1997年の活動から多種多様な楽曲アプローチを見せ、つねにリスナーへ新鮮な聴きごたえを与え続けている「あらかじめ決められた恋人たちへ」。今回の新作は初の配信シングルであるとともに、彼らの楽曲中ではいち度も使用されなかった、「ヴォーカル」の要素が加えられた意欲作となった。さらにヴォーカル担当ゲストにはeastern youthの吉野寿が抜擢され、エモーショナルとの掛け合いがどのような混合を引き起こすか、期待が高まるところである。
このふたつの「初」が込められた新作の配信を記念し、今回の特集では「あら恋」の歴史を、バンマスの池永正二とともに振り返っていく特別インタヴューを公開。これまで語られることのなかった当時のエピソードや、彼らがたどったシーンを、じっくりと紐解いてゆく。
初の配信シングル、高音質で配信!
あらかじめ決められた恋人たちへ / Fly feat. 吉野寿
【配信価格】
(左)HQD(24bit/44.1kHz) 300円
(右)mp3、WAVともに250円
【Track List】
01. Fly feat. 吉野寿
2年3ヶ月ぶりのフル・アルバムを高音質で配信!
あらかじめ決められた恋人たちへ / DOCUMENT
【配信価格】
(左)HQD(24bit/44.1kHz) 単曲 300円 / まとめ購入 2,000円
(右)mp3、WAVともに 単曲 250円 / まとめ購入 1,800円
【TrackList】
01. カナタ / 02. Res / 03. Conflict / 04. へヴン / 05. クロ / 06. テン / 07. days / 08. Fly
影から光に向けて放たれた、轟音と祈りのメロディ…
幾多のフェス、ツアーを経験しスケール感の増した轟音インスト・ダブ・ユニット“あら恋”、2年ぶり待望のフル・アルバム。“旅立ち”をコンセプトに構築された、シネマティックに疾走するサウンドが胸を貫く。
>>2年3ヶ月ぶりのフル・アルバム『DOCUMENT』に関するインタヴューはこちら<<
INTERVIEW : 池永正二(あらかじめ決められた恋人たちへ)、16年を振り返る...
あらかじめ決められた恋人たちへは、同世代のイルリメやオールタイチ、Limited Express (has gone?)等に比べて、広がっていくスピードは、遅かったように思う。それでも、じっくりゆっくりと、少しずつ変化しながら、素晴らしく大きく羽ばたいた。それは、あまりにも美しく、めちゃくちゃ格好良い。彼の16年の歴史を読みながら、まだまだ広がり続ける未来を想おう。
インタビュー : 飯田仁一郎(Limited Express (has gone?))
文 : 高橋拓也
学生編
1998年
バンド結成。
年内解散。
以降、池永正二のソロ・ユニットとして活動。
――このあたりはまだ学生? どこでしたっけ?
池永正二(以下、池永) : 学生ですね。大阪芸大です。
――どういう人たちと出会いました?
池永 : 大学のなかに「イッショク」ってみんなが呼んでいた第一食堂があるんですけど、そこにいろんな人がたまってて。赤犬(※1)とか、同級生の山下(敦弘)くんとか。
※1 赤犬 : 14名もの大規模なメンバー数で活動を行うバンド。1993年に結成。アルバムジャケットがメタリカやブラック・サバスなどのパロディになっているためハード・ロックバンドだと思われがちだが、管楽器が多く導入されているため、楽曲はスカやファンクの要素の方が強い。『鬼畜大宴会』や『百万円と苦虫女』など映画音楽の提供も盛んで、こちらで彼らを知った人もいるのでは。
――山下くん?
池永 : 「リンダ・リンダ・リンダ」の映画監督。脚本家の向井康介くんとかもいてたし。あと、近藤龍人くん。「桐島、部活辞めるよって」の撮影カメラマン。VJやってるTHE RKPの斎藤洋平君とかもそうやんね。
――映像系が多いね。
池永 : 映像学科やったもん。そこに同級生で、「Back」のPVをつくってくれた柴田剛くんもいて。彼と最初にバンドを組んで。
――それがあらかじめ決められた恋人たちへ ?
池永 : いや、そのバンドは辞めて、高校の同級生と、バイト先の先輩と、芸大の同級生ではじめたのがあら恋。
――へー! 池永くんと柴田くんがふたりでバンドやってたらパンク・ハードコア以外はやってほしくないなあ。
池永 : ううん、ジャンク。パンク・ハードコアになれなかったんで、僕ら。トルーマンズ・ウォーター(※2)みたいなやつやってましたね。
※2 トルーマンズ・ウォーター : カリフォルニア、サンディエゴで結成されたインディ・ロック・バンド。結成当時流行だったこともありオルタナバンドとして語られることが多いが、ノイズやエクスペリメンタルな要素が強く打ち出され、同じロー・ファイ系アーティストの中でも、特に実験的要素が強いと評される。現在でも息の長い活動を続けている。
――それはいまの音楽性からすると外れてる感じもしますけど。
池永 : 動き的には完全にここがルーツだよ。ピアニカ弾いても「くっ! 」って入ったらジャンプする癖は完全にここですね。
――そのころの池永くんはピアニカじゃないですよね。
池永 : ボーカルとギターやってました。
――剛ちゃんは?
池永 : ベース。弾けないベース。毎回フレーズ変わるからよく怒られてましたよ。
――池永くんというと難波ベアーズだけど、そのころはベアーズに出入りしてた?
池永 : 出さしてもらってた。剛とやってたバンドで。でもライヴ決まってたのに、喧嘩別れして辞めちゃったからちょっと怒られたりして。
――喧嘩別れ? いまこんなに仲いいのに。なんで喧嘩したん?
池永 : やっぱり初期衝動だけじゃ続かないんですね。技術もないのに意識だけ高くって。音出してみたら思ってたのと全然違うし。再現できへんかって。そのギャップがおもろいバンドやったんやろけど、ギャップがどんどん大きくなってって、ドラム、ベースも「スピッツみたいなのがやりたい」って言いだすし。「いや、絶対無理やって! 俺ら、ジャンクバンドやろ? できへんって。」とか、ごちゃごちゃなってたときに剛と俺が喧嘩しちゃってそのまま。しかもフレンドリーっていうファミレスで喧嘩しましたからね(笑)。
――喧嘩別れして新たに組んだバンドが、あらかじめて決められた恋人たちへ。最初にあら恋を結成したときはどういうバンドしようとしてたの?
池永 : アモン・デュールII(※3)とドアーズ(※4)と町田康(※5)を足して2乗したようなやつ。基本的に轟音ループを繰り返して行く中で、“あらかじめ決められた恋人たちへ"って永遠叫び続けて、ブレイク合図にずばーって爆発! みたいな感じのがしたかった。
※3 アモン・デュールⅡ : 1968年から活動を続けている、西ドイツのロックバンド。クラウト・ロック(ドイツの実験的バンドを指す)の代表格として有名で、サイケデリックやプログレッシブを基調とした音作りに定評がある。ちなみに「Ⅱ」なのは、「Ⅰ」時代に脱退したメンバーが同名で新しいバンドを結成したためであり、ごちゃ混ぜになるのを防ぐために番号が付けられた。「それだったら改名したらいいのに」なんて言うのはタブー。
※4ドアーズ : ご存知、ジム・モリソンが率いるレジェンド・ロック・バンド。ブルースとサイケデリックの要素をいち早く練り込み、加えて暗く情緒的な詩を相まってアシッドな世界観を生みだした。不気味ながら妖艶なメンバーのルックス、反抗的なステージパフォーマンスも当時語り草となり、ヒッピー・ムーヴメントとはまた違ったヴィジュアルや思想を広め、今なお強い影響を与え続けている。
※5 町田康 : 『くっすん大黒』を皮切りに、不条理に対するいらだちとスピーディに突き進む文体で文壇界に名を轟かした小説家。かつて「町田町蔵」名義で、バンド「INU」を結成したことでも有名で、既にこの頃からソリッドな言語感覚が冴え渡っている。現在は小説家・詩人としての活動メインに据えているが、不定期ながら「北澤組」、「ミラクルヤング」など様々な名義で音楽活動も続けている。
――でもバンドを辞めるんですね。これ辞めたのはなんでなんですか。
池永 : 自然消滅。
――自然消滅。じゃあ池永くんがソロでやりはじめたのは、バンドなんかもうええわって思った?
池永 : 思った。2回も解散したし。もうこんなんめんどくさいわって。
――なるほど。それからソロで活動2年ぐらいしていくわけですね。
ソロ活動編
1999年
イルリメ「イルreメ短編座」にREMIXで参加。
2001年
赤犬「赤犬大全」にREMIXで参加。
2002年
「はっぴいえんどかばあぼっくす」にMIMI(池永参加の歌ものバンド)で参加。
――色々参加してるみたいですけど、円盤の田口(史人)さんから声かかる前はどういう活動をしてたんですか。
池永 : ひとり打ち込みで、そのころはもう鍵盤ハーモニカ吹いてたと思う。
――当時はピアニカなんか誰もやってなかったし。池永くんのスタイルは斬新だったというか。そんな人いるんやみたいな感じやったな。
池永 : 藤本由紀夫(※6)さんだったかな、現代芸術家の。その人が「音はちっさいほうが耳を澄ますから逆に爆音に聴こえる」みたいなこと言ってて。ヴォリュームはめい一杯上げても10までしかなくって、フルテンが限界。だったら音をどう響かすかはその状況を作らないといけない。ずーっと真っ暗のなか、目も暗闇に慣れた頃に最後にドカーンと客電ごと照明がむっちゃ明るくなって、同時に爆音が鳴ったらやっぱり音以上に大きく聴こえるとか。聴かせ方、見せ方とか考えてましたね。
※6 藤本由紀夫 : エレクトロニクスによるパフォーマンス・インスタレーションで活動を行う芸術家。ラジカセやコンポ、レコード盤やチューナーといった音楽機材・製品を空間的に用いた「サウンド・オブジェ」の発表が有名。ヴィジュアルのみならず、音の重なりを意識した表現も特徴的で、イタリアでは個展が行われるほどの人気を博している。
――見せかたを考えてた2年。
池永 : そうそう。対バンにバンド多かったから、打ち込みってバンドに負けるやん。カウント、ワン・ツー・スリー、ドーン! の段階でやっぱ負けちゃうんで。そこに勝つには、逆にものすごいちいさい音から始めてブレイクでドカーン! とか、目で聴かせるためにはどうしようって、よう考えてましたね。
――それはいまでも通じてて、基本的にやっぱり映像で見えてるんですね。
池永 : もともとね。そこからはじまってるのかな。
2003年
1stアルバム『釘』を円盤田口史人のレーベルよりリリース。
「加藤和彦トリビュート・アルバム~catch35~」にcotton with AKKKE! で参加。
――そして『釘』を出して。そのころはどんな気分だったんですか?
池永 : めっちゃうれしかった。やっとCD出せるって。やっぱあのころってCD出すのが夢だったからね。でも出しただけ。やっぱり悔しかったもん。シローくん(SHIRO THE GOODMAN)(※7)も山下くんもイルリメもみんな東京でガッツリやってて。取り残されたなあって。
※7 SHIRO THE GOODMAN : レゲエからロック、さらにはインダストリアルまでオール・ジャンルの楽曲を絶妙にMIXするスタイルで話題を呼んだDJ。古着屋からポルノ・ショップ、その後に音楽活動を始めたという、紆余曲折の謎の経歴を持つ。
――このころはベアーズで働きながらの時期ですよね。
池永 : そうですね。
――このアルバムを出すことで状況が変わった?
池永 : そこまで変わらへんかった。思い描いてたものとはぜんぜんね。
――どんなものを思い描いてましたか。
池永 : もうちょっと状況がよくなるんかなって思ったら、出したからって良くならないもんな。他力本願じゃだめだよね。名前は知られるようになってきたとは思うんですけど。
――で、その状況があまり変わらなくなって、2枚目をハヤブサランディングス(※8)から出すんですよね。
※8 ハヤブサランディングス : 渋谷に存在する音楽レーベル会社。国内外問わず人気盤のリイシューを積極的に行っており、近年では70~80年代ニュー・ウェーヴ系アーティストの初CD化が怒濤の勢いで展開中。国内ではミオ・フーや頭脳警察などの紙ジャケット&リマスターを担当。
シフト制のバンド編成
2005年 2ndアルバム『ブレ』をハヤブサランディングスよりリリース。
このころよりバンド編成になる。
固定メンバーはおらず、シフト制。
基本メンバーはキム(ドラム)、上條理枝(ベース)。
8月 あらかじめ決められたボロフェスタ~ボロフェスタ プレイベント+あらかじめ決められた恋人たちへレコ発京都編~
池永 : これは結婚して、ベアーズでは食べていけへんから辞めて、就職して働きながら作ったアルバム。
――池永くんが営業やってるって聞いてどんだけびっくりしたか。
池永 : 営業じゃなくて配送のつもりで行ったら、ルート配送しながらスーツ着ての営業やったん。勿論しんどかったけど、でも楽しかった。人に恵まれてたというか。外回りやったから、ほんといろんな人がおって合う人、合わん人、人それぞれいろんな事情があってそれを良しとしてやってるんで、そこには踏み込めないというか。踏み込むんじゃなくって、その風景を描くというか、その交差するシーンをどの視点で鳴らすのか、どういった想いを入れこむか。やっぱ偉そうなこと言えないよ。モラトリアムじゃないもん。もう。
――このころにキムとかと出会ったんだよね。キムはなんでしたっけ、バンド。
池永 : ヨガタイランド。
――劔も一緒だった?
池永 : 劔は、イデストロイド(※9)。どっちもよくベアーズで観てた。
※9 イデストロイド : 永井心臓(SYNZOU)による、「破壊とは創造のための一つのツール」をコンセプトとしたソロ・プロジェクト。バンド時代にはあふりらんぽやオシリペンペンズ、蕊(ZUINOSHIN)などとともに関西ゼロ世代を率先した。2005年に一旦活動を停止するものの、2010年に心臓ソロで復活、アメリカ・ツアーや音源の発売など、より積極的な活動を進めている。
――でも劔はまだメンバーではなくて。
池永 : そう。キムと、スピードライターってバンドにいた上條さんが基本メンバーで。でもみんな仕事してて忙しいから、いろんな人になんとなく曲を覚えてもらって、ライブの日に予定が空いてる人に演奏をお願いする「シフト制」。だから「この日、メンバーのスケジュールが合わなくってライブできません!」ってのがなかった。シフトが合わなくってできないのは有ったけど(笑)。
――このころから僕らもすごい仲良くなって。
池永 : 「あらかじめ決められたボロフェスタ」とかやったもんね。
――たしか屋根の上で叫んでた。
池永 : なんか登るの流行ってた(笑)。より高いとこに登ろうって。
――ここはポイントだと思うんですけど、状況はよくなってるけど、もっと認められたい、もしくはもっと売れたい、もっと活動を広げたいって気持ちが当然あったんですよね。
池永 : そんなになかった。仕事しながらやれたら良いかなって思ってた。でも趣味ほど軽くはなく、もっと重かったけど。「あわよくば有名」っていう宝くじ的考え方。当たるわけないよね。くじ運ないし。
――状況はよくなってきてるけど、まださほど変わらなかった?
池永 : うん。それで食っていけるってのはなかった。そうそう、それで「パンク侍」っていう舞台を大阪でやらしてもらって、それは大きい。
2006年
演劇「パンク侍、斬られて候」(山内圭哉主演・脚本町田康原作)の音楽を担当。
――このきっかけを訊かせてもらってもいいですか。
池永 : 山内圭哉(※10)さんという役者さんがいるんだけど、もともと柴田くんとやってたバンドでよくお世話になってた人なんです。その人が「劇伴やらへんか? 町田さん好きやろ」って誘ってくれはったんですよ。で、山内さんが東京住んでて、「マンションの上が空いてるから、ほんまに音楽で食っていきたいなら東京来い」って。メジャー契約もなにもないアングラ出身の既婚、30歳超えたおっさんやからね。一秒考えたらなし! 未来なし! なんだけど、音楽で勝負するんならもうそろそろ最後の歳やし。やっぱり就職してみてなおのことさら音楽がしたかったし、「俺の方がもっとおもろいことできる!」とも思ってたし、それは今でも一緒なんだけど、なんせやらんと後悔するのは分かってたので、だったらやったろと、やるんなら絶対音楽で飯食ったろ、と腹決めて東京に行くことにしました。とか言いつつ内心グラグラやったけどね。何をどうしたらええか全く想像できひんかったし。結構楽観的やったんかもしれへん。
※10 山内圭哉 : 時代劇や演劇での活躍で有名な俳優。児童劇団からキャリアをスタートし、一時期には中島らもが主宰していた劇団、リリパットアーミーに中心メンバーとして在団していた。The JizzMonks、hate77のバンドメンバーとしても活動していたが、こちらの活動は現在停止中。
東京編
2007年
10月 池永、東京に移住。先に来ていたキム(ドラム)、劔(ベース)が固定メンバーとなり活動。途中より、時々参加していたKuritez(テルミン・パーカッション・鍵盤ハーモニカ)も固定メンバーに。
「誘われたライヴは断らない。どんなイベントでも全てやる」をモットーに月5~6本のペースでライヴを行う。
――で、キムくんと劔が固定メンバーに。劔がベースになった理由はあるんですか?
池永 : 知ってたし東京おるからって簡単な理由もあるけど、いいベース弾くなって思ってたから。もともとガレージとかロックやんか。重いベースって弾いたことなかったぽくて、大変そうだったよ。やりだすと楽しんでましたけど。今じゃ、逆に「ちょっと重過ぎひん?」ってくらいです(笑)。
――Kuritezさんとの出会いは。
池永 : ベアーズに出てて、昔から知ってました。東京でライブする時はよくテルミン弾いてもらってたから、その流れで「東京に引っ越したんでまたやりませんか。」って誘いました。
――「誘われたらライヴは断らない。どんなイベントも全てやる」というバンドの運営、道筋は、池永くんが大阪とは比べようにもなんないぐらいブランディングしてるなって思った。
池永 : なにやったらええか全然分からなかったから、「じゃ全部やったろ!」って思って。だから全然プランできてないよ。無理してでもやって、やりまくって、じゃあその中で出会いも出来てくる訳で。東京はミュージシャンに限らず音楽で食べてる人が多いじゃないですか。いろーんなやり方があっていろんな生き方があるんやなぁって。いろんな人に出会って、なんやかんやと話してるうちに自分にフィットするやり方がやっと見えてきたんかな。
――ここからバンドっぽくなってくよね。なにか理由はあるんですか。
池永 : いや、完全に流れで。バンドの流れができてた。流れって自分のやりたいことが周りと合致した時に流れ出すもんのような気がしてて。でも『カラ』はバンドじゃないんですけどね。打ち込みで僕が作ってる。
2008年 9月 「sense of wonder」出演。このイベントより照明とふたりのDUB P.A.をメンバーに加え、ショーとしてのライヴを強化。
10月 3rdアルバム『カラ』をmaoよりリリース。
――この『カラ』を出すころはどんな音源を作りたいとかあったんすか。
池永 : 大阪ではお客さんが踊ってくれることがあんまりなくて。ぼーっと観てる、品評会みたいな感じが多かったんだけど、東京来たら徐々に躍ってくれだして、それがやっぱり嬉しかって。じゃあ、もっと躍って欲しくって。自分自身も躍りたくって。それでダンサブルな要素ってこのアルバムでグッと増えた。
――maoでのリリースってのは?
池永 : 友人の繋がりで。今もうちでP.A.やってもらっているイシモトさんのレーベルですね。
――ここからは照明、DUB P.A.や、ロカペニス(※11)も入ったり、どんどん大所帯になっていくけどこれはどういう意図?
池永 : それこそ「釘」の頃に戻って、聴かせ方、見せ方を考えたライブにしたくって。いろいろと賛同してもらえる人とも出会えたし。
※11 ロカペニス : サイケアウツGやあら恋などのライヴ上映用の映像担当、「ROMZ」、「MIDI_SAI」などのクラブイベントVJとして活動している映像作家。インスタレーションや実験的な試みについても積極的で、監視カメラを50台用いた「パラレルワールド殺人事件」、人物パフォーマンスとVJ&DJを巧みに混ぜ込んだ「ロカペニスの時空アイランド」などがその代表作に当たる。
――したかった理由は?
池永 : 『ストップ・メイキング・センス』(※12)とかやっぱり好きだったから。最終ああいうのがしたいんです。ショーですよね。
※12 : 1984年に公開された、トーキング・ヘッズのライヴ・ドキュメンタリー映画。80年代に入り絶頂期を迎えたヘッズのハイテンションパフォーマンスを収録。この作品で取材が行われたツアーで、最終的にヘッズとしては最後のライヴとなっただけあり貴重な記録として人気が高い。
――ショーというより、映画にしたい?
池永 : ぜんぶ一緒やん。映画も音楽も演劇も。やっぱりショーなんですよね。
――その考えは意外とレアな気がする。
池永 : PAも照明も全体を構成したセットリストだけど、セットリスト上で演奏しているバンドマンは「構成感」とは真逆のロックロックした演奏でグワアアアって渦巻いてる。そこはうち独特のもんじゃないかな。普通、構成感か演奏感かのどっちかに寄りそうだし、寄らないと中途半端になりそうだけど、なんかほんま変なバランスでなりたってるのがうちなんで。前からのピンスポットは使わないから顔は見えないんだけど、シルエットだけにしては演奏姿が派手。ヒョンヒョン跳ねてるし。分かりづらい(笑)。でもそれがあら恋やったりするんよね。
2009年 7月 ライヴ・アルバム『ラッシュ』をmaoよりリリース。
ライヴレコーディングされた素材を「LIVE=生活」をコンセプトに再構築したフェイクメンタリーCDと、ライヴの模様が収録されたDVDの2枚組。音は「ギターウルフとスタジオワンを足してかけ算した感じ(池永)」を目指して制作された。
――この『ラッシュ』は素晴らしい作品ではあるんですけど、バンドを組みたくないってところからライヴ・アルバムを出すのはえらい変化じゃないですか。
池永 : … 結構いややったんですよ、はじめ。ライヴ・アルバムなんて、ライヴ観に来たほうがいいに決まってんじゃん! っていうのはあったから。でも出すんだったら、ライブを再構築して、たとえば1曲目はライブ録音当日に実際にライブ会場に着くまでの音をレコーダーで録音してそれを使用して、2曲から本編ライブの1曲目が始まるみたいな。
――池永くんはストーリーやパッケ―ジを大事にするね。
池永 : それの方が買ったとき嬉しいやん。自分が買って嬉しいもんを作りたい。作品やし、残るからね。
2010年
4月 “Dubbing 01"@渋谷O-nest(ワンマン)
「あら恋にしかできない、音も照明も演出も全てをしっかり作り込んだ2時間くらいのショーをやろう」というコンセプトのもと、対バンもDJも一切なしの完全ワンマン企画スタート。
――この2010年のあたりからワンマンを始めるんですね。
池永 : 年間5、60本やってるあら恋が実際どんな状況なのか、ワンマンでやってみましょうって話になって。
――ワンマンを年2回とかやりだして、このあたりからだいぶ状況が変わりだしたよね。『ラッシュ』を出してワンマンがソールドしたり、どんどんあら恋がひと回りふた回り大きくなっていく感じがあった。池永くんは自信とか手応えはあった?
池永 : ステージに出てくるだけで拍手鳴るって思い描いても無かったから、びっくりして、変わってきたなあって思いました。
――そしてその1番盛り上がってるときにPOP GROUPから出すわけですね。
2011年 4th アルバム『CALLING』をPOPGROUPよりリリース。
3月20日 新代田FEVER 義援金ワンマンライヴ。以降毎年開催。
12月 “Mixing 01"@shibuya WWW あらかじめ決められた恋人たちへ(ライヴ) VS ライヴテープ(映画)
シグナレス(池永正二×ゆーきゃんのユニット)1stアルバム『NO SIGNAL』をfelicityよりリリース。
――POP GROUPとやった理由は?
池永 : KAIKOO POPWAVE FASTIVALに出て、社長の坂井田裕紀くんと喋ると、ものすごく感覚が近くって。歳も近いから見て来たものも似てて。こんなアルバムにしようとか、躍りながらもなんかグッとくる感じって良いよね、とか。どっちかっていうとミュージシャンと喋ってる感じで。ほんと出会いですよね。だからこれも自然な流れでリリースする事になった。
――シグナレスは長いことやってて、やっとリリース。2011年っていうのは結構池永くんにとっていい時期ですね。
池永 : シグナレスもずーとぼちぼちやってたから。でもリリースに至ってはほぼ新曲で。昔の曲ってやっぱりその時代の昔の曲やねんね。で、シグナレスの曲作りで幅も広がって。リリースした後に「CALLING」出して。やっとフジロックもフィールドオブへブンっていうとても良いステージに出させてもらって、RISING SUNにTAICO CLUBに、ほんといろいろ出させてもらったんで、見る景色、見ようとする景色がガラって変わってきました。もちろん即ソールドアウトみたいなバンドではないですけどね。自分なりに牛歩な感じ。ゆーーーっくりと一歩一歩踏みしめていく感じで進んでるよね。
――ほんとにレアなぐらいゆっくりやもん。でもそれがいまになって実を結んでるってことなんだよ。
池永 : ちびちびね。遅すぎるよね。
元々何がやりたかったのか、どんな夢を描いていたのか、もう1度考え直す時期に来ていると思う
――いま状況としてはすばらしく良くて、次の5枚目で池永くんが選んだのが自主レーベル。ここからは次回へ移らせてもらいますが、僕が今回聞きたいのはこれとは別で2点あります。まず、あら恋の変わってきたものと変わらないものっていうのをちょっと言葉で言ってもらおうと。
池永 : 変わらないものは、根本的に全部一緒だと思うけど。でも確実に変化してるよな。うーん……。俺は主義とかないと思うんだけど、逆にいやなものとか違和感とかはものすごくあって。なんかもやもやする対象ってたぶん昔から一緒やと思う。大きいもの、大多数のものとか、中心に居るものとか、逆にいじけて建前ばっかりでガチガチになってるものとか、やっぱり違和感があって。もっと建前省いて自由にやったらええのにって思う。そら責任は伴うけど、それを乗り越えたときの風景って、ものすごい広がると思うよ。絶対お金は必要だけど、その上で自分は元々何がやりたかったのか、どんな夢を描いていたのか、もう1度考え直す時期に来ていると思う。変わって来たのはそこら辺かな。「夢」って言葉だけでものすごい拒否感があったけど、3・11以降、素直に夢に向き合えるようになった。自分は何がしたかったのか、何をしていきたいのかって。それこそいらん建前がどんんどん省かれていって、ものすごいストレートになってきてるよ。
――ドパンクをやりたくない、ロックとかそうじゃないところっていうのが、それこそアモン・デュールIIやセバドー(※13)とか、そういう世代と関係があるのかなって。
池永 : 衝撃的やったもん。昔からロックスターって俺ら絶対無理やって思ってて。「ヒーロー」「人気者」っていうのに憧れつつもいじけちゃって、結局身の丈にあわなかった。だからニルヴァーナが出てきたとき、びっくりせえへんかった? ものすごく暗そうなやつがギターをあーーーって弾いてる。それが何万人に受けてる。そういうのに「よーし」っていう感じがあるんかもね。なんかある。
※13 セパドー : ダイナソーJr.のベース、ルー・バーロウが一時的に脱退していた期間に結成したバンド。活動としてはルーのソロ活動としての色合いが強く、ペイヴメントやリズ・フェアといったバンドとともにロー・ファイサウンドを確立した。オリジナル・メンバーでダイナソーJr.が再結成されたので、現在は活動していない。
――そのしこりが、あら恋の変わらない、やっぱり変なとこですよ。現実にストレートじゃない。特に、今作とかは新しい音楽を取り入れて自分たちのものにしていくっていう欲深さっていうのは非常にいい意味で感じたので。
池永 : ありがとうございます。
――変な話だけど、曲紹介のところにはっきりとアニマル・コレクティヴを自分で消化したって言えるかっこよさ。だってアニマル・コレクティヴなんか世界的にみても、この2、3年ダントツでかっこよかったわけで。新しいギター・ロックよりかっこよかったわけじゃん。あのビートでなんだこれって。
池永 : 弱そうな兄ちゃんがね。
――そうそう。それを斬新にどーんと取り入れてどーんと出すって。
池永 : まずは全部食べてみようって思って。体内に入れないと解釈も何もないからね。
――結局それじゃないですか。どう解釈するか。
池永 : 自分なりにどうやるか。アニコレのあの微妙なサイケ感ってうらやましかったからね。でもうちはベースがDUBのフレーズやから躍れる! とかね。
――それをはっきり言うのがかっこいいなあって。
池永 : 言ったところでなんも変わらないんやけどね(笑)。
――まあまあ(笑)。じゃあ最後にeastern youthの吉野寿さんとつくった『fly』の話を聞かせてください。どういう経緯だったんですか?
池永 : eastern youthの自主企画の「極東最前線」に出させてもらってライブ観たらもう… やっぱりものすっごいぐっときて。「歌ってもらいたい!」と思って電話させてもらったら「了解!」って。「やったぁ!」って。
――あれはすごくいい曲やし、eastrn youthを表現してるなって思った。まさか語りから入って。
池永 : 伏線を作りたかってん。それこそ映画的に。物語が始まる感じがするでしょ。あの語りの雰囲気は椅子の音だろうと、何かで使えたらとリアルタイムでとっておいた椅子が軋む音をはめ込んだり。僕の中で、あの語りのシーンは椅子の軋む音が象徴的なんです。
池永 : なるよね。叫ぶまでが長いからよけいに。前半、なるべく優しく、ささやくように歌ってもらったんですが、その声がまたすごい染み渡るんよ。で、その分、後半爆発しようよ、って二人でいろいろ話しながら録音しました。あの叫びを何回も録ってたからね。「違う。もうちょっとやってくれ。」って。前傾姿勢で。すっごいよ、やっぱり。 本当にいい曲ができたよ。
――うん、わかりました。今回はここまでで。ありがとうございました!
LIVE INFORMATION
"Dubbing 0" あらかじめ決められた恋人たちへ Release TOUR 2013 [LIVE DOCUMENT]
2013年9月4日(水)@下北沢SHELTER 先行リリースライヴ w/Homecomings
2013年9月22日(日)@京都メトロ w/LAGITAGIDA
2013年11月1日(金)@梅田Shangri-La(ワンマン)
2013年11月2日(土)@名古屋CLUBUPSET (ワンマン)
2013年11月9日(土)@代官山UNIT (ワンマン)
2013年11月16日(土)@天神graf w/LAGITAGIDA、チーナ、百蚊、Hearsayrs
2013年11月23日(土)@YEBISU YA PRO(all night)
KI-NO Sound × levitation presents
あらかじめ決められた恋人たちへ & LAGITAGIDA W Release Live
2013年9月22日(日)@京都メトロ
MINAMI WHEEL 2013
2013年10月12日(土)、13日(日)、14日(月・祝)@大阪 ミナミエリア ライブハウスなど
STARS ON 13
2013年10月13日(日)@岡山 美星町 中世夢が原
PROFILE
あらかじめ決められた恋人たちへ
池永正二(鍵盤ハーモニカ、track) / kuritez(テルミン、Per、鍵盤ハーモニカ) / 劔樹人(Ba.)/ キム(Dr.) / 石本聡(DUB P.A.) / 宋基文(P.A.) / 松野絵理(照明) / etc…
1997年、池永正二によるソロ・ユニットとしてスタート。叙情的でアーバンなエレクトロ・ダブ・サウンドを確立し、池永自身が勤めていた難波ベアーズをはじめとするライブハウスのほか、カフェ、ギャラリーなどで積極的にライブを重ねる。2003年には『釘』(OZディスク)、2005年には『ブレ』(キャラウェイレコード)をリリース。このころからリミックス提供や映画 / 劇中音楽の制作、客演などが増加。2008年、拠点を東京に移すと、バンド編成でのライヴ活動を強化。そのライブ・パフォーマンスと、同年11月の3rdアルバム『カラ』(mao)がインディー・シーンに衝撃を与える。2009年にはライヴ・レコーディングした音源を編集したフェイクメンタリー・アルバム『ラッシュ』(mao)を発売。2011年、満を持してバンド・レコーディング作『CALLING』をPOP GROUPからリリース。叙情派轟音ダブバンドとしてその名を一気に知らしめ、FUJI ROCK FESTIVAL、RISING SUN ROCKFESTIVAL、朝霧JAM等、大型フェスの常連となっている。2012年、2曲30分からなるコンセプト・ミニ・アルバム「今日」を発表。それに伴う恵比寿リキッドルーム公演から始まるワンマン・ツアーも大盛況に終わる。
またPVにおいても、柴田剛監督による「back」や、17分に及ぶ「翌日」等、話題を集めており「踊って泣ける」孤高のバンドとして独自の道を切り開いている。