの日本語吹き替えは名優揃いで品質が高いが、これだけは英語版で観てほしい。その叫びは、魂の演技だ。
今回入れていないランキング定番としては、タイムトラベルの古典的傑作『危険な過去への旅』(TOS)や、エミー賞にノミネートされた世界でもっとも儚いロケットの打ち上げシーンが見られる傑作『超時空惑星カターン』(TNG)がある。
SFらしさが感じられるエピソード中心なので、人気の高いボーグのような強大な敵との対決とか、クルー同士のファミリー劇的な人情エピソードはあまり入らなくなってしまった。
また、『エンタープライズ』(ENT)、『ローワーデッキ』(LD)、『ストレンジ・ニュー・ワールド』(SNW)の作品も入らなかったが、もちろん傑作、快作はいくつもある。
ENTはバルカン人の設定を完成させた『バルカンの夜明け』3部作、LDはアニメならではの手法で連邦、バルカン、クリンゴンの若者たちの生活を描き交錯させた『wej Duj』、SNWは過去作の設定を活かしつつ現実の21世紀の社会情勢を24世紀の世界へと繋いで見せた第1話『ストレンジ・ニュー・ワールド』や、アースラ・ル・グインの小説『オメラスから歩み去る人々』のオマージュである『苦しみの届かなぬ高さまで』を推す。
anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選
↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマ数めっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう
みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェやKindleの50%還元セールでいろいろ読み返してました
選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響は考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。
ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的なメモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。
月2回刊で始まった少年ジャンプの創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号が20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。
そんな中、大家・永井豪が描いたこの作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部の方針は明確であったことである。
過剰ともいえる性描写、教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部の意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである。
頭文字Dや湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー、番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。
思うに、我々の脳には義理と人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志が最初であった。
ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクターの一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的な人間でも、腕っぷしと強靭な精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。
ジャンプが国民的マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治のデビュー作は間違いなくその一つであろう。
当初は型破りな警察官・両津勘吉のドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代のサブカルチャーや政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本の風景を余すことなく取り込んだ作品となった。
浮世絵が江戸の庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語は昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流の庶民の日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所の日常にしみじみと感じ取るのだ。
もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義や兄弟愛をベースにした極めて現実的な作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョーの下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる
───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人的能力)の要素を意識的に再生産していることである。車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ。
同時代の作家に比べ、寺沢武一のデビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラの世界観から引用した本格的なSFのアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングやセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載をはさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。
登場人物も読者も無垢な10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家は絶対にコンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊のサイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデアも寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである。
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情・努力・勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージを単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民的作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから?嶋田のSNSの使い方が下手だから?
キン肉マンはマンガとしてではなく文化的に重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙がクオリティに関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガに熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。
鳥山明の訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。
本作は後にDBやドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である。
言語以前の本能の領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間は鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというものは存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。
Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかしたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現したかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。
それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツのひとつに過ぎなかったサッカーをメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。
元増田を書いたとき、ブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである。
自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である。1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプの原風景だった。
強くてカッコいい大人の男が弱肉強食の戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガが流行る時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。
かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。
きまぐれオレンジ☆ロードは申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子の日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常に需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。
まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかのキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずにはいられない。
鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピやナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れで無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。
鳥嶋和彦の意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガを金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。
11年に渡る孫悟空の冒険をもって、鳥山明は日本のマンガ文化が世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身が手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春、萩尾望都、藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである。
車田正美はリンかけで過去のジャンプ作品の再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身の作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。
彼はギリシャ神話と宇宙、子供向けと大人の女性向け、劇画とプラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美の世界を前人未踏の領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。
ある一定の世代の人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまらん作品という評価が下されることがあり、そこには50%の事実と、50%の誤った認識が含まれている。
荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間が果たして何人いただろう?
幽波紋と、理不尽な能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものである。キャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引きの領域に落とし込むことに成功したのだ。
我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出しで表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガの世界に誘ったのである。
◆再追記
anond:20241026155116←皆さんの意見を受けてリライトしました、よかったら読んでみてね
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ランキングではなく、連載開始順に並べただけです
忌憚なき意見、待ってるぜ
黎明期レジェンド枠。サービスエロがジャンプマンガの大きな側面を担っていた事実は否定できないし、そもそもこの作品の売上が無かったらジャンプが存続してたかも怪しいので入れざるを得ない。
黎明期レジェンド枠2。ジャンプ黎明期の売り上げを支えつつ、不良系マンガを一大ジャンルとして確立させた意味で実は物凄く偉大な作品。これが無かったらろくブルも東リべも存在しない。
ギネス記録である40年にわたる長期連載、そしてサブカルチャー全般を積極的に題材として取り入れたことで現代日本の風俗、文化を凝縮したような史料的価値を持つ作品になった点を評価したい。
黎明期レジェンド枠3。売り上げもさることながら、見開きを用いたド派手な演出の数々や、「荒唐無稽な能力バトル」というジャンルを確立させた点を評価したい。(このジャンルのパイオニアはアストロ球団なのだが、後進への影響はこちらが上かなと思う)
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。初めてのジャンプ黄金期を作った作品で、キン消しをはじめ一般社会への影響力もすごい。いわゆる「友情・努力・勝利」はほとんどキン肉マンで作り上げられたといっても過言ではない。
勝利や友情といったそれまでのスポーツマンガの王道を抑えつつも、キャッチーな必殺技を取り入れ実際のスポーツ以上のエンタメ性を付与した。マンガ史全体としてはドカベンがこのジャンルのパイオニアだけど、ジャンプで言えばキャプ翼がそれ。海外で人気が爆発したほぼ初めてのジャンプ作品という点も重要。この作品がなければメッシはサッカーやってなかったかも。
80年代のジャンプの象徴といえる作品。創刊以来、ジャンプの主たる系統であった劇画タッチやハードボイルドな男向けの作風の最高到達点。
ラブコメから選ぶならこれ。決して革新的な要素があったとは言えないが、当時のジャンプが唯一苦手としていた王道ラブコメで人気を得たことが重要。ポップ路線を持ち込み、ジャンプ紙面の多様性はより進むことになる。
90年代中盤のジャンプ黄金期を牽引した作品であり、連載が終了してなおもジャンプ、日本のマンガ文化の頂点に君臨する作品。急激な路線変更、無理やり感ある後付け設定と引き延ばしなど、負のジャンプらしさをも象徴している。
国民的作品として定着してきたのはここ数年って感じはするけど、現代の異能バトルマンガはほぼ全てジョジョ3部の影響下にあると思うので入れざるを得ない。
バスケマンガ、いやスポーツマンガ史上の最高傑作。勝利と成長の喜び、敗北と挫折の苦さがこれ以上なく詰まったタイムレスな名作。もし序盤の不良マンガ路線を継続していたら日本のバスケットボールの歴史は(恐らく悪い方に)大きく変わっていただろう。
特筆して後世への影響や売り上げがずば抜けている印象はないけど、DB幽白スラダン終了後ワンピナルトブリーチが現れるまでの柱としてジャンプ暗黒期を支えた世代の代表として入れておきたい。
純粋なギャグ枠から一作入れたかった。ナンセンス、シュールさを主体としたギャグをジャンプ誌上で成功させた最初のマンガ。下品さやエロさを排除した純粋な面白さを追求した点が重要。その影響度は「マネもほどほどに...」という注意書きが当時の新人賞の要項に書かれるほどだったそう。
正直マンガ作品としての完成度は大したことない。だが集英社における映像媒体以外のメディアミックスとして最大の成功例であり、TCGを日本に定着させた初めての作品であり、暗黒期の集英社(とコナミ)に莫大な富をもたらしたことが重要。お金は正義。
大河ドラマ的な作風であったり、連載中であったり、作画コストが高すぎたりで他作品へ与えた影響がまるで感じられない(マネしたくてもできない)点が評価を迷うポイント。それでもなんだかんだ国民的マンガ、ジャンプの看板の地位は譲ってない。幼少期から温めた構想を週刊連載で30年かけてやる人間って歴史上存在しないと思うので、そういう意味では既にマンガの枠を超えた注目度になりつつある。
残酷で先の読めない展開、異常に複雑で難解な設定、それでいて少年マンガ的なシンプルな熱さを持ち合わせた稀有な作品。「続きが気になるマンガ」を描かせたら冨樫以上の人間はいない。ハンタの最終回を読むまでは死ねない。
サスペンスを主体としたマンガとしてこれ以上ない完成度。ジャンプ作品を大別するとバトルものスポーツもの恋愛ものギャグもののどれかになるが、それ以外のジャンルで最も成功を収めた作品。
ワンピース以降不在だった、圧倒的な看板力を持つマンガ。趣味の多様化、出版不況といった逆風を跳ね返し、国民的な作品を生み出す力がマンガにまだあると示した功績がデカい。
今のジャンプがジャンルレス化している最大の要因はジャンプ+の影響であり、その代表格ともいえる藤本タツキを入れないわけにはいかない。まだそこまで顕在化してないけど、今後10年でタツキフォロワーが無限に産まれそうな予感がするので入れておく。
◆追記
ブリーチ→個人的にはリストに入れるべきか一番迷った作品。るろ剣と入れ替えてもいいかも。売上的にも後世の影響的にも入っていいと思うけど、他の超長期連載作品と比べ終盤面白さを保ててなかったところがちょっとマイナス。実際掲載順もどんどん下がってたし
銀魂→人気売上的にはあり、メディアミックスの成功度も高い。ただ銀魂がなかったと仮定した時のマンガ史的影響力があまり感じられないので外した
シティハンター→人気売上的にはあり、ただハードボイルドでもコメディでも上の作品が複数あるように思う
テニプリ→正直候補に入れてなかったけど腐人気の拡大とテニス人口の拡大という意味ではたしかにアリだなと思った。入れ替えるならチェンソかデスノかな
ハンタより幽白→これ言うと公平性を欠いてると言われそうだが、俺は冨樫がジャンプ史上もっとも偉大なマンガ家であるという前提で全作品を評価している。幽白は序盤の人情モノ路線と打ち切りで冨樫の作家性が薄まっているように感じるため、より純度の高いハンタを選出。ただ未完に終わったなら幽白でもいいと思う
リンかけより聖闘士星矢→書いたように能力バトルマンガのパイオニア的存在であることを重視した。1作家1作品縛りなければ入れてもいい
ひばりくん→もともとギャグマンガとして書かれた作品なので評価に迷う。入れ替えるならオレンジロードなんだけど、あえてオレンジロードを入れたのはジャンプでギャグ要素を排した恋愛マンガをヒットさせたことによる後世への影響を重視したからなので...
サーキットの狼→ジャンプ史においてレース漫画の存在感がさすがに薄すぎると思う、必然的に後世への影響力も低く評価せざるを得ない
漫☆画太郎→画太郎のギャグは面白いけど汎用性や他作家への影響に欠ける。なぜなら絵柄ありきで、良くも悪くもマネができないから。俺がうすたのギャグを高く評価する理由は、ストーリーににも絵柄にも下ネタにも頼らない純度の高さ(=マンガにおける笑いの一般化)にある
呪術→はっきり言って候補にも挙げてなかった。同世代のチェンソ鬼滅より明確に格下だし、そもそもコンセプトがジェネリック版ハンタでしかない以上このリストには入れられない。冨樫になくて芥見にはある面白さがあるとするならば俺とは感受性が根本的に合わない
男塾→あれは劇画タッチとバトルものという過去のメインストリームをメタにしたギャグマンガなので、他作品の影響を大いに受けた側。このリストには入らない
↓1968年生れの56歳だけど、たしかに子どものころはこうだったわ。
雨に濡れると頭が禿げるって姉に教えられた記憶がかすかにあったけど、あれは核実験があったからだったのか。今知った。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6094985.html
【悲報】昭和(高度成長期1954~1973) の日本、ヤバ過ぎるwww
・川は公害で真緑色、海は赤潮で赤色。背骨がグネグネの魚が取れる
・発がん物質DDTを頭からぶっかけ。今は使えない危険な農薬も使いまくり
・中共の気違いがぼかすか原爆の空間実験をしていたから雨に濡れると頭が禿ると親に叱られた
・人さらいが横行してたから5時過ぎまで外で遊んでると「サーカスに売られてしまうから」という理由で親に殴られた
・どぶ川はメッキ工場の青酸廃液できれいなエメラルド色がデフォ
・高校進学者はほぼ夜間の定時制で昼間の重労働でばたばた過労で倒れた
・東京との賃金格差が広がり地方の過疎化と高齢化が始まり三ちゃん問題が発生
・ソーセージ工場からは肉の生残滓がものすごい蒸気とともに排出されて即腐敗
・ジュースの素はなぜか陽の光に当てると色が消えた
・川崎球場はガラスでできた1合瓶が後ろから飛んできて普通のサラリーマンが殺し合いのけんかをしていた
・おとなは戦争で人を殺した経験があるやつがうようよいたからけんかはいつも殺し合いのようだった
・下水がないので、バキュームカーという糞尿収集車が定期的に来る
・空き地が多く、危険な薬品や資材などが雨ざらしなってて子供がそこで面白がって遊んでた
・野犬がうろうろしていて襲い掛かってくる
単なる目先の生活のためが圧倒的に大多数
経営者はみな頭を抱えることになる
***
***
『市川房枝集』に収録されてる
1930年に書かれた『現代の婦人問題』という文章にはこうある
まったく見られないといっても差し支えはない。」
***
黒澤明が戦時中に監督した国策映画『一番美しく』を見るとわかる
***
そのころの大学進学率はせいぜい30%台な
***
『「育児休職」協約の成立 高度成長期と家族的責任』(勁草書房)
という本によれば、1968年の専売公社職員の女性比率は43%(1万5600人)
平均年齢は35歳、平均勤続年数は16.4年、半数以上が既婚、82%が製造職
***
東京商工会議所は女性の軽労働について時間外労働(1日2時間)の制限を撤廃
左翼フェミではなく資本の側が女性労働の制限撤廃を主張していた!!!!
***
実際にあったのは「すでに働いてる女も男と同待遇にしろ運動」な
それが実現したのが1985年の男女雇用機会均等法なのだが……
***
「この法そのものが、職場での男女平等を進める労使の合意によって生み
だされたものではなく、国連の婦人差別撤廃条約を批准するため政府が成
立を急いだという色彩が強いことから、「お役所仕事として、性急にコト
を運ばれては困る」(大手通信機メーカー)という批判も出ている。」
「西欧諸国の中には「安い女子労働で支えられた日本の集中豪雨的な輸出
が貿易摩擦を生んでいる」と非難する向きもあり、同省は「こうした誤解
――雇用機会均等法の成立は左翼フェミや労働組合の要望もあったが
俺も当時の事情を調べ直してこの辺の経緯を知ったら驚いたが
***
という論旨なのであるが
***
いまだに定期的に
論者がくり返し何度も飽きずに出てくるが
悪いけど完全に的外れなんだよ
ま、絶対に信じたくないだろうけどね
Pamela
女性の名前で、フィリップ・シドニーが1590年代に出版した「アルカディア」で作り出されたとされています。ギリシャ語のpan-(「すべて」を意味し、語頭の子音が唇音の場合はpam-になります。詳しくはpan-を参照)とmeli(「ハチミツ」を意味し、Melissaの最初の要素にもなっています。PIEの*melit-ya(「ハチミツ」を意味する語根*melit-の接尾語形)から来ている)の合成で、「全てが甘い」という意味を持つとされていますが、これは推測に過ぎません。この名前はサミュエル・リチャードソンの小説「パメラ」(1741年)によって人気が高まりましたが、1920年代になってから一般的になりました。アメリカ合衆国で生まれた女の子の名前として1947年から1968年までトップ20に入りました。
その一 https://anond.hatelabo.jp/20240318182037
東口の地下に何やら変な駐輪場があるのだが、実はこれは1990年までは地下街であったのだ。出来たのは1960年代のはず。
天井低くてしょぼいし店舗も狭いし店も昭和中期っぽくて古いしで、テコ入れされないままに90年に廃止。
というのも、90年にそごうが出来る事になったので、橋上駅の高さのままにデパートに入れるペデストリアンデッキを築造し、地下じゃなくて上の方で発展させる方向になったのやね。
で、駅の真ん前のデッキの基礎を建てるには地下街通路が邪魔。って事で、通路を閉鎖してデッキ基礎が貫通する形になった。残りの部分は店舗仕切りなどを取っ払って駐輪場へ。
なので一部閉鎖区画があって鉄板や木の板で塞がれているのだ。増田はここにどうにかして侵入できないかを昔から考えているのであった。
ちょっとあるよ。
本来、東アジア反日武装戦線「狼」はお召列車爆破と昭和天皇暗殺を狙っていた。場所は東北本線貨物線荒川鉄橋。
1968年まで赤羽以北の東北本線は貨客混合の複線だったが、輸送力増強の為に複々線化されて貨客分離された。これでお召列車は貨物線を走るようになった。原宿駅のお召列車ホーム自体が山手貨物線に接続されているから。
そうすると、貨物線橋梁爆破しても一般人に危害は与えないという事になる。そこで一味は爆弾設置の為に電線を設置しにいくが、人影があり、付近を徘徊しているので恐れて中止した。
そこで目標を変更して三菱重工爆破事件に至ったというワケ。元の一般人への危害回避はどこに行ったんだ。川口の乗越線はやっぱりこの貨客分離が元だから関係があると言えば関係がある。
wikipediaの虹作戦の項には「爆弾を仕掛けようとしたのは旅客線」と書いてあるが、これは間違いじゃないかと思う。そこは間違えんだろうし、増田が聞いていた話と違う。
東口駅前のそごうはそごう西武グループが売却してゴーストビルのままになってるが、三井が取得する見通しと、去年市議会で報告があった。三井という事はララガーデンとかららなんとかとかららクロフトとかになるのかと思われる。
しかしデパートというのはハイコスト、ハイリターンの業態に合わせた建物で、コストがメチャクチャかかるんだな。それは冷暖房費やエレベーター、エスカレータなどもそうだし、搬入口が狭くて外部の納品代行業者経由で整理して混載で搬入するのでないとパンクするっていうのもある。
だから巨大ダイソー一棟貸しみたいなのなら行けるが、色んなテナントが入って納品代行は使わないっていうのは無理など、難点が多いのだ。
そもそもデパートの損益分岐点って日商4000万円とかそういうレベルなんでショッピングモールなんかに入るテナントと業態が合わないのだ。
だからどうなんのかなと様子見。結局開店が流れちゃう可能性もあるね。
SLあおば通りって道があって、ファミマのSLあおば通り店っていうのもありhttps://maps.app.goo.gl/fWvvCmGbAjvhLPZw6 、道筋にはSLのオブジェとかもある。
でもこれインチキなんだよね。ここに線路があった事ってないんだ。
アリオは元はビール工場で、そこと川口貨物駅の間にユニオンビール専用線という貨物線があった。でもその専用線は現線路に平行していてJRが保線基地に使ってる。
そこでビール工場跡を再開発するにあたり、専用線跡を記念するオブジェを配置したい、でも専用線跡はJRが使ってる…って事で隣の道を指定しちゃったと思われるのね。こういうのは混乱の元だから止めて欲しいですな。
あるね。https://maps.app.goo.gl/dGPVNnEXP6hMg3n26
植物の繁茂で全然読めないが、実は同じものが陸橋の西詰にあるよ。https://maps.app.goo.gl/GNdf7d4UP3eT9aYj7
石碑の内容は、整圃事業の謝辞だよ。戦争中にまだ農地ばかりだった駅付近一帯を碁盤目状に土地の区画整理をして、その協力した地主達を名上げして感謝している。川口は江戸から離れ鋳鉄で栄え舟運で製品を出荷してやがて鉄道が来て~という事を漢文で書いてある。
この区画整理を戦前にやっておいたせいで、戦後に鉄の民需が爆上がりした時に鋳鉄工場が大量に出来て鉄の街となったのだな。
また、最初の碑がある場所というのは実は大踏切があった場所だ。駅の方から来た道が斜めに線路群を渡り、対面の斜めの道に踏切で抜けていた。
でもこれは当然危ないわけで、昭和30年代に埼玉県は荒川~大宮間の踏切を全部立体交差にする工事をしたのだ。それでこの大踏切も廃止になって代わりにこの北の川口陸橋が掛けられた。
因みにこの陸橋の開通セレモニーでは神主が来てお清めしてから神主が渡り初めをしているのが写真に残っている。
だから王子から赤羽には踏切が幾つか残っているのにその北の大宮には踏切が無いのだ。
多分西詰の石碑は元は大踏切の反対側にあったのがこの時に移動されたのではと思う。
タワマンというのは住宅地には建てられないの。日影規制もあるし、日照権も主張できるからあとから訴訟になる。
でも商業地や工業地ではそれらは主張できない。だから工業地帯から転換した地域はタワマンに最適というか、それ以外では建築が難しいの。
更にタワマンには建物の周りに公開空地を設けないとイケないのだが、「大規模な町工場」というのはこれで必要とされる広さに丁度いいのだ。
そういう訳で、川口にある〇〇製鉄、○○鋳造なんて名前の会社は、多くがもう工場を持ってないか縮小して他所に移転していて、不動産業メインの会社ばかりになってる。
日本初のタワマンは川口元郷のエルザタワー32なんだけど、ここは日本ピストンリングというエンジン部品を造っていた会社の工場だったところ。
因みにピストンリングは昔は鋳鉄を丸く繰り抜いたものが使われていた。鋳鉄には細かな穴が沢山あるのでここにオイルを保持して焼付き防止になっていたのだ。って事でやはり川口なので鋳鉄なのだ。
その丸井が閉店になって共同所有になり、ビるの愛称を決めた。もとが0101だから1110って訳でシャレや。
駅西口から徒歩7分くらいの所に飯塚氷川神社という神社がある。https://maps.app.goo.gl/fKh6qXTZGCNTYGRE9
ここだが、境内に結構古い社務所があるのだが、なんとこの社務所、選挙の投票所に指定されている。中は畳と板張りなんだが、そこに土足で入れるようにシートを敷いて投票箱と記帳所を置いて公職選挙が行われる。
すげえ田舎や離島で神社が投票所というのはあるだろうが、東京都境から徒歩10分、駅で一駅のタワマン林立地帯でこんな投票所があるというのは珍しいんじゃないか?
好事家の皆さんは選挙の日に覗きに来てはどうだろうか?
何?じゃなくて教習所や。元々地産グループの教習所だったが、グループ首魁が逮捕された影響で元会社が倒産、売りに出されて飛鳥ドライビングカレッジとなっている。
ここだが、ちさん時代から教習料が安いのが特長。都心から近いのに首都圏で一番安いという穴場なんだな。免許取りたい人はイイゾーここ。
因みに2019年台風19号の増水ではコースが7mの泥水の底になって、後にはコースも見えない泥の沼が残り、教員たち総出で泣き泣き泥かきをしたそうだ。
1948年 41人
1949年 76人
1951年 40人
1952年 34人
1953年 26人
1955年 19人
1956年 22人
1957年 25人
1958年 21人
1959年 14人
1960年 36人
1961年 18人
1962年 14人
1963年 16人
1965年 7人
1967年 13人
1969年 13人
1971年 7人
1972年 7人
1973年 5人
1974年 2人
1975年 2人
1976年 2人
1977年 2人
1978年 4人
1979年 4人
1980年 7人
1981年 3人
1982年 1人
1983年 1人
1984年 3人
1985年 2人
1986年 0人
1987年 7人
1989年 5人
1990年 7人
1991年 4人
1992年 5人
1993年 7人
1994年 3人
1995年 3人
1996年 3人
1997年 4人
1998年 7人
1999年 4人
2000年 6人
2001年 3人
2002年 3人
2003年 2人
2004年 14人
2006年 21人
2009年 15人
2013年 8人
2014年 7人
2015年 2人
2016年 7人
2017年 2人
2018年 2人
2019年 5人
2021年 4人
2022年 0人
2024年 1人
所感
かの有名な「ドラえもん」というSF日常ギャグマンガに「のら犬『イチ』の国」というエピソードがある。
のび太が拾ってきたノラ犬に知性を植え付けて過去のどこかの土地で、捨てられた動物の国を作らせて問題解決、というあらすじだ。
このエピソード、昔からなんとなく苦手で、知性をもったイチの描写が怖かった点も大きいのだが、そのまま歴史が進んだら人類社会誕生しないんじゃね? という妄想に発展するのも大きいな、
と考え直していた。
そうすると、特別にドラえもんが好きというわけでもないが、「ガラパ星から来た男」も似たような部分がある。
または「パラレル西遊記」もちょっとばかりではあるが、似たニュアンスの描写があることに気づいた。
さて次の段で、他の作家、作品はどうかなー? と進んだのだが、たまにSFを読むくらいの自分には、ほぼ全然これが思い当たらない。
というわけで、掲題のとおりなのだが、過去を改編するタイプのSFで、そもそも地上に人類種がまったく、あるいはそんなに反映しなかったってタイプの作品、なにかありますかね。
【追記】
はじめて増田に記事を書いて誰も読んでないかなーと放置してたらメッチャ反応してくれてました!
ありがとう!やっぱ増田は SF に限る! 以下、自己満足のレスです(主に作品について)。
はじめて増田に記事を書いて誰も読んでないかなーと放置してたらメッチャ反応してくれてました!
ありがとう!やっぱ増田は SF に限る! 以下、自己満足のレスです(主に作品について)。
srgy 条件に合うかわかんないけど、ジーンダイバー(の前半)は人類が存在しない歴史に改変しようとする 齧歯類が進化した種族を、主人公が阻止しようとする話
他の方も挙げてくださってましたが『ジーンダイバー』。アニメか! おもしろそう。世代にはあたっているハズなのに記憶がない…。ありがとうです。
mujisoshina 過去改変とは違うが、火の鳥未来編で電子頭脳による核戦争で人類が滅亡した後に、知性を持ったナメクジによる文明が発展してしまう話は記憶に残っている。
未来編も多かったですね。やっぱり異種の文明なりが発展するというのがインパクト強いのかな。
kotetsu306 過去改変で人類の存在を無かったことにしようとしてくる異種族と戦うお話なら、小川一水「時砂の王」かな。小林泰三の短編「時空争奪」もSFホラーで良い
「時砂の王」そんな感じなんですね。読んでみます。小林泰三も触れたことないんで、これを機に…。
コードウェイナー・スミス! 名前は知っていたがこちらも未読。リストに入れておきます。
aaa_too_zzz エブエブみたいな平行世界、マルチバースものなら人間とちょっと違う生物が繁栄していたり、まったく生物がいない世界が描かれることはよくある
「エブエブ」避けたんすけど、そういう描写があるんですね。確かにマルチバース系だと可能性のひとつみたいな感じで出てきますな。
『虚構船団』第2章いいですよね。第3章の落差がまたいい(第3章がいいとは言ってない)。
こちらも挙げてくだった方が多いが、やはり「猿の惑星」のインスピレーションとバリエーションはありますよね。
x100jp 『なぜ僕の世界を誰も覚えていないのか?』は、"地上の覇権を争う五種族の大戦が、人類の勝利に終わった時代。だがその世界は、少年カイの目の前で突如として「上書き」された。"とのこと。
これ! 最近は追ってないですが、よい(よかった)ですよね。
nomitori アメコミだと、征服者カーンが毎回毎回そういうことしようとしてアベンジャーズに退けられているな…。もっと上手くできたやろって思ってしまいがちなのでこの手の話はあまり好きでない。
アメコミなるほど。「やりようあるだろ」という感想を抱きがちなのもわかります。
IvoryChi 人類の大半が「変わって」しまった話ならSCP-3936【職務に忠実であれ】がいいよ。非人間型とされる生き物の特徴が明らかに普通の人間なのがこわい
SCP というコミュニティを知らなかったです…。こわい…。
kotaponx 過去改変というか未来から過去を改変するためにやってくる……といえば、スティーブン・バクスターの時間的無限大かな。ジーリークロニクルの中では一番好き
こちらは作家も作品も知らず。ハヤカワ文庫で95年の作品ですか。ありがとうございます!
zeromoon0 その流れなら「竜の騎士」を外しちゃいけないし竜の騎士をなかったことにして新恐竜を「恐竜映画3作目」とかほざいたドラえもん公式を私は許さない。
他の方も挙げてくださっているが「竜の騎士」は、「それでも恐竜は救えなかった」からの反転がキモだと思っているので、入れませんでした。「新恐竜」の元ネタの贅沢さに比べた完成度はね。祈りましょう。
wdnsdy 未来→現代だけど、漫画「BLACK BRAIN」が未来の人類種の覇権を賭けて現代(連載が90年代なので90年代)の主人公が無理矢理戦わされる話。ただしかなり人を選ぶエログロな作風。正直人類が覇権取る世界もどうなんだと思う
こちらも作品を知らず。ありがとうございます。「正直人類が覇権取る世界もどうなんだと思う」いいですね。
azumi_s ソシャゲの「ブラック★ロックシューターFRAGMENT」がわりとそんな感じ。世界線が爆発的に分岐した影響で知性を持った野菜が支配する世界とか色々出てくる(そんなんばっかではないが)
へぇー、あのゲームってそんな感じですか。ソシャゲはストーリーの都合上、マルチバース取りがちですね。
たしかに『創世のタイガ』もこの気はある作品ですねぇ。いまはWebだけでしたっけ。
いや! まさしくそのイメージです! 思いついてたんですが、ゲッターをちゃんと補給したことなくて…。
dada_love FGOの第二部がまるっとそんな感じなのでおススメ
FGOもそんな感じなのかー! でもFGOは多分やらない…。ありがとうございました!
豊田有恒もこの手の作品を書いているんですね。あとはやっぱり恐竜系は多いか。
『地球の長い午後』ってそうなんすね。たしかに話題の趣旨から外れるけど、これはかなり読みたい。
Machautumn パラレルワールドものなのでちょっと趣旨と違っちゃうけど、ロバートJソウヤーの『ホミニッド-原人』はネアンデルタール人が支配する世界の話だったはず (未読なので作品の評価は控える)。
一緒に読みましょう!
イーガン、読んだり読まなかったりですが、『順列都市』(積読)ってそんな! ありがとうございます!
これね!
tcmsc 『アーロと少年』『サウンド・オブ・サンダー』
bokukanochat 銀魂が思い浮かんだ。いい設定だよなぁ
これもいくつか挙げてもらったけれど、そういえばそういう設定だったですね。江戸時代の改変モノは割と面白いですよね。
tomoP ネタバレになっちゃうけど、『Holy Brownie』では一番最初にホモ・サピエンスへ分岐した個体を殺しちゃうことで人類が絶滅する。その結果の世界が『エクセル・サーガ』
六道神士。すんなり読めるときと入り込めないときがあるんですが、なるほど。機会を探してみます!
hate_flag 地球人はじつは侵略者で、原生地球人たちは海底に生き残っていたというのがウルトラセブンの『ノンマルトの使者』(そして海底も侵略しちゃうんだ地球人…)
やっぱりウルトラセブンは避けて通れないんですね…。ありがとうございます。
rider250 ちょっと趣旨が違うけどバクスターの「タイム・シップ」(ウエルズの「タイムマシン」の続編)で時間旅行ポンポンできるようになった人類が恐竜時代より過去に遡って月まで開発してしまうのは壮大だったなあ。
pptppc2 ブコメで出てるクロノトリガーの数あるマルチEDの一つ「恐竜人が支配した世界」は、実は続編のクロノクロスでかなり重要な役割を持ってたことに驚いたよね。気になる人は是非クロノクロスをプレイしよう!(ダイマ)
もとひら先生はほんとうにすごい!
ちょっと変化球気味な気もしますが、たしかに!笑 永井よ永遠に。
kou-qana ちょっと違うかもだけど「天のろくろ」は…うーん、全然違うか。「今・この現在」が、なかったことになる感はあると思うけど進化史レベルではない…。パラレルワールドものにはありそう。
参考にさせてもらいます!
『星を継ぐもの』も似たようなニュアンスでしたよね(うろ覚え。『さよならダイノサウルス』ありがとうございます。
これSCPですか?
debabocho 意外と難しい。ソウヤーの『ホミニッド』は人類の代わりにクロマニヨン人が文明の主役として進化したパラレルワールドと行き来する話だけど、歴史改変じゃないし乗っ取られるわけでもないからなあ。
ROYGB 親殺しのパラドックスの種族版と考えれば昔のSFでありそうな気はする。新しい方のスタートレックの映画で、過去に戻ったボーグによって全人類がボーグになってしまい、それを阻止するのがあった。
スタートレックも押さえてそうなネタですよね。新版ではあると。
たしかに! そういえばそうでした! 光永康則も藤子・F フォロワーですからね。ありがとうです。
なるほど。ここまで挙げてもらった作品でも侵略側がっていう視点は少なかった。ありがとうです。
これはね、そうですよね。『創世のタイガ』の元ネタのような気もします。小松作品だとややズレますが『ホムンよ故郷を見よ』は似たような驚きをくれますね。
昔のSF物や宇宙物の流行りは、ハリウッドの実写映画がベースで、当時はCGが無いからすべて特撮なので、どうやって撮っているんだ?と不思議に思いながら見ていたのがワクワク感に繋がっているんだと思う。代表的なものとしては1968年作の『2001年宇宙の旅』で、宇宙船の中でペンが宙に浮いてて、それをキャビンアテンダントがキャッチしてお客さんに渡すんだけど、どうやってペンを浮かせて、それをキャッチしたのかさっぱり分からなかった。
で日本のSFや宇宙物はハリウッドのように実写では作れないから、漫画やアニメにしてんだと思うし、絵やアニメでの迫力の出し方がどんどん発展していったんだと思う。
僕は30代でまあまあおっさんだけど、それでもイマイチ昔の流行りがわからん。
ちなみに僕が子供のころは異世界へ主人公が「落とされる」系の【ファンタジー】が全盛期だったと思う。レイアースとかエスカフローネとかその辺。そのちょっと前は、スレイヤーズとかロードス島とか。
で、明らかにその少し前に、【前世もの】や【超能力もの】が流行った形跡があって(僕の地球を守ってとか)、【SF】とか【宇宙もの】はさらに前な気がするんだけど、あってる?
僕の雑な理解では、「ロボットものが流行ってたところに、青年向けに戦争や宇宙ものの要素を加えて、当時新しかったのが、ガンダムだった」って感じなんだけど、これは正解?
で、本題としては、なんで流行ったかっていうのは、やっぱ60年代のアポロ計画の成功とか、大阪万博の月の石とか、あるいは、「かがくのちからってすげー」みたいな時代の空気が影響しているってこと?
個人的には、「かがくのちからってすげー」っていうのはいまいちよくわからなくて、「リニアだってあれほど騒がれてたのに実現するまですごく時間がかかったじゃん」とか思ってしまうけど、昔は違ったのだろうか。
まあ、僕には、あんまり科学の発達が社会の発展・生活の改善につながったという実感がないからかもしれない。それと、科学全般というよりは、パソコンやインターネットに夢を見た、というところはある。
以下参考。
ちょっとずつ伸びてて嬉しい。
なるほど、松本零士(1974年宇宙戦艦ヤマトなど)の影響が大きいのか。大変勉強になりました。
(今、ガンダムSEEDの総集編の映画やってるんだけど、ヤマトのリマスター映画の予告編流れてたな、そう言えば。)
あと、当時の宇宙開発はスピード感がすごかったんだね。これだと数十年後にはきっと、みたいな期待もあったんだね。
それと、
この説明、理由そのものとはズレるのかもしれないけど、当時の状況としてめっちゃわかりやすかった。
「昔はこういうワクワクがあったんだよ」っていう語りがいろいろあって、少し楽しい気持ちになれました。
wikipediaのSFのページ、めちゃくちゃ充実してるね。教えてくれてありがとう。あと、『不死テクノロジー』読んでみます。
かの有名な「ドラえもん」というSF日常ギャグマンガに「のら犬『イチ』の国」というエピソードがある。
のび太が拾ってきたノラ犬に知性を植え付けて過去のどこかの土地で、捨てられた動物の国を作らせて問題解決、というあらすじだ。
このエピソード、昔からなんとなく苦手で、知性をもったイチの描写が怖かった点も大きいのだが、そのまま歴史が進んだら人類社会誕生しないんじゃね? という妄想に発展するのも大きいな、
と考え直していた。
そうすると、特別にドラえもんが好きというわけでもないが、「ガラパ星から来た男」も似たような部分がある。
または「パラレル西遊記」もちょっとばかりではあるが、似たニュアンスの描写があることに気づいた。
さて次の段で、他の作家、作品はどうかなー? と進んだのだが、たまにSFを読むくらいの自分には、ほぼ全然これが思い当たらない。
というわけで、掲題のとおりなのだが、過去を改編するタイプのSFで、そもそも地上に人類種がまったく、あるいはそんなに反映しなかったってタイプの作品、なにかありますかね。
【追記】
はじめて増田に記事を書いて誰も読んでないかなーと放置してたらメッチャ反応してくれてました!
ありがとう!やっぱ増田は SF に限る! 以下、自己満足のレスです(主に作品について)。
はじめて増田に記事を書いて誰も読んでないかなーと放置してたらメッチャ反応してくれてました!
ありがとう!やっぱ増田は SF に限る! 以下、自己満足のレスです(主に作品について)。
srgy 条件に合うかわかんないけど、ジーンダイバー(の前半)は人類が存在しない歴史に改変しようとする 齧歯類が進化した種族を、主人公が阻止しようとする話
他の方も挙げてくださってましたが『ジーンダイバー』。アニメか! おもしろそう。世代にはあたっているハズなのに記憶がない…。ありがとうです。
mujisoshina 過去改変とは違うが、火の鳥未来編で電子頭脳による核戦争で人類が滅亡した後に、知性を持ったナメクジによる文明が発展してしまう話は記憶に残っている。
未来編も多かったですね。やっぱり異種の文明なりが発展するというのがインパクト強いのかな。
kotetsu306 過去改変で人類の存在を無かったことにしようとしてくる異種族と戦うお話なら、小川一水「時砂の王」かな。小林泰三の短編「時空争奪」もSFホラーで良い
「時砂の王」そんな感じなんですね。読んでみます。小林泰三も触れたことないんで、これを機に…。
コードウェイナー・スミス! 名前は知っていたがこちらも未読。リストに入れておきます。
aaa_too_zzz エブエブみたいな平行世界、マルチバースものなら人間とちょっと違う生物が繁栄していたり、まったく生物がいない世界が描かれることはよくある
「エブエブ」避けたんすけど、そういう描写があるんですね。確かにマルチバース系だと可能性のひとつみたいな感じで出てきますな。
『虚構船団』第2章いいですよね。第3章の落差がまたいい(第3章がいいとは言ってない)。
こちらも挙げてくだった方が多いが、やはり「猿の惑星」のインスピレーションとバリエーションはありますよね。
x100jp 『なぜ僕の世界を誰も覚えていないのか?』は、"地上の覇権を争う五種族の大戦が、人類の勝利に終わった時代。だがその世界は、少年カイの目の前で突如として「上書き」された。"とのこと。
これ! 最近は追ってないですが、よい(よかった)ですよね。
nomitori アメコミだと、征服者カーンが毎回毎回そういうことしようとしてアベンジャーズに退けられているな…。もっと上手くできたやろって思ってしまいがちなのでこの手の話はあまり好きでない。
アメコミなるほど。「やりようあるだろ」という感想を抱きがちなのもわかります。
IvoryChi 人類の大半が「変わって」しまった話ならSCP-3936【職務に忠実であれ】がいいよ。非人間型とされる生き物の特徴が明らかに普通の人間なのがこわい
SCP というコミュニティを知らなかったです…。こわい…。
kotaponx 過去改変というか未来から過去を改変するためにやってくる……といえば、スティーブン・バクスターの時間的無限大かな。ジーリークロニクルの中では一番好き
こちらは作家も作品も知らず。ハヤカワ文庫で95年の作品ですか。ありがとうございます!
zeromoon0 その流れなら「竜の騎士」を外しちゃいけないし竜の騎士をなかったことにして新恐竜を「恐竜映画3作目」とかほざいたドラえもん公式を私は許さない。
他の方も挙げてくださっているが「竜の騎士」は、「それでも恐竜は救えなかった」からの反転がキモだと思っているので、入れませんでした。「新恐竜」の元ネタの贅沢さに比べた完成度はね。祈りましょう。
wdnsdy 未来→現代だけど、漫画「BLACK BRAIN」が未来の人類種の覇権を賭けて現代(連載が90年代なので90年代)の主人公が無理矢理戦わされる話。ただしかなり人を選ぶエログロな作風。正直人類が覇権取る世界もどうなんだと思う
こちらも作品を知らず。ありがとうございます。「正直人類が覇権取る世界もどうなんだと思う」いいですね。
azumi_s ソシャゲの「ブラック★ロックシューターFRAGMENT」がわりとそんな感じ。世界線が爆発的に分岐した影響で知性を持った野菜が支配する世界とか色々出てくる(そんなんばっかではないが)
へぇー、あのゲームってそんな感じですか。ソシャゲはストーリーの都合上、マルチバース取りがちですね。
たしかに『創世のタイガ』もこの気はある作品ですねぇ。いまはWebだけでしたっけ。
いや! まさしくそのイメージです! 思いついてたんですが、ゲッターをちゃんと補給したことなくて…。
dada_love FGOの第二部がまるっとそんな感じなのでおススメ
FGOもそんな感じなのかー! でもFGOは多分やらない…。ありがとうございました!
豊田有恒もこの手の作品を書いているんですね。あとはやっぱり恐竜系は多いか。
『地球の長い午後』ってそうなんすね。たしかに話題の趣旨から外れるけど、これはかなり読みたい。
Machautumn パラレルワールドものなのでちょっと趣旨と違っちゃうけど、ロバートJソウヤーの『ホミニッド-原人』はネアンデルタール人が支配する世界の話だったはず (未読なので作品の評価は控える)。
一緒に読みましょう!
イーガン、読んだり読まなかったりですが、『順列都市』(積読)ってそんな! ありがとうございます!
これね!
tcmsc 『アーロと少年』『サウンド・オブ・サンダー』
bokukanochat 銀魂が思い浮かんだ。いい設定だよなぁ
これもいくつか挙げてもらったけれど、そういえばそういう設定だったですね。江戸時代の改変モノは割と面白いですよね。
tomoP ネタバレになっちゃうけど、『Holy Brownie』では一番最初にホモ・サピエンスへ分岐した個体を殺しちゃうことで人類が絶滅する。その結果の世界が『エクセル・サーガ』
六道神士。すんなり読めるときと入り込めないときがあるんですが、なるほど。機会を探してみます!
hate_flag 地球人はじつは侵略者で、原生地球人たちは海底に生き残っていたというのがウルトラセブンの『ノンマルトの使者』(そして海底も侵略しちゃうんだ地球人…)
やっぱりウルトラセブンは避けて通れないんですね…。ありがとうございます。
rider250 ちょっと趣旨が違うけどバクスターの「タイム・シップ」(ウエルズの「タイムマシン」の続編)で時間旅行ポンポンできるようになった人類が恐竜時代より過去に遡って月まで開発してしまうのは壮大だったなあ。
pptppc2 ブコメで出てるクロノトリガーの数あるマルチEDの一つ「恐竜人が支配した世界」は、実は続編のクロノクロスでかなり重要な役割を持ってたことに驚いたよね。気になる人は是非クロノクロスをプレイしよう!(ダイマ)
もとひら先生はほんとうにすごい!
ちょっと変化球気味な気もしますが、たしかに!笑 永井よ永遠に。
kou-qana ちょっと違うかもだけど「天のろくろ」は…うーん、全然違うか。「今・この現在」が、なかったことになる感はあると思うけど進化史レベルではない…。パラレルワールドものにはありそう。
参考にさせてもらいます!
『星を継ぐもの』も似たようなニュアンスでしたよね(うろ覚え。『さよならダイノサウルス』ありがとうございます。
これSCPですか?
debabocho 意外と難しい。ソウヤーの『ホミニッド』は人類の代わりにクロマニヨン人が文明の主役として進化したパラレルワールドと行き来する話だけど、歴史改変じゃないし乗っ取られるわけでもないからなあ。
ROYGB 親殺しのパラドックスの種族版と考えれば昔のSFでありそうな気はする。新しい方のスタートレックの映画で、過去に戻ったボーグによって全人類がボーグになってしまい、それを阻止するのがあった。
スタートレックも押さえてそうなネタですよね。新版ではあると。
たしかに! そういえばそうでした! 光永康則も藤子・F フォロワーですからね。ありがとうです。
なるほど。ここまで挙げてもらった作品でも侵略側がっていう視点は少なかった。ありがとうです。
これはね、そうですよね。『創世のタイガ』の元ネタのような気もします。小松作品だとややズレますが『ホムンよ故郷を見よ』は似たような驚きをくれますね。
ともかく1年前、私たち楽観主義者は、現実に比べてデータが悪い数値を示している口実を探していました。いまはその逆です。悲観主義者たちが、データは誤った印象を与えていると主張しようとしています。ですが、その主張を通すのはどんどん難しくなっています。
——EBCの中期インフレ率目標は2%で、2025年のインフレ率は2.2%と予測されています。中央銀行の幹部たちはどこまで本気でこの0.2%にこだわると思われますか。
先のことについては、不確実なことが多いように思います。こうした予測は一貫して間違ってきました。インフレについては楽観しすぎで、雇用については悲観しすぎる傾向にあります。2.2%の予測を真に受けるべきかどうかというと、私はそうは思いません。自然利子率については明らかに不透明な部分が多いものです。
米国の場合、労働市場のデータや実体経済の状況を考えると、インフレ率が下がったことにそれほど驚きません。私が驚くのは、現在の金利で、いま以上の景気減速に至っていないことです。
インフレ率2%にこだわるべきか
——経済はこれまでのところ、うまく持ちこたえています。でも、この流れが行き過ぎるのを懸念されませんか。
インフレ率を2%に戻すには、いまより高い失業率が必要かもしれません。でも2%に戻すことは、そんなに重要でしょうか。セントラルバンカーたちは、「2%に戻せなければ自分たちの信頼に傷がつく」と思っています。たぶんそれは正しいでしょう。そして彼らはこうも信じています。「自分たちの信頼性はとても重要だ」と。でもたぶんそれは正しくありません。
重要なのは、「実体経済」であって「市場」ではありません。インフレとの闘いの上で「中央銀行の信頼性」が重要な要素だというセントラルバンカーたちの考えを立証するデータは実際、存在しません。
もちろん彼らの行動は経済に大きな影響を及ぼします。けれども「市場の彼らに対する信頼性が鍵を握る」とする信念は、彼らが思う以上に正当化できないものです。もし、あなたが中央銀行の総裁なら、あなたの一語一句に注目する金融関係者と一日中、話すことになるでしょう。けれども価格や賃金を決めるのはウォールストリートでも、ロンドンのシティでもフランクフルトでもありません。その意味でも、中央銀行の信頼性がどれほど重要かは、私には確信が持てません。
——彼らが、何百万件もの住宅ローンに影響が及ぶ金利を設定しても?
変動金利型住宅ローンの問題は、欧州では一種の歴史的なアクシデントなのではないかと思います。米国の住宅ローンの大半が15年か20年の固定金利である事実は、(金利の変化の)間接的な影響を防ぐのに役立っています。
——日欧米の中央銀行の総裁たちはポルトガルのシトラで開催されたフォーラムで、賃金上昇について警告しました。企業利益をめぐって何が起きているのでしょう。
「企業利益」のほうが「賃金」より伸びています。このため「賃金上昇」がインフレを直接牽引しているわけではありません。「企業利益」と「賃金」の伸び率の差のすべてではないにしろ、その一部は、市場支配力による搾取を反映しています。この状況を生み出した要因の1つは「強欲」でしょう。でも主な要因ではないと思います。
また賃金があまりに急速に上昇している場合、インフレを抑制することはできません。このような場合、欧州中央銀行(ECB)のラガルド総裁が賃金に注目するのは正しいと思います。賃金は、経済の過熱具合を監視する1つの指標だからです。そして賃金の急上昇は、ユーロ圏の経済が依然として過熱していることを示しています。
——国際的な機関は各国政府にインセンティブの廃止を呼びかけています。財政面ではどうすべきなのでしょう。
欧州の状況についてはわかりませんが、米国では、インセンティブは事実上すべて廃止されました。別の時代の、別の政治状況下であれば、いまこそ一時的な増税で需要を抑制するときでしょう。でもそのようなことは、起きません。
——増税ですか?
はい。米国では1967年と1968年にそのような増税が実施されました。リンドン・ジョンソン大統領が、インフレを抑える目的で一時的に所得税を上げました。いまでは考えられないことです。
——スペインでは7月の総選挙の際に、右派が減税を訴えていました。
そうですね、低税率は長期的には経済成長を刺激するという偉大なる“ゾンビ的思考”が存在します。欧州のすべての国は、米国よりずっと手厚い社会的セーフティーネットを備えています。これは概して良いことです。そうしたセーフティーネットが働く意欲を削いでいるようなことはありません。就労率は現在、高いですからね。
では現実的に見て、財政縮小はどうすれば実現するのかというと、支出はたいてい良いことのために使われています。増税は政治的にほとんど不可能です。ですから当面の間、すべては金融政策にかかっています。
——1970年代の世界的なインフレの危機のあと、米国では調整がおこなわれました。今回も同様の流れとなるのでしょうか。
米国のインフレ率は約9%から3%まで下がったものの、失業率はまったく上昇していません。ですから70年代のインフレのときとはぜんぜん違います。このため、このまま何もせずに乗り切れるのではないかと私は結構、楽観しています。この度のインフレを70年代のそれと重ねるのは無理があります。
いいえ、実際には米国ではその逆のことが起きました。インフレは貧しい人たちにより深刻な打撃を与えると誰もが考えるものです。でも実際には米国では、高所得者層より低所得者層の賃金の伸び率のほうが大幅に大きい状況が見られました。このため米国ではコロナ禍で格差がかなり縮小しました。1980年代以降、広がった賃金格差の4分の1くらいを回復できました。これは相当です。インフレ率を超える収入の伸びを経験したのは実際、賃金が最も低い労働者たちでした。
——でもスーパーで物価の上昇を一番、実感するのは低所得者では?
確かに、そうです。けれども、それはインフレが、食品価格やエネルギー価格に大きく反映される間のことです。食品もエネルギーも家計に占める割合が大きな品目ですからね。このため食品価格やエネルギー価格の上昇によるインフレが起きている場合、格差は拡大します。けれどもエネルギー価格は現在、ぐんと下がっています。また食品価格も米国では下がっています。
——人々は常に「問題は経済だよ」と言ってきました。でもスペインでは経済活動は活発化しており、雇用も増加していて、インフレ率も2%未満です。にもかかわらず、5月末の統一地方選挙で有権者は与党を評価しませんでした。私たちはいま、経済が最大の関心ごとではない、別の方向に向かっているのでしょうか。
そうかもしれません。米国では、昨年11月に中間選挙がありました。経済が極めて悪い状態にあったため、共和党が地滑り的な勝利を収めるだろうと誰もが思っていました。でもそうはなりませんでした。
スペインの世論調査がどのような傾向を示しているかは知りませんが、米国では妙なことが起きています。人に経済的にどんな調子かと尋ねると「結構いい感じだよ」と答えます。けれども国の経済はどうかと尋ねると、「ひどいね」と答えるのです。ですから本当に不思議なことが起きています。人々の実感は、経済的な現実とかなり乖離しているようなのです。
——スピーチのなかでソーシャルネットワークやメディアの影響力に言及されました。
米国には、さまざまな事柄についてポジティブあるいはネガティブな報道に触れたかを尋ねる調査があって、たとえば「雇用」に関してだと、こんな具合です——雇用ブームのなか、労働市場への新規参入者が月20万人から30万人いたにもかかわらず、多くの人が、見聞きしたニュースの大半は「悪いものだった」と答えたのです。その一因は情報操作です。米国には「フォックス・ニュース」があり、党派的なメディアもありますからね。
——その一方で「気候変動は存在しない」と主張するメディアがある。でもあなたがいらっしゃるスペイン北部はこの猛暑で……。
ええ。マドリードはもっと暑いんですよね。妻はテキサス出身なのですが、そこでは郵便配達員が倒れて、なかには亡くなった人もいます。とんでもない世の中です。
長期にわたる個人的な付き合いがあるポルトガルについてのほうが詳しいのですが……。でもスペインは比較的、良い状態にある国の1つだと思います。2010年代はじめの債務危機がいかに深刻だったかを思えば、経済は持ち直しました。なかにはかなり状況が悪化している国もあります。ドイツは、実際には人々が思っている以上に深刻な状態にあると思います。スペインはそれほどではありません。
Shin Hori氏の「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」というパワーワードが話題になっている。
ttps://twitter.com/ShinHori1/status/1686574496952758272
個人的な仮説だがこのパワーワードの起源は、旧社会党の綱領的文書であった『日本における社会主義への道』(以下、単に『道』と略す)にあるのではないかと思う。
『日本における社会主義への道』第一章第一節(3)福祉国家論批判
ttp://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_015.htm
(中略)
もとよりわれわれは彼ら(引用者注:資本家側)に譲歩を要求し、西欧先進諸国に比しいちじるしく立遅れているわが国の社会保障等をさらに前進させなければならないが、その彼らの譲歩にも「利潤の枠内」という厳然たる限界のあることを明確にし、またこれらの分配における部分的譲歩によって、基本的な生産関係における労働者の民主的要求を眠らせたり、勤労諸階層の革命的エネルギーを後退させたりすることのないようにしなければならない。
上記の引用文の「彼らに譲歩を要求し...」が、「社会福祉だけはあってほしい....」の起源ではないかと個人的には睨んでいる。但し『道』においては、この後に続く言葉は「アナーキスト」ではない。では何なのか。
同(3)
したがって、福祉国家論に対する闘いは、資本家の譲歩を一層拡大し、国民の要求と民主主義的進歩をかちとっていくなかで、資本主義の下では真の意昧での福祉国家は実現されないことを明らかにし、さらに革命を通じていわゆる福祉国家の限界を突破した社会主義にむかって前進しなければならないのである。
つまり、「社会福祉だけはあってほしい....」の後に続く言葉は、「資本主義。但し、その資本主義は社会主義化のつなぎに過ぎない」ということになる。
ちなみに『道』でいう社会主義とは、ソ連や中国とは異なる社会主義だそうである(詳細は同第二節「社会主義の原則と基本目標」を参照)。
『道』が示唆している考え方は平たくいえば、「福祉を拡充できるだけ拡充しろ。でも、給付と税負担の関係などトレードオフは考えない。だって、資本主義はどの道、社会主義に取って代わられるのだから」というものである。これは一見すると荒唐無稽な無責任に見えるが、実は筋が通った無責任である。例えば、3か月後に取り壊す予定の家に対して丁寧にメンテンナンスする必要はなく、好き放題して改造したり掃除をサボったりしても問題は起きないだろう。『道』の起草者たちにとっては、資本主義は3か月後に取り壊す予定の家のような仮初めのものであり、その維持に注意を払う必要性を感じなかったはずである。
『道』が旧社会党で承認を受けたのは1964年であり、まだこの時期の日本では社会主義化がリアリティーある構想であったことに注意する必要がある(日本が世界第2位の経済大国になるのは1968年)。問題は、資本主義が仮初めのものではなく、将来的にも社会主義化をしないのならば『道』の考え方はどうなるのか、である。
『道』を読むと、資本主義下での議会制民主主義に対するネガティブな評価が目につく。
http://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_019.htm
したがって、現存するブルジョア民主主義としての議会制民主主義を、勤労大衆は、形式にとらわれて、すべてがそのまま、価値あるものとして考えてはならないのであって、そこに資本家階級の支配が貫徹している支配機構としての側面を見抜かなければ、基本的な誤りをおかすことになる。
先の「筋が通った無責任」と相まって、これが左派知識人に無責任体質の種をまいたのではないかと、個人的には推測している。
『道』策定時は社会主義化がリアリティーある構想であったが、時代が下るにつれてそれは荒唐無稽になっていったと思われる。そのため、おそらく1970年代末以降は「但し、その資本主義は社会主義化のつなぎに過ぎない」の部分が忘れ去られた一方で、議会制民主主義に対するネガティブな評価は雰囲気として後世の左派知識人に継承され、「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」を誕生させたのではないか。「但し、その資本主義は...」を忘却し、議会制民主主義に対するネガティブな評価を雰囲気として継承された点が、「なんとなく」の部分として凝縮されているように思う。
『道』に通底する時代精神あるいは社会認識が、「貧困の文化」ならぬいわば「無責任の文化」を日本の左派知識人の間に醸成させてしまったように感じられるのである。