
最終回 メンバー3人で描く”未来”篇
音楽を続ける意味
ーー3rdアルバムのあとに、「ジャパニーズ ロック ファイター」が出ていますよね。いままでの楽曲とは少し色が違うように思ったんですが、これはどういった曲ですか?
「また帰るから/ピース・アンテナ」のときに、いままでにない少し違うイメージのアンダーグラフを、みんなに楽しんでもらおうって思ったんです。本物のミュージシャンってなんだろうって考えるようになって、リアルなのか、エンターテイナーなのか、生きざまなのか… それで、まずはエンターテイメントに特化した曲を作ったんです。
ーーこのシングルの印税はすべて寄付するという風に、この時期からチャリティーに関する話が出てきますね。
アンダーグラフっていうバンドの生きざまとして、なにかひとつしっかりとやらなきゃいけないなって考えていて。いろいろと調べていくうちに、「世界の子供にワクチンを 日本委員会(JCV)」(※1)っていうところにたどり着いて、すぐに電話しました。「どうしたらいいんですか? お金はどこに行くんですか?」って。
※1 : 寄付を募り、予防可能な感染症で命を落とす子どもたちが数多くいる国々に、ワクチン及び予防接種関連物資を送る活動をしている団体。

ーーそこにたどり着いたのはなぜですか?
Webで調べていてJCVにたどり着いたときに、まず聞いたことあるな、と思ったんですが、それがソフトバンクの和田(穀)投手が、一球投げるたびに10本のワクチンを贈るという活動でした。そういった活動をすることで自分のモチベーションにも繋がるし、ひとの役にも立てるしすばらしいことだなと思って。僕らも自分たちのなかでルールを決めて、できることがあったらやってみようかなって。日本はストレスの多い国だなっていうのも感じていた中で、ロンドンに行ったりして日本を離れると、僕が悩んでたことってすごく小さなことに思えたこともあって、もう少し広い視野で、自分の音楽とか生き方の意味付けもしたいし、みんなに知ってもらいたいっていう気持ちではじめました。
ーー音楽を続けることに対して、さらに自分のなかで意味が必要になったと。
そういうことかもしれません。見られかたとかじゃなく、音楽をやる意味というものですね。バンドを組んでメジャー・デビューすることって青春時代の夢なんですよね。そうではなくて、これから人生のパートナーとして音楽を続けていくってなったときに、夢だけでは続けていけないなって。音楽が好きで続けていくだけならわざわざメジャーじゃなくてもいいし、取材とか、テレビとか、ライヴでさえもやる必要ないなって思うんです。だからそこからさらに音楽をやる意味として、伝えていくことの意味をもうひとつ持ちたいなって。
ーー伝えたいっていう気持ちにプラスしてそれをお金に変える。ワクチンを届ける人には自分の音楽を届けたいっていうよりも、単純にお金を届けたいんだっていうことですか?
そういうことですね、そこは割り切って考えました。「僕が責任を持って届けるので心配しないでね」ということと、「20円で実際に助かるひともいるよ」というのを知ってほしかった。とは言っても、CDを買う人は僕らの音楽が好きで買ってくれるんだと思うので、その続きは僕らがやりますって感じでした。チャリティーをやることに胸を張って、こういう活動もしますってちゃんと言ったほうがいいかなって思って。メンバーとも話したんですけど、なんの迷いもないスタートでしたね。そこから心がちょっと軽くなりました。周りからなにを言われようが関係ないなっていう気持ちになれましたね。
ーーすごい変化ですね。
そうですね。「見つけた」って感じですかね。
ーー僕も東日本大震災のときにも活動をして。音楽って手段でいいんだって、悪い意味じゃなく思えたんですよね。
そうですね。東北の大震災以前にはいろいろな意見を周囲からもらうこともありました。でも阪神大震災のときも、東日本大震災のときも、メンバー全員で話し合って、自分たちのできることを気にせずにやろうっていう気持ちでした。
“いのち”をテーマにした4thアルバム

ーー4thアルバムを作っていくにあたって、プレッシャーから解放された感じ?
そうですね。チャリティー活動をやることによって、「ミュージシャンってこういう側面を持っていいんだ」ということに気づいてからは、続けていきたいっていう気持ちが生まれてきました。青春時代の夢は終わりに差し掛かってきたけど、これからは音楽がライフ・ワークになっていくんじゃないかって。
ーー3rdアルバムから4thアルバムというのは、精神的にも大きな転機だったんですね。ちょうど30歳くらいのときって、バンドを続ける上で大きな節目の時期ですよね。その時期に感じていたことは?
そうですね。僕らはできる限りやり続けようっていう考えだったので、まわりのひとに言われなければ節目とかって気が付かなかったかな。まわりから、「10周年の節目にあたってどうですか? 」って言われたから、そこでやっと考え出すっていう。
ーーチャリティーの活動を始めたことで精神的に変わることができて、4thアルバムに向かうことができた、と。真戸原さんの伝えたいことっていうものに変化はありましたか?
大きくは変わってないと思います。そこからさらに、人間が生まれてから一生を遂げるまでのアルバムを作りたいって思ってたんです。3rdアルバムの『呼吸する時間』は24時間を表現したので、次はひとの一生を表現するアルバムを作れたらいいなって。
ーーその思いは、4thアルバムで実現できましたか?
できたと思っています。熟したアルバムというか、アルバム・アーティストになれたかなって。すごく形にできたなって実感しました。
ーー4thアルバムのプロデューサーは誰ですか?
自分たちなんです。シングル曲以外は自分たちで。アルバムとしては初めてのことですね。

ーーこのタイミングで自分たちでやろうと思ったのは、自信がついたっていうこと?
そうですね。いろんなひとといろんなことをやった上で、また一旦自分たちでやってみようって。”いのち”っていうテーマのものを、自分たちで仕上げてみたいなって思いました。
ーー「アンダーグラフを知らなくても「ツバサ」って曲は知ってるでしょ? それがすごいところなんだよ」って僕あるひとに言われたことがあって。
曲があれだけ届いてるっていうのはうれしいですよね。「ツバサ」を嫌いになった時期も実はあるんです。でもいまは本当に作って良かったと思います。
ベスト・アルバムのリリース、そして新たなステップへ
ーー4thアルバムが出て、いまのアンダーグラフに向かっていっている感じですね。チャリティー活動は加速していった?
僕がずっとベストを出したいと思っていたこともあり、4thアルバムの後にベスト・アルバムを出したりと制作に費やす時間も多かったので、チャリティーに関してはさらに精力的にっていうわけにはいかなかったんですけどね。
ーーそれはどうして?
アンダーグラフのなかで、第一部が終わったと思っていて。さっきも言ったように「ツバサ」しか知らないひともいるだろうから、ベストにしたら他のシングルも聴いてもらえるかなって。いままですごく濃いアルバムばかり作ってきたと思うので、全部のアルバムを聴いてくれというのは難しい。それから、僕らのワクチンの活動に興味を持ってくれた人たちが話をくれて。湘南乃風の若旦那さんも声をかけてくれて、僕らの世代でチャリティーのようなものをやっているのは僕らくらいかなって思ってたんですけど、若旦那さんは堂々と、困っている人たちを助けるって言って活動をしているのを知って。何かホッとしたんですよ。ジャンルは違っても同じ音楽をやっている人間として、「LOVE FOR HAITI」(※2)に参加してみようって。
※2 : 「LOVE FOR HAITI」:MINMI、若旦那、Candle JUNEが、賛同してくれるアーティスト達と共に2010年1月13日(日本時間)に起こったハイチ大地震に対する支援を目的として立ち上げたチャリティー企画
ーーひさびさに、アンダーグラフの歴史のなかに違うアーティストが出てきましたね。
なかなか他のアーティストと繋がることができてなかったですからね。チャリティーって、常にひとがたくさんいるところでやっているわけじゃなくて、注目を浴びることがなくても本気で発信し続けてるし、他のアーティストのみなさんもいてもたってもいられない気持ちがあるんだなって思って。チャリティーをやることに関しても、僕たちは間違ってなかったんだって胸を張れました。
ーーアンダーグラフの第一部が終わったというのはなぜですか?
感覚ですね。アルバム・テーマとして、日常から時間、そしていのちっていう風に作っていって。いのちを作ったときに、一回なにか節目を作らないと次のテーマに進めないっていう感覚だったんです。いのちまでいってしまったから、その先が見つからなかった。

ーー大きく何かが変わったというわけではなく、ベストを出すということが気持ち的な区切りだったんですね。
そうです。ベストを出せるバンドって、そんなに多くないじゃないですか。すごいうれしかったですね。
ーー活動の方向を、バンドが主導になるようにしているようにも思うんですが。
そうですね。ここからはさらに出したいタイミングでリリースしてっていう風に、フットワークを軽くしていった。
ーーAcorn Recordsというレーベルを立ち上げましたね。
自分たちの責任において音を届ける名義としてそういうものを作りたいなって思ったんです。なるべく早くリリースをしたい気持ちもあったし、いろいろな話も直接自分たちでやるようになった。より集中できていると思います。
ーーほどなくして東日本大震災が起きましたが、震災の後はどんな活動をされたんですか?
Candle JUNEさんが立ち上げた「LOVE FOR NIPPON」(※3)に参加しました。原宿でみんなの服を売ったり、ツアーで私物を売ってお金に換えたりとか。ずっとチャリティーの活動をしてたので、体が勝手に動いたという感じでした。
※3 : 「LOVE FOR NIPPON」:東北大震災への復興支援を行っている団体。多くのアーティストが賛同し、寄付を募るためのライヴ・イベントなども開催している。
ーーそしてすぐにツアーも行なったんでしたよね。
そうです。東日本大震災の後、ツアーをやるかどうかかなり悩んだんですけど、色んなひとの声を聞いて、被災地ではない地域のひとたちも間接的に被害を受けて塞ぎ込んだりっていう現実があった。それを励ますことができたらっていう考えで、ツアーは決行しました。
ーー“いのち”までいったあとのテーマを日本にしたっていうのはどういった理由なんですか?
自分にとって一番大切でぐっとくるものはなんだろうと考えたときに、日本らしさ、というものが浮かんだんです。メロディにも日本っぽさを取り入れたりとか。
メンバーの脱退を乗り越えて
ーーそのまま2012年3月に、ギタリストの阿佐亮介さんがバンドを抜けられましたよね。どういった理由があったんですか?
ミニアルバムの『蒼の時』(2011年7月27日)を出したくらいの時期に、彼のバンドに対する気持ちにいろいろ変化があって。時間であったり、バンドに対する価値観であったりが合わなくなってきたという話を彼からされたんです。さすがにびっくりしたんですけど、非常に長い付き合いの仲なので、彼のなかですごく考えたことだと思ったんです。でも、口では「わかった」とは言いつつも、なんとか歩み寄れないかなと思って話し合いを重ねましたが、それでもやっぱりお互いに無理が生じてしまって、離れようという決断をしました。

ーー真戸原さん自身はどんな感情でした?
ぐちゃぐちゃでした。いままでこれだけ考えて作ってきたアンダーグラフをこれからどう進めていったらいいんだろうとか、どういう風に証明していったらいいんだろうって。応援してくれているひとに対してもすごく申し訳なかったし。でも、3人でも続けるっていうのは決めたので、それでも応援してくれるひとの期待に応えないといけないなと。アンダーグラフがこれからどういう風に残っていくかもわからなかったし、1個1個問題を解決していくっていう時期でしたね。僕がもう少し結果を出せる曲を作っていたら、いろんな運命も違っていたかもしれない、とも思ったし。阿佐からは、それは違うよと言われましたけど。お互いの人生と、アンダーグラフがこれから進んでいく道というのはやっぱり別のものなので、最終的にはすっきりできました。そこからは本当に必死でしたけど。
ーー他の2人のメンバーとはどういった話をしたんですか?
4人のメンバーのうち1人抜けたら、400%だったものが300%になってしまうから、1人120%頑張ってまず360%には持っていこうって。具体的に、100%を120%にする20%をどうやって頑張ろうかって話したり。相談しながらとにかくいろいろ試しましたね。阿佐というオリジナル・メンバーの存在が抜けた穴は埋められるものではないんですけど、じゃあそこから音楽をどうしていくか。変わった部分を、聴き手のみなさんに判断してもらいたいですね。
ーー今回の4か月連続シングルというのは、新たなアンダーグラフが固まってきた作品と言えますか?
そうですね。聴いてもらえたらわかると思います。
ーー真戸原さん自身もすっきりした?
すっきりして、自信に変わるくらいです。組んだばかりのバンドのようで全部新鮮で斬新ですね。いまはもう、できるっていう自信がついたので大丈夫だと思えます。
ーーいま真戸原さんが描いている未来っていうのはどんなものですか?
このメンバーで、ずっと音楽をやっていくことですかね。こうやって出会えたことは運命に近いものだと思うので。自分自身がベストだと思うものをずっと作り続けていきたいと思います。
(2013年4月2日OTOTOYにてインタビュー)
2013年3月6日(水)配信開始 第一弾「」produced by 藤井丈司
2013年4月10日(水)配信開始 第二弾「」produced by 島田昌典
2013年5月8日(水)配信開始 第三弾「」produced by 根岸孝旨
2013年6月5日(水)配信開始 第四弾「」produced by 常田真太郎(from スキマスイッチ)
PROFILE
アンダーグラフ

1997年に真戸原直人(Vo,G)、阿佐亮介(Gt)、谷口奈穂子(Dr)を中心に、前身バンドを大阪で結成。1999年に中原一真(Ba)が加入し、アンダーグラフとしての活動をスタートさせる。大阪城公園でのストリート・ライヴをはじめ、関西を中心に活動する。2000年夏に拠点を東京に移し、都内のライヴ・ハウスに出演。2002年にシングル『hana-bira』をインディーズからリリースし、その力強く繊細なメロディが各方面から注目を集める。2004年9月にはシングル『ツバサ』でメジャー・デビュー。女優・長澤まさみが出演したPVと共に話題となり、ロング・ヒットを記録。2006年には彼らの曲を原作にした映画「ユビサキから世界を」が公開され、大きな話題を集める。その後も初の海外レコーディング&ライブの実施、SUMMER SONIC 07への出演など、精力的に活動。2010年にはベスト・アルバム『UNDER GRAPH』をリリースした。2012年3月に阿佐が脱退し、3人体制で活動を続けている。